第二十話 黒狐の距離
麻那が神代に怒鳴り込んだ翌日から、真響は和灯に来なくなった。
最初の夜、蒼麻は気にしなかった。
「まあ、狐にも都合があるんだろ」
二日目も、まだ平気だった。
「毎日来てた方がおかしかったんだよな」
三日目。
蓮二が、何も言わずに真響用の盃を片づけた。
蒼麻はそれを見て、少しだけ眉を寄せた。
「……いや、別に待ってたわけじゃないぞ」
蓮二は静かに言った。
「誰も何も言ってない」
「その沈黙が言ってる」
「蒼麻」
「何だ」
「分かりやすいぞ」
「うるさい」
その夜の酒は、悪くなかった。
蓮二の肴も、いつも通り丁寧だった。
けれど、何かが足りない。
蝋梅の香りがしない。
それだけのことが、妙に気になった。
四日目の夜。
蒼麻は、和灯を出たあと、気づけば神楽坂の路地を歩いていた。
真響を探しているつもりはなかった。
ただ、なんとなく足が向いただけだ。
そういうことにしておいた。
石畳の路地。
細い階段。
古い塀。
夜風。
いつもなら、どこかでふっと蝋梅の香りがする。
だが、今夜はしない。
「……本当にいないのか」
そう呟いた瞬間、背後から声がした。
「探すな」
蒼麻は振り返った。
真響がいた。
今日は黒いカジュアルな服装だった。
長い黒髪の真響が夜の影に溶けるように立っている。
数日ぶりに見たはずなのに、まるで最初からそこにいたようだった。
蒼麻は少しだけ息を吐いた。
「いたのか」
「いた」
「和灯に来なかったな」
「行く理由がない」
「今まではあったのか?」
真響は答えなかった。
その沈黙が、逆に答えのようだった。
蒼麻は一歩近づこうとして、止まった。
真響の気配が、いつもより遠い。
同じ場所にいるのに、境界線を引かれているような感じがした。
「真響」
「これ以上、私に近づくな」
蒼麻は目を細めた。
「何だそれ」
「そのままの意味だ」
「理由は?」
「私が傍にいることで、お前が神代に見られている」
「もう見られてる」
「黒狐が傍にいることで、五柱の気配が揺れる」
「それももうこの前揺れたんじゃないのか」
「私といることで、お前の器が反応する」
「それは……まあ、そうかもしれないけど」
真響の声が、少し低くなる。
「だから離れる」
蒼麻は黙った。
思っていたより、その言葉は刺さった。
恋とかそういう話ではない。
けれど、真響がいることが当たり前になり始めていたのだと、離れると言われて初めて分かった。
「勝手だな」
蒼麻は言った。
真響の目がわずかに揺れる。
「勝手?」
「最初に勝手に現れて、勝手に見張って、勝手に酒飲んで、勝手に人のこと危ない危ない言って、今度は勝手に離れるのか」
「お前のためだ」
「便利な言葉だな」
真響が黙る。
蒼麻は、少しだけ声を落とした。
「それ、麻那も父さんも使ってたやつだ」
真響の表情が変わった。
ほんの一瞬。
けれど、確かに痛みのようなものが走った。
「……同じにするな」
「同じとは言わない。でも、似てるよ」
蒼麻は一歩近づいた。
今度は真響も下がらなかった。
「俺のためって言えば、俺に何も聞かずに決めていいのか」
「聞けば、お前は止める」
「止めるよ」
「だから聞かぬ」
「なんだそれは」
真響は目を伏せた。
「私は黒狐だ」
「いまさら何を」
「わたしは穢れを受け止める。記憶を沈める。五柱が揃えば、神狐へ傾く。その時、世界は巻き戻る」
蒼麻は息を止めた。
真響は続けた。
「私だけはそれを、うっすら覚えている」
夜風が止まった。
「疫病。灰の空。黒い太陽。人間が何度も終わりかけたこと。皆は忘れる。他の妖狐たちもほとんど覚えていない。だが、私の記憶だけはほんの少し残る」
