第二十四話 九尾狐の夢
その夜、蒼麻は夢を見た。
最初に聞こえたのは、雨音だった。
雨守酒造の雨に似ている。
だが、違う。
もっと重い。
もっと冷たい。
水ではなく、灰が降っているような音だった。
蒼麻は、見知らぬ街に立っていた。
空は黒く、太陽は見えない。
けれど空の中央に、太陽の形をした黒い穴が浮かんでいた。
黒い太陽。
その周りだけが赤黒く滲み、世界の輪郭を焼いている。
地面には灰が積もっていた。
建物は崩れ、電線は垂れ、遠くで何かが燃えている。
人の気配はある。
だが、誰も生きているようには感じられない。
耳元で、声がした。
――また、ここへ来た。
蒼麻は振り返る。
そこに、狐がいた。
いや、狐と呼ぶには大きすぎる。
九つの尾。
金とも白とも黒ともつかない毛並み。
瞳は、世界の終わりを見飽きた者のように静かだった。
「九尾狐……」
蒼麻が呟くと、九尾は笑った。
――そう呼ばれている。
「ここは何だ」
――一度、消した未来。
灰が降る。
その灰の中に、声が混じっていた。
泣き声。
怒号。
祈り。
叫び。
誰かの名前を呼ぶ声。
そのすべてが、黒い太陽へ吸い込まれていく。
九尾狐は、街を見下ろす。
――人は、何度も終わる。
――疫病で。
――飢えで。
――戦で。
――火で。
――水で。
――そして、己の作った太陽で。
蒼麻は胸を押さえた。
苦しい。
この景色を、自分は知らない。
知らないはずなのに、どこかで見た気がする。
黒札の宴で、神鏡の奥に一瞬だけ映ったもの。
灰禍ノ母胎。
その名を、まだ誰にも聞いていないはずなのに、夢の中で分かってしまう。
「これを、五柱が巻き戻したのか」
九尾狐は蒼麻を見る。
――巻き戻した。
「真響も?」
――黒は、最後まで抱えていた。
蒼麻の足元に、黒い水たまりが広がる。
そこに映る。
黒狐。
真響だった。
今よりも、どこか幼い。
けれど、目だけはひどく疲れている。
その周囲に、白、朱、蒼、黄の狐影が揺れていた。
五柱。
彼女たちは、人の形にも狐の形にも見えた。
だが、それぞれの輪郭は崩れかけている。
五つの影が近づくほど、個々の姿が薄れていく。
自我が、境界が、ほどけていく。
それでも、離れられない。
世界を戻すために。
蒼麻は息を呑んだ。
「これが、神狐……?」
九尾狐は答えない。
代わりに、黒い太陽を見上げる。
――巻き戻せば、世界は生き残る。
――だが、覚えている者は少ない。
――失敗はなかったことになる。
――罪も、痛みも、学びも、消える。
「それで、あんたは覚えているのか」
九尾狐は笑う。
――我は記憶を縫い止めるもの。
――校正の履歴は消えぬ。
その言葉に、蒼麻の胸が強く熱を持った。
校正。
縫い止める。
戻す。
自分の力と、九尾狐の力が、どこか似ている。
いや、似すぎている。
「俺の中にある欠片って、あんたのものか」
――そうだ。
即答だった。
蒼麻は拳を握る。
「俺をどうする気だ」
――何も。
「そんなの信じられるか」
――信じなくてよい。
九尾狐は、静かに蒼麻へ近づく。
九つの尾が、灰の降る世界を揺らす。
――お前は器ではない。
――だが、空でもない。
――私の欠片を大きく抱きながら、人として残った珍しいものだ。
「父さんが封じたからだろ」
――あの男は、よくやった。
蒼麻は、思わず睨んだ。
「父さんを知ってるのか」
――知っている。
「真響も、知ってた」
――黒狐も、あの男を見た。
「何で誰も俺に言わない」
九尾狐は目を細めた。
――言えば、お前が壊れると思ったからだろう。
「勝手だな」
――そうだ。
あまりにあっさり認められて、蒼麻は言葉を失った。
九尾狐は続ける。
――守る者は、しばしば勝手だ。
――救う者も、勝手だ。
――世界を巻き戻す者など、もっと勝手だ。
黒い太陽が脈打つ。
灰の中から、無数の手が伸びる。
助けて。
戻して。
なかったことにして。
