第二十五話 兄妹会議
朝が来ても、夢の灰は消えなかった。
黒い太陽。
灰の降る街。
九つの尾。
世界が一度、なかったことにされた未来。
蒼麻は、谷中の古いアパートの台所で、冷めた茶を見つめていた。
窓の外には、いつもの朝がある。
自転車の音。
遠くの寺の鐘。
誰かが洗濯物を干す気配。
世界は終わっていない。
それなのに、胸の奥にはまだ、あの黒い太陽が残っていた。
スマートフォンを手に取る。
麻那へ電話をかけるまで、少し迷った。
迷ったことに、自分で苦笑する。
「……隠されるのが嫌だったくせにな」
通話ボタンを押す。
数コールで、麻那が出た。
『お兄ちゃん?』
声が早い。
たぶん、待っていた。
「麻那。今日、時間あるか」
『ある』
即答だった。
「まだ要件を何も言ってない」
『お兄ちゃんが朝に電話してくる時点で、普通じゃないもん』
「兄への信頼が独特だな」
『どこで話す?』
蒼麻は少し考えた。
「和灯は夜だし、神代の会社は嫌だ」
『じゃあ、お兄ちゃんの家に行く』
「来るのか」
『行く』
その声に、迷いはなかった。
電話を切ってから三十分ほどで、麻那は来た。
早い。
怖いくらい早い。
「近くにいたのか?」
「少し」
「監視か?」
「心配」
「言い換えが上手いな」
「言い換えてないよ」
麻那は玄関で靴を脱ぎ、部屋に上がった。
蒼麻の部屋は相変わらずだった。
小さな台所。
本棚。
酒器の並んだ棚。
空き瓶が数本。
麻那はそれを見て、少しだけ表情を緩める。
「お兄ちゃんの部屋って、相変わらず酒と本の匂いがするね。安心する」
蒼麻は返事に困った。
二人は低いテーブルを挟んで座った。
麻那は正座。
蒼麻はあぐら。
子どもの頃から、こういうところは変わらない。
「夢を見たんだ」
蒼麻は切り出した。
麻那の表情がすぐに変わる。
「どんな?」
「黒い太陽。灰の降る街。九尾狐」
麻那の顔から血の気が引いた。
「……九尾狐が出たの?」
「出た。話しかけてきた」
「何を言われたの」
「俺の中にある欠片は九尾狐のものだって。人でいることを選ぶなら欠片は力になる。人であることを手放せば、欠片は九尾狐へ戻るって」
麻那は両手を強く握った。
「……ついに、直接来たんだ」
「ついに?」
蒼麻が聞くと、麻那は目を閉じた。
少しだけ呼吸を整える。
そして、まっすぐ兄を見た。
「お兄ちゃん。もう隠さない」
その言葉は、宣言のようだった。
「お兄ちゃんには、生まれた時から九尾狐の大きな欠片が宿ってる」
蒼麻は黙って聞いた。
「普通なら、人として育つのは難しかった。感情も、欲も、記憶も、現実の感覚も、九尾狐の欠片に侵されて、たぶん壊れていた」
「まともな人間じゃいられなかったってことか?」
「うん」
麻那の声は震えていた。
でも、逃げなかった。
「父さんは、それを封じた。お兄ちゃんの中の九尾狐の気配を、神代にも、怪異にも、妖狐にも感知されないように消した」
「二十年以上」
「うん」
「そんなこと、できるものなのか」
麻那は首を横に振った。
「普通は無理」
少し間を置いて、言った。
「だから、父さんは普通じゃなかった」
蒼麻は小さく笑った。
「褒め方が神代だな」
「褒めてるけど、怖がってもいる」
「分かる気がする」
麻那は続ける。
「父さんは、お兄ちゃんをただ封じたわけじゃない。完全に閉じたら、器が腐る。だから、御神酒と地酒を通して、全国の土地の気脈を少しずつ取り込めるようにしようと考えた」
「俺の酒好きが、封印維持の一部だったって話だな」
「うん。でも」
麻那は言葉を選ぶように言った。
「父さんは、酒を鎖にしたくなかったんだと思う。お兄ちゃんが楽しく飲んで、土地とつながって、普通の人として過ごせるようにしたかった」
蒼麻は、雨守の酒を思い出した。
――酒を、呪いにするな。
「勝手だよな」
「うん」
