第二十一話 白狐の先触れ
真響が、五柱について話した翌日。
蒼麻は和灯のカウンターで、妙に静かに酒を飲んでいた。
蓮二はその様子を見ながら、砂肝の柚子胡椒焼きを置く。
「考えごとか」
「考えたくないことを考えてる」
「重いやつか?」
「狐が五匹揃うと世界が巻き戻るらしい」
蓮二は数秒黙った。
「……砂肝、もう一皿いるか?」
「いる」
説明を諦めた者同士の会話だった。
そこへ、真響が現れた。
カジュアルな黒い衣装。
いつもの蝋梅の香り。
だが、今日は少しだけ気配が鋭い。
「来たな、黒」
蒼麻が言うと、真響は目を細めた。
「その呼び方はやめろ」
「じゃあ五柱の黒担当」
「余計悪いわ」
蓮二が小さく笑う。
「今日はいつもの着物じゃないんだね」
真響は席に座らず、蒼麻の前に一枚の白い紙を置いた。
「何だこれ」
「招きではない。警告だ」
紙には、何も書かれていなかった。
ただ、中央に白い毛が一本挟まれている。
蒼麻はそれを見た瞬間、妙な冷たさを感じた。
黒狐の気配とは違う。
真響の闇は、冷たくてもどこか湿り気がある。
酒や夜や蝋梅の匂いを含んでいる。
だが、この白い毛は違った。
清潔すぎる。
静かすぎる。
まるで、雪の下に音も感情も埋めてしまったような気配だった。
「……もしかして白狐?」
蒼麻が言うと、真響はわずかに目を伏せた。
「先触れだ」
「本人じゃない?」
「まだな」
「いずれ来るってことか」
蓮二が困った顔をする。
「また何か始まるのか?」
真響は淡々と答えた。
「もう始まっている」
蒼麻は白い毛を見下ろした。
「白は何をする狐なんだ」
真響は少し黙った。
「洗う」
「洗う?」
蒼麻の脳内では白い狐がアライグマのように何かを洗っていたのだが、なにも言わなかった。
「穢れを祓い、汚れを落とし、濁りを薄める」
「それだけ聞くと良いやつだな」
「良いやつだ」
真響は即答した。
だからこそ、蒼麻は少し意外だった。
「なのに、そんな顔するのか」
真響は白い毛を見る。
「白は優しい」
その声は、いつもの皮肉を含んでいなかった。
「だが、優しさだけで人は残らぬ」
その言葉の意味が、蒼麻はまだ分からなかった。
最初の異変は、病院で起きていた。
麻那を通さず、神代桜から連絡が来た。
ただし今回は、黒札ではない。
普通の封筒だった。
中には一枚のメモ。
都内の旧療養院跡地に建つ私立病院にて、患者と職員の感情が薄れている。
悲しみ、怒り、不安が消える一方で、記憶の輪郭も薄れている。
白狐の先触れと思われる。
近づきすぎるな。
神代桜
蒼麻はメモを見て、ため息をついた。
「近づきすぎるな、って書いてある案件に近づく流れ、もうそろそろやめたい」
真響が横から言う。
「なら行かなければいい」
「行かなかったらどうなるんだ?」
「白は広がる」
「それ聞いたら行くしかないじゃないか」
現場は、文京区の古い病院だった。
表向きは穏やかな療養型病院。
白い壁。
広い窓。
よく手入れされた庭。
廊下には消毒液と花の香りが混ざっている。
そこに入った瞬間、蒼麻は違和感を覚えた。
静かすぎる。
病院だから静かなのは自然だ。
だが、ここはそういう静けさではない。
泣き声がない。
怒鳴り声もない。
焦りもない。
不安も、苛立ちも、諦めも薄い。
人の苦しみだけが、綺麗に拭き取られているようだった。
受付の看護師が微笑む。
「神代さんですね。お待ちしておりました」
その笑顔は穏やかだった。
穏やかすぎた。
蒼麻は小声で言う。
「……気味が悪いな」
真響は答える。
「だから言った。白は洗う」
「洗いすぎてるのか」
「そうだ」
案内された病室で、蒼麻は一人の少女に会った。
中学生くらいだろうか。
窓辺のベッドに座って、外の庭を見ている。
名前は、三橋莉緒。
長期入院中の患者だという。
母親は、病室の隅で淡々と荷物を整理していた。
医師が説明する。
「莉緒さんは、以前は不安が強く、よく泣いていました。ですが数日前から急に落ち着いて」
「良くなったように聞こえますね」
蒼麻が言うと、医師は困ったように頷いた。
「ええ。最初はそう思いました」
莉緒がこちらを見た。
その目は澄んでいた。
だが、どこか空っぽだった。
「お母さんが泣いても、何も感じなくなったんです」
莉緒が言う。静かな声だった。
「痛いのも怖くない。明日の検査も怖くない。友達に会えないのも、もう寂しくない」
母親の手が止まる。