蒼麻は、黒札の宴で見た一瞬の光景を思い出した。
黒い太陽。
灰の降る空。
胸を潰すような終末の匂いと気配。
「真響」
「お前は、そこに近い匂いがするのだ」
真響の声は静かだった。
だからこそ、重かった。
「酒と土地と神気。名と縁を戻す力。麻臣の封印。神代の器。九尾の気配。私の記憶」
真響は蒼麻を見た。
「お前の傍にいると、忘れていたものが浮かび上がる。私が忘れていたいものまで」
蒼麻は何も言えなかった。
「だから離れる。私が傍にいれば、おそらくお前も、私も、余計なものを呼ぶ」
「それで、真響は楽になるのか」
真響は答えない。
「俺は安全になるのか」
それにも答えない。
蒼麻は息を吐いた。
「答えられないなら、それは理由じゃなくて怖がってるだけだろ」
真響の目が鋭くなる。
「人間が、私に怖れを説くか」
「狐でも怖いものは怖いだろ」
「黙れ」
「黙らない」
蒼麻は初めて、真響へ真正面から踏み込んだ。
「俺はまだ何も分かってない。神代のことも、麻臣のことも、自分の器のことも、五柱のことも、九尾のことも。俺にだけ誰も教えちゃくれないからな」
真響は動かない。
「でも、分からないからって、勝手に遠ざけられるのはもう嫌なんだよ」
その言葉は、真響だけに向けたものではなかった。
父へ。
麻那へ。
神代一族へ。
そして、自分自身へ。
「俺は真響が離れたいなら止めないんだよ」
蒼麻は言った。
「でも、“俺のため”って言って離れるな。真響が怖いから離れるって言え」
真響の唇が、わずかに震えた。
怒りではない。
もっと深いところを突かれた顔だった。
「……私は」
「そもそも、その五柱って何なんだよ」
真響は少し黙った。
「今さらか」
「今さらだよ。みんな当たり前みたいに言うけど、俺だけ説明なんにも受けてないんだぞ」
「それは神代に言え」
「言う。今度まとめて言う」
蒼麻は腕を組む。
「黒狐だの白狐だのは聞いた。お前が黒だってのも分かった。でも五柱って何なんだ」
真響は夜空を見上げた。
月は薄い。
「昔からいる狐だ」
「それ雑だろ」
「説明が面倒だ」
「頑張れ」
真響は嫌そうな顔をした。
それでも少し考え、
「世界には流れがある」
と言った。
「流れ?」
「季節が巡るように。昼と夜が巡るように。生と死が巡るように」
蒼麻は黙って聞く。
「五柱は、その流れの偏りを抑えるために生まれた」
「神様みたいなものか」
「違う」
即答だった。
「もっと厄介だ」
「嬉しくないな」
「私も嬉しくない」
真響は続ける。
「黒、白、朱、蒼、黄」
「お前が黒」
「ああ」
「他もいるのか」
「いる」
「仲良し?」
「最悪だ」
即答だった。
蒼麻が吹き出す。
「そんなにか」
「そんなにだ」
真響は本気で嫌そうだった。
「互いに助けることもある。殺したくなることもある。離れたいこともある」
「兄弟姉妹みたいだな」
真響は少しだけ黙った。
「……近い」
その声は珍しく柔らかかった。
「だが、問題はそこではない」
「何だ」
真響の目が少しだけ冷える。
「揃うことだ」
夜風が吹く。
蝋梅の香りが流れる。
「五柱は、本来、揃ってはならない」
蒼麻は眉をひそめる。
「なんで」
「近づきすぎると、自我が曖昧になる」
「は?」
「お前と私が混ざると言われたら嫌だろう」
「嫌だな」
「私も嫌だ」
真響は真顔だった。
「五柱は、元は一つだったという説がある」
蒼麻が目を細める。
「説?」
「私も全部覚えていないからだ」
そこだけは少し苦そうだった。
「だが、我々が強く共鳴すると、境界が曖昧になる」
