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第二十二話 父の酒蔵

その蔵の名を聞いた時、蒼麻はしばらく黙った。


雨守(あまもり)酒造。


麻那は和灯のカウンターで、封筒を両手で持っていた。


「父さんが、最後に訪れた蔵」


蒼麻は盃を置いた。


「……そこで死んだのか」


麻那は小さく頷いた。


「表向きは、地方祭祀の途中で倒れたことになってる。でも本当は、そこでお兄ちゃんの封印を補強した」


蓮二は黙って椀物の火を弱めた。

真響も、何も言わなかった。


麻那は封筒を差し出す。


「雨守酒造の先代から連絡が来たの。父さんが残した酒があるって」


「酒?」


「お兄ちゃんが二十歳になったら渡してほしいと言われていたもの。でも、誰にも渡されないまま、蔵の奥に残っていた」


蒼麻は封筒を受け取らなかった。


しばらく見ていた。


「麻那」


「うん」


「俺、今もう二十歳どころじゃないんだけど」


麻那は困ったように笑った。


「うん。かなり遅れたね」


「遅れすぎだろ」


その軽口は、少しだけ震えていた。


真響が静かに言う。


「行くべきだな」


蒼麻は真響を見る。


「そう思うか」


「行かねば、いつまでもその酒は父の手の中にある」


言い方が、痛い。


けれど、たぶん正しい。


蒼麻は封筒を受け取った。


中には、短い手紙が入っていた。


神代蒼麻様


長くお預かりしていたものがあります。

神代麻臣様より、あなたへ渡すよう託された酒です。


雨守酒造 雨守宗一


蒼麻は手紙を畳んだ。


「……今から行くよ」


麻那の目が揺れる。


「私も行く」


「来ると思った」


「止めても行く」


「言う前から強いな」


真響が盃を置く。


「私も行く」


蒼麻は少し笑った。


「止めても?」


「止められると思うな」


「知ってた」


蓮二が、三人の前に温かい椀を置いた。


「行く前に食え」


蒼麻は椀を見た。


「母親か」


「小料理屋の店主です」


いつもの言葉だった。


なのに、その夜は少しだけ胸に残った。


雨守酒造は、山と川の間にあった。


空は厚い雲に覆われ、小雨が静かに降っている。


蔵の白壁は古く、軒先から雨水が細く落ちていた。

水音が、ずっと続いている。


「名前通りだな」


蒼麻が呟く。


麻那は蔵を見上げた。


「父さんが、ここを選んだ理由があるんだと思う」


真響が静かに答える。


「雨は、天と地をつなぐ。酒は、その水を人の中へ通す」


蒼麻は苦笑した。


「最近、酒を普通に飲めなくなってきたんだけど」


「さっき普通に飲んでいただろう」


「飲んでるけど、意味が重いんだよ」


「なら、じっくりと味わえ」


「なんか深いこと言い出したな」


蔵の入口で、年老いた男が待っていた。


雨守宗一。


七十を越えているだろうか。

背は少し曲がっているが、目は澄んでいる。


午後19時過ぎ。


「こんな時間に急にすみません」


「神代蒼麻様ですね」


「様はやめてください」


「では、蒼麻さん」


宗一は深く頭を下げた。


「長くお待ちしておりました」


その言葉が、妙に重かった。


蒼麻は返事に詰まった。


麻那がそっと横に立つ。


宗一は蔵の奥へ案内した。


麹室。

仕込み蔵。

貯蔵庫。


蔵の中は、雨の匂いと米の甘い香りが混じっていた。


どこか懐かしい。


来たことはないはずなのに。


「父は、ここへよく?」


蒼麻が聞くと、宗一は頷いた。


「何度も。表向きは、土地の祭祀と水脈の調査でした。ですが、本当はあなたのためでした」


麻那の指がわずかに震える。


蒼麻は気づいたが、何も言わなかった。


宗一は蔵の奥、古い貯蔵室の前で足を止めた。


「ここです」


重い木戸を開ける。


中は冷えていた。


棚の奥に、一升瓶が一本置かれている。


無地の和紙で包まれ、紐で結ばれていた。


札には、麻臣の字。


蒼麻へ


蒼麻は動けなかった。


その字を、久しぶりに見た気がした。


厳しくて、整いすぎていて、どこか不器用な字。


宗一が静かに言う。


「二十歳になったら、渡すはずでした」


「どうして渡されなかったんですか」


「麻臣様が亡くなられた後、神代の方がいらっしゃいました。ですが、この酒の存在を隠すよう、麻臣様から頼まれておりました」


「一族にも?」


「はい」


宗一は蒼麻を見た。


「“あの子が自分の足でここへ来るまでは、渡さないでほしい”と」


蒼麻は小さく息を吐いた。


「勝手な人だな」


麻那が目を伏せる。


「うん」


真響は瓶を見ていた。


「封が、まだ生きている」


「封?」


「酒そのものに、言葉が沈んでいる」


蒼麻は瓶へ手を伸ばした。


触れた瞬間、胸の奥が熱くなった。


だが、いつものように暴れる熱ではない。


静かだった。


雨の中に立つ灯りのような熱。


宗一が言う。


「この酒は、麻臣様が最後に仕込まれたものです」


「父が?」


「はい。蔵人ではありませんが、水を選び、米を選び、封じの祝詞を添えられた。けれど最後におっしゃいました」


宗一は少しだけ微笑んだ。


「“術式のための酒にしてはならない。息子が飲んで、うまいと思える酒にどうしてもしたい”と」


