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第二十三話 桃の接触

雨守酒造から戻ってから、蒼麻は少し静かだった。


和灯のカウンターで酒を飲む。

蓮二の肴に文句を言う。

真響に軽口を返す。


表面上は、いつも通りだった。


けれど、酒を口に含むたび、ほんの少しだけ目を伏せる。


蓮二は何も聞かなかった。

真響も何も言わなかった。


それが、ありがたかった。


麻臣の残した酒は、蒼麻の中の封印を安定させた。

だが同時に、父の言葉を残していった。


――お前は、神の器である前に、私の子だ。


その言葉は、蒼麻の中に静かに沈んでいた。


許したわけではない。

怒りが消えたわけでもない。


ただ、父を一つの言葉で片づけられなくなった。


それが、どうしようもなく厄介だった。


「顔が重いな」


真響が言った。


蒼麻は盃を置く。


「顔に重量って出るのか」


「出る」


「狐基準?」


「私基準だ」


「余計に分からん」


蓮二がほうれん草の白和えを置いた。


「今日は軽めにしといた」


「酒?」


「肴」


「助かる」


蓮二は、何も聞かずに厨房へ戻った。


蒼麻は小さく息を吐く。


「気を遣われてるな」


真響が盃を持つ。


「気持ちを受け取れ。下手だな」


「最近それ、よく言われる」


「直らぬからだ」


「そうだな」


その時、店の戸が開いた。


暖簾が揺れる。


入ってきたのは、見知らぬ男だった。


三十代半ばほど。

柔らかな顔立ち。

仕立ての良い整ったスーツ。

少し軽そうにも見えるが、目だけが妙に深い。


蓮二が顔を上げる。


「いらっしゃいませ」


男は店内を見渡し、蒼麻の隣の席へ自然に座った。


「ここが和灯か」


蒼麻は横目で見る。


嫌な予感がした。


真響の気配が、一瞬で鋭くなる。


男はそれに気づいて、にこりと笑った。


「怖いな、黒狐(こくこ)


蒼麻は盃を置いた。


「神代か」


男は軽く頭を下げる。


「神代真人桃(まひと もも)