莉緒は続けた。
「でも、昨日、お母さんの好きな料理を思い出せなくなったんです」
蒼麻は息を詰めた。
「前は覚えてた?」
「はい。唐揚げです。お母さんの唐揚げ、とても好きだったはずなんです」
莉緒は不思議そうに首を傾げた。
「でも、好きだったっていう気持ちが、もう分からないんです」
母親が、声を殺して泣いた。
けれど莉緒は、涙を見ても表情を変えなかった。
真響が小さく言う。
「悲しみごと洗われている」
蒼麻は拳を握った。
「優しいって、こういうことか」
「白は苦しみを嫌う」
「だから消すっていうのか」
「消せば楽になると、本気で思っている」
その瞬間、病室の白いカーテンが揺れた。
風はない。
カーテンの影に、白い狐の姿が一瞬だけ映った。
小さく、淡い影。
目は見えない。
ただ、清らかすぎる気配だけがあった。
――苦しくないように。
声がした。
――泣かなくていいように。
莉緒の胸元から、薄い灰色の靄が抜けていく。
それは悲しみだった。
不安だった。
痛みだった。
同時に、母の唐揚げを美味しいと思った記憶の温度でもあった。
蒼麻は一歩踏み出す。
「待て」
真響が止める。
「むやみに触るな。白の気は、お前の中の濁りも洗おうとする」
「洗われるとどうなる」
「楽になる」
「いいじゃないか」
「そして、大事な痛みも消える」
蒼麻は莉緒を見た。
母親が泣いている。
娘はそれを見ても、悲しくない。何も感じない。
それは確かに楽なのかもしれない。
けれど、そこに人がいる感じがしなかった。
「真響」
「何だ」
「白狐って、悪いやつじゃないんだな」
「ああ」
真響の声は苦かった。
「悪ではない。だから厄介だ」
白狐の先触れは、病院全体に広がっていた。
緩和病棟の老人は、亡くなった妻の顔を思い出しても泣かなくなった。
看護師は、患者の死に疲れなくなった代わりに、名前を覚えにくくなった。
若い医師は、失敗を恐れなくなった代わりに、患者の痛みに鈍くなっていた。
悲しみが消える。
恐れが消える。
怒りが消える。
その代わり、人との結びつきがどんどん薄くなっていく。
蒼麻は廊下を歩きながら言った。
「これ、どうやって止める」
「白そのものは、ここにいない」
真響が言う。
「先触れだけだ。本人が来ていれば、この程度では済まぬ」
「本人来たらどうなるんだよ」
「病院全体が、穏やかな空白になる」
「穏やかってのがなんか怖いな」
「だから先触れで止める」
蒼麻は立ち止まった。
「でも、苦しみを戻すってことだろ」
「そうだ」
「それを俺たちが決めていいのか」
真響は蒼麻を見る。
「苦しみをすべて奪うことも、誰かが勝手に決めてよいことではない」
蒼麻は黙った。
言われれば、その通りだった。
莉緒の病室へ戻る。
母親は、娘の手を握っていた。
「莉緒、思い出して。あなた、小さい頃、唐揚げの端っこのカリカリが大好きだったのよ」
莉緒は首を傾げる。
「そうなんだ」
「そうなんだ、じゃないわ。大好きだったのに」
母親の声が震える。
「泣いてもいいから、怖くてもいいから、それは忘れないで」
その言葉で、蒼麻の胸の奥が熱くなった。
名札のない子。
絵馬返し。
御神酒腐らせ。
何度も見てきた。
人の中にある痛みや濁りは、消せばいいものではない。
分ける。
戻す。
抱えられる形にする。
蒼麻は莉緒のベッドの横に立った。
「莉緒さん」
「はい」
「怖いの、戻していいかな」
母親が息を呑む。
莉緒は、少し考えた。
「怖いのは、嫌です」
「だよな」
蒼麻は頷く。
「でも、怖いのが戻ると、好きも戻るかもしれない」
莉緒の目が、わずかに揺れた。
「お母さんの唐揚げも思い出せるかな?」
「たぶん」
「たぶん?」
「専門外なんだ」
真響が横から言う。
「無責任な人間だ」
「でも、嘘は言ってない」
莉緒は少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
その笑みを見て、母親が泣き出した。
莉緒はその涙を見た。
そして、初めて眉を寄せた。
「お母さん、泣いてる?」
蒼麻は言った。
「そうだ」
「胸が、ちょっと痛い」
「それは戻ってきてるんだ、痛みが」
カーテンが大きく揺れた。
白い狐影が、病室の壁に映る。
――苦しいのは、いらない。
――痛いのは、かわいそう。
蒼麻は影を見る。
「そうだな。かわいそうだ」
真響が少し驚いたように蒼麻を見る。
蒼麻は続けた。