蒼麻の喉が詰まった。


何だ、それは。


何も言わずに勝手に封じたくせに。


死んだあとまで、酒だけは美味くあれと願ったのか。


「……本当に、厄介だな」


蒼麻は瓶を抱えるように持った。


「父親ってやつは」


真響が静かに言う。


「厄介な愛だな」


麻那が小さく頷く。


「うん」


蔵の座敷に、盃が並べられた。


雨守宗一は、丁寧に封を解いた。


瓶の口が開く。


その瞬間、雨の匂いが広がったような気がした。


山の雨。

石を濡らす水。

古い木。

蒸した米。

そして、かすかに御神酒の気配。


蒼麻は息を呑んだ。


真響も、珍しく目を細めた。


「これは良い酒だぞ」


宗一は静かに注いだ。


まず蒼麻の盃へ。


それから麻那、真響、自分の分。


蒼麻は盃を見た。


澄んだ酒。


だが、奥に何かが沈んでいる。


言葉だ。


麻臣の言葉。


飲めば、きっと届く。


蒼麻は少し怖かった。


麻那が隣で言う。


「お兄ちゃん、無理はしなくていい」


「いや」


蒼麻は首を振った。


「これは、飲みたい」


真響が静かに見ている。


蒼麻は盃を口に運んだ。


一口。


酒が、舌に触れる。


やわらかい。


雨のように静かで、米の甘みが深い。

本来熟成感があるはずなのに、まろやかで瑞々しいまま。不思議な味わいだった。


そして、喉を通った瞬間、声が聞こえた。


――蒼麻。


父の声だった。


蒼麻の視界が揺れる。


座敷が遠くなる。


雨音だけが近くなる。


目の前に、若い頃の麻臣が立っていた。


疲れた顔をしている。


だが、その目は、蒼麻をまっすぐ見ていた。


――これを聞いているということは、お前は酒を嫌いにならずにいてくれたのだろう。


蒼麻は息を止める。


――それだけで、私は少し救われる。


「……父さん何言ってんだよ」


声にはならなかった。


麻臣は続ける。


――私は、お前にひどいことをしたかもしれない。

――力を封じた。

――何も教えなかった。

――お前が自分を知る機会を奪ってしまった。


雨音が強くなる。


――それでも、封じるしかなかった。

――神代は、お前を器として見る。

――私は、お前を息子としてしか見られなかった。


蒼麻の胸が痛む。


――私は正しくなかった。

――だが、愛していなかったわけではない。


麻臣の姿が、少し薄れる。


――蒼麻。

――酒を、呪いにしないでくれ。

――お前が飲みたいと思う酒を飲んでくれ。

――帰りたい場所へ帰れ。

――誰かの名を呼びたいなら、呼べばいい。


その声が、ひどく不器用だった。


――お前は、神の器である前に、私の子だ。


蒼麻の目から、涙が落ちた。


自分でも驚いた。


泣くつもりなどなかったし。


怒るつもりで来た。


責めるつもりだった。


なのに、酒が心に染みるほど美味かった。


それが、どうしようもなく悔しかった。


「……ばかだろ」


ようやく声が出た。


「こんなの残されたら、怒れないだろ」


幻の麻臣は、困ったように笑った気がした。


――怒っていいんだ。


その言葉で、さらに胸が痛んだ。


――私を恨んでいい。

――ただ、自分の酒まで嫌わないでくれ。


雨音が遠ざかる。


麻臣の姿が薄れていく。


最後に、一言だけ。


――蒼麻。楽しく生きろ。


視界が戻った。


座敷。


雨音。


盃。


麻那が泣いていた。


真響は何も言わず、蒼麻の横に座っている。


宗一は深く頭を下げていた。


蒼麻は、盃を見た。


空になっている。


「……本当に旨い酒だ」


それだけ言った。


声は、少し掠れていた。


真響が静かに言う。


「そうか」


「うん」


「なら、それでよい」


麻那が涙を拭いた。


「お兄ちゃん」


蒼麻は少し笑った。


「麻那」


「うん」


「俺、怒ってる」


麻那は頷いた。


「うん」


「でも、少しだけ分かった」


「うん」


「それが一番腹立つ」


麻那は泣きながら笑った。


真響が盃を取る。


「厄介な父だな」


蒼麻は鼻で笑った。


「本当に」


「だが、酒は良い」


「そこは認める」


真響は盃を口に運んだ。


しばらく味わい、静かに言った。


「雨の中にも帰る道がある」


蒼麻は真響を見た。


「なんかいい事言おうとしてる?」


「そうだ」


蒼麻は小さく笑った。


「父に聞かせてやりたかったな」


麻那が言う。


「聞いてるかもしれないよ」


蒼麻は少しだけ黙った。


そして、瓶を見た。


「……もう一杯ください」


宗一が静かに酒を注ぐ。


雨はまだ降っていた。


けれど、その音はもう冷たくなかった。


この酒は、封印だった。


父の謝罪だった。


愛だった。


そして、蒼麻が自分の足でここへ来たことで、初めて届く手紙だった。


蒼麻は二杯目を飲んだ。


「やっぱり旨いよ」


今度は、泣かなかった。


ただ、ゆっくり味わった。


酒を呪いにしないために。


父を、ただの加害者にも、ただの善人にも、しないために。


自分の中へ、少しずつ受け入れるために。

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