蓮二の手が止まった。


真響は静かに言った。


「帰れ」


「第一声がそれか」


「第二声も同じだ」


「手厳しいな」


桃は笑った。


その笑みは柔らかい。

だが、柔らかいだけではない。


相手の反応を見ている。


どこまで近づけるか、どこで嫌がるか、どこを突けば揺れるか。


そういう目だった。


蒼麻は言った。


「黒札の宴で笑ってた人ですね」


「覚えていてくれて嬉しいな」


「忘れたい方の記憶ですが」


「それは残念」


蓮二が静かに水を置いた。


「ご注文は」


桃は店内を眺める。


「蒼麻くんが飲んでいるものと同じものを」


真響の目が細くなる。


「真似るな」


「酒くらいいいだろう」


「お前が飲むと場が濁る」


桃は肩をすくめた。


「ひどい言われようだ」


蒼麻は桃を見た。


「何をしに来たんですか」


「会いに来た」


「なぜ」


「君が、雨守の酒を受け取ったと聞いてね」


蒼麻の表情が消えた。


和灯の空気が、少しだけ冷える。


桃は続ける。


「麻臣は、死んでなお見事だった。九尾狐の欠片を二十年以上隠し、神代の目を欺き、最後には君自身の意思で封印を噛み合わせた」


蒼麻は低く言った。


「その話、ここでする必要あります?」


「ある」


桃は水を一口飲む。


「君に伝えておきたかった。神代の中には、君の封印が安定したことを喜ばない者がいる」


「でしょうね」


「驚かないんだな」


「最近、神代への期待値がかなり低いので」


桃は笑った。


「いい傾向だ」


真響が冷たく言う。


「余計なことを吹き込むな」


「余計ではない。彼は知るべきだ」


「お前が教える必要はない」


「では、誰が教える。麻那か? 紫苑か? 桜か? 君か?」


真響は黙った。


桃は、蒼麻へ視線を戻す。


「神代一族は、君を欲しがる」


「器として?」


「それもある」


「九尾狐の欠片として?」


「それもある」


「黒狐の隣にいるから?」


「それもかなりある」


「どれも最悪ですね」


「そうだな」


桃はあっさり頷いた。


「だが、私は少し違う」


蒼麻は眉を上げる。


「道具にしない、とでも?」


「道具にはしない」


「信用できない言葉ランキング上位に入ってます」


「正直でいい」


桃は笑う。


「私は、君を使いたい」


蓮二が、奥で包丁を止めた。


真響の狐火が、静かに灯る。


蒼麻は目を細めた。


「道具にしないけど、使いたい?」


「そうだ」


「同じでは?」


「違う。道具は意思を問わない。私は、君に選ばせたい」


「選ばせた上で、都合よく動かしたい」


桃は愉快そうに笑った。


「君、意外と容赦ないな」


「最近鍛えられてるんで」


「誰に?」


蒼麻は真響を見た。


真響は即座に言う。


「私ではない」


「いや、だいぶお前」


桃は二人を見て、目を細めた。


「なるほど」


真響が鋭く見る。


「何がなるほどだ」


「いや、面白い縁だと思ってね」


「舌を焼くぞ」


「怖いな」


「怖がれと言ったはずだ」


桃は、出された酒に口をつけた。


少しだけ目を細める。


「これはいい酒だ」


蓮二が無言で軽く頭を下げる。


桃は続けた。


「神代は、昔から世界の歪みに介入してきた。経済、政治、疫病、災害、怪異。時に封じ、時に流し、時に利用した」


「利用した、ですか」


「綺麗ごとだけではない。むしろ、綺麗ごとで動いたことの方が少ない」


蒼麻は黙る。


桃の声は軽い。


だが、嘘ではなさそうだった。


「九尾狐は、その神代が最も恐れ、最も利用したかったものだ」


真響の気配が鋭くなる。


桃はそれを承知で続ける。


「牡丹が封じた。だが、封じたものは消えない。欠片は散る。一族の血に、土地に、記憶に、願いに。そして、君に」


蒼麻は盃を見た。


「俺は、何なんですか」


その問いは、思ったより静かに出た。


桃は即答しなかった。


少しだけ酒を味わい、それから言った。


「君は、九尾狐の大きな欠片を抱えた人間だ」


蒼麻は息を止める。


「でも、九尾狐そのものではない」


桃は続けた。


「神降しの器でもある。だが、器だけではない。麻臣の息子でもあり、麻那の兄でもあり、この店の常連でもあり、黒狐に心配される面倒な酒好きでもある」


真響が不快そうに目を細める。


「わたしは心配などしていない」


蒼麻は小声で言う。


「いつもしてるだろ」


「していない」


桃は笑った。


「そういうところだ」


真響がさらに狐火を灯しかけたので、蒼麻は手で制した。


「話を戻してください」


「戻そう」


桃は盃を置く。


「九尾狐の欠片は、危険だ。放置すれば、君は普通の人間ではいられなかった。麻臣は、それを分かっていた。だから消した。君に宿る九尾の気配を、二十年以上も」


その言葉は、すでに聞いている。


だが、他人の口から聞くと、また違う痛みがあった。


「一族の誰も、気づけなかった。私も、紫苑も、桔梗も。麻臣は、私たち一族全員を欺いた」


桃は笑っていなかった。


「見事だったよ」


蒼麻は唇を噛んだ。


「褒められても、困りますね」


「だろうな」


「俺は、父をすごい人として見たいわけじゃない」


「ああ」


「勝手な人だったとも思ってる」


「それも正しい」


「でも、守られてたのも分かってきた」


「それも正しい」


蒼麻は桃を見る。


「全部正しいって言われるのが、一番困るんですよ」


桃は小さく頷いた。


「そうだろうな」


その時だけ、桃の声に軽さがなかった。


「蒼麻くん。君は今後、何度も言われる。君なら救える。君なら止められる。君なら戻せる。君なら九尾狐に対抗できる。君なら五柱を繋げられる」


真響の表情が冷える。


桃は続けた。


「全部、毒だ」


蒼麻は目を上げる。


「毒?」