「でも、全部洗ったら、この子がこの子じゃなくなる」
白い狐影が揺れる。
「悲しみは悲しみへ。不安は不安へ。痛みは痛みへ」
蒼麻の声に、わずかに祝詞の響きが混じる。
「だが、人を空にするな。苦しみを抱える器まで洗うな」
白い狐影が、初めて反応した。
――くろ。
その声は、真響に向いていた。
――くろは、また抱える。
真響の顔が強張る。
「黙れ」
――くろは、重いものばかり抱える。
――だから、しろが洗う。
蒼麻は真響を見る。
白狐は、真響を心配しているのか。
それとも、真響のやり方を否定しているのか。
たぶん、両方だ。
真響の声が冷える。
「私は、頼んでいない」
白い影は悲しそうに揺れた。
――知っている。
その瞬間、蒼麻は理解した。
白狐は、優しい。
だが、その優しさは人の苦しみを直視できない。
苦しんでいるなら、洗えばいい。
泣いているなら、涙ごと消せばいい。
重いなら、記憶ごと薄めればいい。
それは救いに似ている。
けれど、本人の輪郭まで削ってしまう。
蒼麻は莉緒の手元にあった名札を見た。
名前が、少し薄くなっている。
三橋莉緒。
蒼麻は赤ペンを取り出した。
名札の文字をなぞる。
「三橋莉緒」
一字ずつ呼ぶ。
「怖いままでも、悲しいままでも、君は君だ」
赤い線が、名前に沿って光った。
莉緒の胸元に戻るように、灰色の靄がゆっくり降りていく。
彼女は顔を歪めた。
涙がこぼれる。
「怖い」
母親が強く手を握る。
「うん」
「痛いのも嫌」
「うん」
「でも、唐揚げ、思い出した」
母親は声を上げて泣いた。
莉緒も泣いた。
その泣き声が、病室に戻ってきた。
白い狐影が薄れていく。
真響が低く言った。
「白へ伝えろ」
蒼麻は影を見る。
「何を」
「洗いすぎるな、と」
蒼麻は頷く。
「人は、泣くから残ることもある」
白い影が、揺れた。
――泣くから、残る。
そして、消えた。
病室の空気が、一気に重くなった。
だが、それは嫌な重さではない。
人が生きている重さだった。
病院を出る頃には、夕暮れだった。
真響はずっと黙っていた。
蒼麻も、しばらく黙って歩いた。
やがて、真響が言った。
「白は、悪くない」
「分かってる」
「分かっていない」
「分かってるよ」
蒼麻は真響を見る。
「真響が白狐を嫌いなわけじゃないことくらいは」
真響は足を止めた。
「嫌いではない」
「うん」
「だが、近づけば苦しい」
「五柱だから?」
「それもある」
真響は夕暮れを見た。
「白は、私を洗おうとする。私が抱えた穢れも、記憶も、痛みも」
「楽にはならないのか」
「なるだろうな」
「じゃあ」
「楽になった私は、果たして私なのか」
蒼麻は答えられなかった。
真響は続けた。
「私は、覚えているから黒狐なのだと思う時がある。忘れれば、楽になる。だが、それでは何のために記憶が残ったのか分からない」
蒼麻は、昨日の会話を思い出した。
一度目の疫病。
世界の巻き戻し。
真響だけに残った記憶。
「白狐は、真響を助けたいのか」
「そうだろうな」
「面倒な姉妹だな」
真響は少しだけ目を細めた。
「姉妹と言ったな」
「違うのか?」
「近いと言った」
「じゃあ、面倒な近い存在」
「なんだそれは」
蒼麻は笑った。
真響は、少しだけ口元を緩めた。
「だが、間違ってはいない」
その時、風が吹いた。
蝋梅の香りに、ほんのかすかに白い花の香りが混じる。
真響が顔を上げた。
「来ているな」
「白狐が?」
「先触れの向こうで、こちらを見ている」
蒼麻は空を見た。
雲の端が白く光っている。
「挨拶くらいしてくれればいいのに」
「会えば、お前は巻き込まれる」
「もうだいぶ巻き込まれてるけど何言ってんだ?」
真響は蒼麻を見る。
「それでもだ」
蒼麻は肩をすくめた。
「分かった。今日は会わない」
「珍しく聞き分けがいいな」
「怖いからな」
「正直でよい」
「でも、いつか会うんだろ」
真響は答えなかった。
それが答えだった。
蒼麻は歩き出した。
「和灯行くか」
「またこの流れでか?」
「この流れだからだ」
「今日は軽い酒がよい」
「意外だな」
「今日は重いものを見た」
「そうだな」
二人は並んで歩いた。
真響の気配は、昨日より少し近い。
けれど、白い影が残したものは、確かに二人の間に落ちていた。
黒は抱える。
白は洗う。
どちらも優しさなのかもしれない。
だが、優しさは時に、人を壊す。
蒼麻はそれを、少しだけ知った。