その声が、世界中から押し寄せる。
蒼麻は耳を塞ぎたくなった。
だが、九尾狐はただ見ていた。
見飽きた顔で。
――お前はどうする。
「何を」
――この未来が再び来た時。
「知らない」
蒼麻は即答した。
「俺は世界を背負う気なんかない」
九尾狐は笑った。
――よい答えだ。
「いいのかよ」
――世界を背負うと言う者ほど、世界を壊す。
蒼麻は黙った。
九尾狐の言葉は、妙に重かった。
――だが、知らないままでもいられぬ。
――お前の欠片は、私へ戻ろうとする。
――黒狐は、お前の傍で記憶を揺らす。
――神代は、お前を欲しがる。
――五柱は、やがて互いを呼ぶだろう。
「最悪な流れじゃないか」
――そうだ。
九尾狐は、わずかに楽しそうだった。
「楽しんでるだろ」
――少しだけ。
「真響みたいなこと言うな」
その瞬間、九尾狐の目が細くなる。
――黒を大切にするか。
蒼麻は、すぐに答えられなかった。
真響。
黒狐。
勝手に現れて、勝手に見張って、勝手に離れようとして。
毒舌で、酒にうるさくて、肴にも厳しくて。
けれど、蒼麻の名を呼ぶ。
危ない時、いつも俺の名を呼ぶ。
「……大切って言葉が合うかは分からない」
九尾狐は待っている。
「でも、いなくなると困る」
九尾狐は、静かに笑った。
――黒狐には十分だ。
「勝手に判定するな」
――お前も十分勝手だ。
その時、遠くで真響の声がした。
「蒼麻」
夢の中の空気が揺れる。
黒い太陽が薄れる。
九尾狐が、蒼麻から一歩離れた。
――呼ばれている。
「待て」
――何だ。
「灰禍ノ母胎って何だ」
九尾狐の目が、初めて少し冷えた。
――人が、自ら滅びを産んだ胎。
「またあれが来るのか」
――同じ形では来ぬ。
――だが、人が終わりを望む限り、似たものは何度でも生まれる。
蒼麻の足元の灰が、黒い水へ変わる。
その水面に、神代牡丹の顔が一瞬だけ映った。
狂気と悲しみを宿した、不老の女。
そして、その後ろに、白い狐の影。
奥之院。
白狐の先触れ。
桃が持ってきた次の案件。
九尾狐は言った。
――牡丹に会え。
――あれは、始まりの傷だ。
「命令か」
――助言だ。
「神代桃といい、あんたといい、誘導が多いな」
九尾狐は笑った。
――嫌なら、行かなくてよい。
――だが、行かねば知れぬ。
蒼麻は顔をしかめた。
「それが一番ずるいんだよ」
――知りたがる者には、よく効く。
「あんた性格悪いな」
――九尾狐なのでな。
その声が遠ざかる。
灰の世界が崩れる。
最後に、九尾狐は言った。
――神代蒼麻。
――お前が人でいることを選ぶなら、欠片は力になる。
――お前が人であることを手放せば、欠片は私へ戻る。
「戻ったらどうなる?」
九尾狐の九つの尾が、黒い太陽を覆った。
――その時は、世界が少しだけ、私の望む形に校正される。
蒼麻は目を覚ました。
和灯ではない。
自分の部屋だった。
谷中の古い木造アパート。
窓の外は、まだ夜明け前。
布団の上で、息が荒い。
喉が乾いている。
夢の中の灰の匂いが、まだ鼻の奥に残っていた。
「……現実感が強すぎる」
声が掠れた。
その時、窓の外から蝋梅の香りがした。
蒼麻はゆっくり窓を見る。
真響が、窓の外の細い屋根の上に座っていた。
黒いブラウスの襟が、夜風に揺れている。
「不法侵入の前段階みたいな場所にいるな」
蒼麻が言うと、真響は静かに返した。
「入ってはいない」
「そういう問題か」
「そういう問題だ」
いつもの返し。
けれど、真響の顔は硬かった。
「見たのか」
蒼麻は黙った。
「黒い太陽」
真響の目が、わずかに揺れる。
「灰の空」
真響は何も言わない。
「九尾狐」
その名で、夜気が冷えた。
真響は目を伏せた。
「……やはり、夢に入ったか」
「知ってたのか」
「欠片が目覚めれば、いずれ見ると思っていた」
「また先に言わなかったのかよ」
「言えば防げたのか」
「いや」
「なら同じだ」
「同じじゃないだろ」