「ああ。正義の顔をした毒だ」


桃は静かに言った。


「君ならできる、という言葉は、人を簡単に道具にする」


和灯が静まり返る。


蓮二も、真響も、何も言わない。


桃は蒼麻を見た。


「だから、君は覚えておいた方がいい。救えるとしても、救う義務があるとは限らない」


「あなたがそれを言うんですか」


「言う。私は君を使いたいからね」


「矛盾してません?」


「していない。君に潰れられると困るからだ」


「ひどい理由ですね」


「ひどいかもしれないが、本音だ」


桃は盃を空けた。


「私は、君を神代の道具にする気はない。だが、君の力が必要になる時は来る。その時、君が自分の意思で立っていなければ意味がない」


真響が低く言う。


「都合のいいことを」


「そうだな」


桃は認めた。


「だが、都合のいいことを隠して善人のふりをするやつよりはましだろう」


蒼麻は、少しだけ笑った。


「確かに、神代の中では珍しく分かりやすいかもしれない」


「褒め言葉として受け取るよ」


「少しだけです」


真響が横でぼそりと言った。


「私の真似をするな」


蒼麻は吹き出した。


桃も笑った。


その瞬間、少しだけ場が緩む。


しかし、桃はすぐに表情を戻した。


「もう一つ」


「まだあるんですか」


「これが本題だ」


蒼麻は嫌そうな顔をした。


「今まで前振りですか?」


「そう」


「もう帰りたいんですが」


「だめだ」


桃は懐から、小さな紙片を取り出した。


白い紙。


そこに、薄い朱の印が押されている。


蒼麻の胸の奥がざわついた。


真響が目を細める。


「白狐か」


桃は頷いた。


「白狐の先触れが、また出た」


蒼麻は真響を見る。


「また洗う系ですか」


「おそらくな」


桃は紙片を机に置く。


「だが今回は、病院ではない」


「どこです」


「神代奥之院」


蓮二の手が止まった。


真響の気配が明らかに変わる。


蒼麻は眉を寄せた。


「奥之院?」


「神代牡丹がいる」


桃の声が低くなった。


「九尾狐を封じた初代。天陽と冥陰を混ぜたまま、不老のような状態で残っている女」


蒼麻の喉が乾いた。


その名は、聞いていた。


神代牡丹。


九尾狐と戦い、封印し、自身も壊れた初代。


「白狐の先触れは、牡丹の周囲の濁りを洗おうとしている」


真響が静かに言った。


「危険だ」


「そうだ」


桃は頷く。


「牡丹の濁りは、ただの穢れではない。九尾狐の封印そのものと絡んでいる。洗えば、楽になるかもしれない。だが、封印の一部も薄れるかもしれない」


蒼麻は深く息を吸った。


「俺に行けと?」


「行くかどうかは、君が決めるんだ」


桃はまっすぐ蒼麻を見た。


「だが、君が行かなければ、紫苑たちは別の手を打つ。白狐の気配を祓うか、牡丹ごと封じ直すか。どちらも荒い手段になるだろうな」


真響が言った。


「お前は、蒼麻を誘導している」


「そうだ」


「隠さないな」


「隠すと信用されないからね」


蒼麻は紙片を見る。


白い朱印。


白狐の先触れ。


神代牡丹。


九尾狐の封印。


父の酒を飲んだばかりの蒼麻には、重すぎる案件だった。


それでも、心のどこかが反応している。


逃げたい。


知りたい。


関わりたくない。


放っておけない。


全部が同時にあった。


「桃さん」


「何だい」


「俺に、断る権利あります?」


桃は少しだけ笑った。


「ある」


「断ったら?」


「私は残念に思う。紫苑は別策を取る。麻那は怒る。黒狐はたぶん、君を見て何も言わない」


真響は黙っている。


蒼麻は真響を見た。


「何も言わないのか」


真響は少し考えた。


「言えば、お前は私の言葉を理由にする」


「……痛いところ突くな」


「だから言わぬ。お前が決めろ」


蒼麻は盃を見た。


雨守の酒ではない。


和灯の酒だ。


今、自分が飲みたいと思って選んだ酒。


父が言った。


酒を、呪いにするな。


蒼麻は、ゆっくり息を吐いた。


「今日は返事をしません」


桃は頷く。


「いい」


「明日、麻那にも話す」


「それがいい」


「あと」


「何だい」


「次から、こういう話は最初から本題にしてくれませんか」


桃は笑った。


「努力する」


「絶対しない顔ですね」


「よく分かったね」


真響が冷たく言う。


「次会ったら舌を焼くからな」


桃は立ち上がった。


「それは困るな。まだ喋りたいことが多いんだ」


「なお悪い」


桃は蓮二へ会釈した。


「いい店だった。また来ても?」


蓮二は少し考えた。


「酒を雑に飲まないならいいですよ」


桃は微笑んだ。


「旨かった。次はもう少し気をつけるよ」


真響がぼそりと言う。


「出禁にしろ」


蓮二は困ったように笑った。


桃は暖簾をくぐる前に、蒼麻へ振り返った。


「蒼麻くん」


「はい」


「君は、麻臣に似ている」


蒼麻は顔をしかめた。


「今、それ言います?」


「言いたくなったんだ」


「嬉しくないです」


「だろうな」


桃は笑った。


「だが、悪い意味ではない」


そう言って、桃は夜の神楽坂へ消えた。


和灯に、沈黙が残る。


蒼麻は、真響を見る。


「似てると思うか?」


真響は盃を持ったまま、少しだけ遠くを見るような顔をした。


「ああ」


「お前、やっぱり父さんと会ったことあるのか」


真響は沈黙した。


それから、静かに言った。


「ああ」


蒼麻の胸が、また少しざわつく。


「どんな人だったんだ」


真響は盃を傾ける。


「面倒な男だった」


蒼麻は苦笑した。


「それは褒めてるのか?」


「かなり」


その答えは、なぜか少しだけ胸に沁みた。

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