「だけどそれは愛情でもあった」
「うん」
「そこが一番、腹立つな。文句が言えなくなる」
麻那は泣きそうに笑った。
「うん」
しばらく、二人は黙った。
部屋の外では、いつもの朝が続いている。
蒼麻はぽつりと言った。
「麻那は、いつから知ってたんだ」
「全部じゃない。でも、父さんが亡くなる少し前から」
「きつかっただろ」
麻那は目を伏せた。
「きつかった。でも、お兄ちゃんの方がきつい」
「比べなくていいよ」
その言葉に、麻那の目が揺れた。
「……うん」
蒼麻は息を吐いた。
「俺は怒ってる。父さんにも、神代にも、麻那にも」
麻那は頷いた。
「でも、麻那だけに怒り続けるのは違うとも思ってる」
麻那の目から、涙が落ちた。
「ごめん」
「謝罪は今後も受け取る」
「うん」
「でも、謝るだけで終わらせるな」
麻那は顔を上げた。
蒼麻は言った。
「これからは、隠すな。俺が聞いたら、答えられる範囲で答えろ。答えられないなら、答えられない理由を言ってほしい」
「わかった」
「俺を守るために勝手に決めるな」
麻那は少しだけ迷い、それから頷いた。
「努力する」
「そこは即答じゃないんだな」
「嘘はつきたくない」
蒼麻は苦笑した。
「それでいい」
その時、窓の外から蝋梅の香りがした。
麻那が顔を上げる。
「真響さん?」
蒼麻は窓を見る。
「たぶんいる」
「入ってこないの?」
蒼麻は口に手を当てて言った。
「兄妹会議だから遠慮してるんだろ」
「真響さんが?」
「たぶん」
窓の外から声がした。
「聞こえているぞ」
蒼麻は少し笑った。
「聞こえるように言った」
「性格が悪い」
「最近、狐に鍛えられてる」
麻那が小さく笑った。
少しだけ、空気が緩む。
だが、その緩みは長く続かなかった。
麻那のスマートフォンが震えた。
画面を見た瞬間、麻那の表情が変わる。
仕事の顔だった。
「何だ」
蒼麻が問う。
麻那は画面を見せた。
神代商工会監査部
緊急通知
内容は短い。
企業監査現場にて、社員の影が残業を継続。
本人帰宅後も、影のみが書類作成・押印・報告を実行。
虚偽報告の自動増殖あり。
案件名仮称:影踏み監査。
蒼麻は目を細めた。
「影だけが残業?」
「うん」
「労基に怒られる怪異だな」
麻那は真顔で言った。
「たぶん、神代一族の誰かが仕掛けた」
「またか」
「お兄ちゃんを試すためだと思う」
蒼麻は額を押さえた。
「兄妹会議の直後に、監査案件」
窓の外で真響が言った。
「分かりやすい挑発だな」
「入ってくるのかこないのか、はっきりしろ」
「入らぬ」
「会話には混ざるんだな」
麻那はスマートフォンを握りしめた。
「お兄ちゃん、これは私が止めても――」
「神代が来るんだろ」
麻那は黙った。
蒼麻は立ち上がる。
「じゃあこっちから行く」
「いいの?」
「よくはない」
蒼麻は上着を羽織った。
「でも、誰かが俺を試したいなら、こっちも見てやる」
「何を?」
「誰がこんな趣味の悪いことをしてるのか」
麻那の目が、少しだけ強くなる。
「私も行く」
「今回は止めない」
「ありがとう」
蒼麻は窓の外へ言った。
「真響」
「何だ」
「来るか」
少し沈黙があった。
「行く」
「部屋には入らないけど一緒には行くんだな」
「そこを突くな」
麻那が、涙を拭いて立ち上がる。
兄妹会議は、終わったわけではない。
まだ話すべきことは山ほどある。
父のこと。
九尾狐のこと。
牡丹のこと。
神代一族のこと。
けれど、今は動く。
隠さないと決めた兄妹が、初めて同じ方向を向いて動く。
その最初の案件が、誰かの仕掛けた監査怪異。
いかにも神代らしく、性格が悪い。
蒼麻は玄関で靴を履きながら言った。
「麻那」
「なに?」
「あとで、この話の続きな」
麻那は頷いた。
「うん。必ず」
窓の外で、蝋梅の香りが揺れた。
蒼麻は小さく笑った。
「俺も、逃げないよ」




