幕間 雨守の酒の後
神代奥之院。
静かな会議室。
桔梗が目を閉じる。
真実を見る目が捉えた変化を整理していた。
やがて紫苑が口を開く。
「どうだった」
桔梗はゆっくり答える。
「安定しました」
桃が眉を上げる。
「封印が?」
「はい」
「酒一本で?」
桔梗は首を振った。
「違います」
静かな声だった。
「酒ではありません」
「なら何だ」
桔梗は少し考えた。
そして答える。
「父親です」
部屋が静まる。
百合が腕を組む。
「麻臣さんの酒だったのよね」
「ええ」
「蒼麻本人が受け取ったことで封印が噛み合い直した」
桃が苦笑する。
「死んでからも邪魔をするか」
桔梗はその言葉を否定した。
「邪魔ではありません」
「なら何だ」
「守ったんです」
紫苑が静かに目を閉じる。
「……そうだな」
桃は机を指で叩く。
「だが、理解できん」
「何がです」
「二十年以上だ」
桃の目が細くなる。
「我々は蒼麻を見ていた」
「神代の分家」
「力のない男」
「酒好き」
「少し妙なものが見える」
「その程度の男だった」
桃は低く言う。
「誰も気づかなかった」
沈黙。
紫苑が答える。
「気づけなかった」
桃は笑わない。
「九尾狐の欠片だぞ」
その一言で空気が変わる。
神代一族が恐れるもの。
怪異ではない。
妖狐五柱でもない。
九尾狐。
神代牡丹が命と引き換えに封じたもの。
一族の歴史そのものに食い込んでいる災厄。
その欠片が蒼麻の中にある。
しかも、生まれた時から。
百合が小さく呟く。
「普通なら壊れていた」
桔梗が頷く。
「ええ」
神降しの器どころではない。
九尾狐の欠片を大きく継承した人間。
そんなもの。
普通は存在できない。
人格は侵食される。
欲望は肥大する。
現実感覚は歪む。
怪異を引き寄せる。
あるいは、
自ら怪異になる。
それが自然だ。
桃が言う。
「蒼麻は違った」
紫苑が頷く。
「違った」
「だから我々は見誤った」
ここで桔梗が静かに言う。
「見誤ったのではありません」
全員が彼女を見る。
桔梗は続ける。
「見えなかった。麻臣が消したんです」
「九尾狐の気配を」
部屋が静まり返る。
二十年。
いや。
正確には、
蒼麻が生まれてから今まで。
二十年以上。
神代一族。
怪異。
妖狐。
退魔師。
神職。
誰にも気づかせなかった。
九尾狐の欠片を。
桃が低く笑う。
今度は面白がる笑みではない。
「化け物だな」
百合も否定しない。
「そうね」
紫苑は静かに言う。
「麻臣は優秀だった」
桃が首を振る。
「違う」
「優秀という言葉では足りん」
「異常だ」
「神代一族ですら欺いた」
「二十年以上」
「九尾狐の欠片を抱えた子供を」
「ただの酒好きの男に見せ続けた」
桔梗が静かに言う。
「だから蒼麻は生き残った」
「そうだろうな」
桃が頷く。
もし、
麻臣が封じていなければ。
蒼麻は神代に囲われていた。
研究されたかもしれない。
利用されたかもしれない。
神降しの器として育てられたかもしれない。
あるいは、
九尾狐の依代として恐れられたかもしれない。
どちらにせよ。
今の蒼麻にはなれない。
紫苑がぽつりと言う。
「麻臣は最初から分かっていたのだろう」
「何を」
「神代に知られたら彼の人生はないと」
沈黙。
誰も反論できない。
桔梗は窓の外を見る。
雨が降っている。
まるで雨守酒造の空を見ているようだった。
「蒼麻は父を恨むでしょう」
紫苑が言う。
「だろうな」
「知る権利を奪われたのだから」
桔梗は頷く。
「でも」
静かな声だった。
「蒼麻はもう理解し始めています」
「父が自分を閉じ込めたのではなく」
「守ったのだと」
桃が鼻で笑う。
「厄介だな」
「何がです」
「そういう愛情が一番厄介だ」
「恨みきれん」
紫苑が小さく笑った。
本当に珍しく。
「その通りだ」
そして誰も口には出さなかった。
もし麻臣があと数年生きていたら。
蒼麻が自分で選べるようになるまで。
もう少しだけ。
あと少しだけ生きていたら。
今頃、
和灯のカウンターで。
蒼麻と酒の味について言い争っていたかもしれない。
その未来だけは、
誰にも取り戻せないのだった。