蒼麻は布団から起き上がり、窓を開けた。
冷たい空気が入る。
真響は動かない。
「真響も見たのか」
「何を」
「同じ夢」
真響は少しだけ黙った。
「夢ではない。私のは記憶だ」
蒼麻は息を呑む。
「灰禍ノ母胎」
真響の指が、わずかに震えた。
「その名を聞いたのか」
「九尾狐から」
真響は、苦しそうに目を閉じた。
「……余計なことを」
「何なんだ」
「終末の怪異だ」
真響は低く言った。
「人が、自分たちの終わりを望んだ時に生まれた。核の火と、死者の声と、生き残った者の罪悪感が集まったもの」
蒼麻は夢の光景を思い出す。
黒い太陽。
灰。
声。
「五柱が巻き戻した」
「ああ」
「真響だけ、覚えてる」
「少しだけだ」
「あんなの少しだけでも、きついだろ」
真響は答えなかった。
蒼麻は、窓枠に手を置いた。
「真響」
「何だ」
「俺、お前が離れようとした理由が少し分かった」
真響は目を開ける。
「そうか」
「でも、やっぱり勝手に離れるな」
「そこへ戻るのか」
「戻る」
蒼麻は真響を見る。
「俺も見た。だから、真響だけが覚えてる状態じゃなくなった」
真響の表情が変わった。
「同じだと思うな。お前が見たのは断片にすぎない」
「それでも、少しは分けられるだろ」
真響は鋭く言った。
「分けるな。お前まで沈むぞ」
「じゃあ、横で酒くらい飲ませろ」
「何だそれは」
「重い話を重いまま持ってると、潰れるだろ」
真響は呆れたように見た。
だが、その目の奥に、少しだけ揺らぎがあった。
「お前は、何でも酒に逃がす」
「逃がすんじゃない。ほどくんだよ」
「……」
「たぶん。それに酒に逃げるって表現は好きじゃない」
真響は小さく息を吐いた。
「最後が弱い」
「専門外だからな」
「もうその言い訳は通らぬ段階に来ているのではないか」
「厳しいな」
夜明けの光が、少しずつ空を薄くしていく。
真響は屋根から降りることなく、静かに言った。
「牡丹に会うのか」
蒼麻は目を伏せた。
夢の最後。
九尾狐の言葉。
――牡丹に会え。
――あれは、始まりの傷だ。
「まだ決めてない」
「そうか」
「でも、たぶん行くんだろうな」
「そうか」
「止めないのか」
真響は少しだけ苦い顔をした。
「止めれば、お前は行く」
「学習してるな」
「不本意だが」
蒼麻は少し笑った。
「一緒に来るか」
真響はすぐには答えなかった。
朝の風が吹く。
蝋梅の香りが、淡く揺れる。
「行く」
短く、そう言った。
蒼麻は頷いた。
「そっか」
それだけでよかった。
真響は、ふと蒼麻を見た。
「蒼麻」
「何だ」
「九尾狐に何を言われた」
蒼麻は少し迷った。
そして、正直に言った。
「人でいることを選ぶなら、欠片は力になる。人であることを手放せば、欠片は九尾狐へ戻るって」
真響の表情が冷えた。
「やはり、そう来たか」
「悪い話なのか」
「誘いだ」
「だよな」
「乗るな」
「今のところ乗る気はない」
「今のところ、では困る」
「じゃあ、乗らない」
真響は、蒼麻をじっと見た。
「軽い」
「でも本気」
しばらく沈黙があった。
やがて、真響は小さく頷いた。
「なら、今は信じる」
蒼麻は少し驚いた。
「今は?」
「永続保証はせぬ」
「狐の信用は更新制なのか」
「そうだ」
「面倒だな」
「人間ほどではない」
そのやり取りで、少しだけいつもの空気が戻った。
蒼麻は窓の外を見る。
夜が明ける。灰ではない朝が来る。
それだけで、少し救われる気がした。
「和灯は朝からやってないしな」
真響は怪訝な顔をする。
「この状況で、最初にそれか」
「腹減ったし」
「本当に人間だな」
「それ褒めてんの?」
「今は褒めている」
蒼麻は笑った。
九尾狐の夢は、まだ胸の奥に残っている。
黒い太陽。
灰禍ノ母胎。
五柱。
神狐。
巻き戻された未来。
何一つ、解決していない。
だが、朝が来た。
真響がそこにいる。
自分はまだ、人として腹が減っているのだった。