「それで?」
「最悪の場合」
真響はそこで言葉を切った。
蒼麻が待つ。
「世界が巻き戻る」
沈黙。
蒼麻は数秒考えた。
「今なんて?」
「世界が巻き戻る」
「待て待て待て」
蒼麻は本気で困惑した。
「話が急に大きくなったぞ」
「だから説明したくなかった」
「それは会った時に先に言え」
「言ったらお前は聞くだろう」
「聞くよ!」
真響は小さく息を吐いた。
「だから離れていた」
蒼麻は少し黙る。
「……もしかして」
「何だ」
「お前、思ってたよりだいぶ重いもの背負ってる?」
真響は夜空を見る。
しばらく返事をしなかった。
そして小さく言う。
「お前にだけは言われたくない」
夜の奥で、何かが動いた。
黒い影。
石畳に、狐の尾のような影が伸びる。
真響がはっと顔を上げた。
「蒼麻、下がれ」
「何だ」
「呼んだ」
「誰が」
「私が」
真響の声が低くなる。
「離れようとしたことで、縁が逆に鳴った」
「だから言ったじゃないか、勝手に離れるなって」
「今それを言うか」
「言う」
黒い影が、路地の奥から形を作る。
狐に似ている。
だが、真響ではない。
煤のような毛並み。
穴の空いた目。
体の中に、いくつもの記憶の欠片が詰まっている。
真響が呟いた。
「残響狐」
「真響の?」
「私が沈めた記憶の澱だ」
残響狐が鳴いた。
声は、複数の声が重なっていた。
――忘れるな。
――沈めるな。
――お前だけ覚えている。
――お前だけ逃げるな。
真響の顔が強張る。
蒼麻はすぐに分かった。
これは、真響が避けてきたものだ。
蒼麻のせいで呼ばれたのではない。
真響が、自分の記憶から逃げようとしたことで、逆に形になった。
残響狐が飛びかかる。
真響の黒い狐火が走る。
だが、狐火は影を焼かない。
飲み込まれる。
「なんで狐火が効かないんだ?」
「私の残響だ。私の火では焼けぬ」
蒼麻は赤ペンを取り出す。
真響が叫ぶ。
「触るな!」
「触らなきゃ終わらないだろ」
「これは私のものだ!」
「だからって一人で抱え込むな!」
蒼麻の声が、路地に響いた。
残響狐が止まる。
真響も止まった。
蒼麻は一歩前に出た。
「真響。名前を呼べ」
「何を」
「それが何の記憶なのか」
真響は息を詰める。
「言えるわけがない」
「じゃあ、今言えるところだけでいい」
残響狐が唸る。
黒い影の中に、一瞬だけ映像が見えた。
疫病に伏す人々。
白い狐が泣いている。
朱い狐が燃えるように怒っている。
蒼い狐が流れを戻そうとしている。
黄色い狐が沈黙している。
そして黒い狐が、すべてを抱え込んでいる。
真響の声がかすれた。
「……一度目」
蒼麻は振り返らない。
「何が」
「疫病」
残響狐の動きが鈍る。
「都が死にかけた。人間の恐れが、病を神のようにしてしまった。だから私たちは……巻き戻した」
蒼麻の胸の奥が熱くなる。
だが、今は開かない。
開くのではなく、聞く。
「それで?」
真響の声が震える。
「皆、忘れた。私だけ、記憶が少し残った」
残響狐が小さくなる。
「忘れたかったんだな」
「忘れてはならぬと思った」
真響は苦しそうに言う。
「だが、覚えているのは苦しい」
蒼麻は静かに頷いた。
「そりゃそうだ」
「軽く言うな」
「軽くは言ってない」
蒼麻は赤ペンを握った。
残響狐の足元に、細く線を引く。
縛る線ではない。
真響へ戻す線でもない。
記憶が、記憶として眠れる場所を示す線。
「忘れない。でも、今ここで全部抱えなくていい」
真響が蒼麻を見る。
「そんな都合のいいことができるわけがない」
「できることにする」
「人間は傲慢だな」
「今日はそれでいい」
赤い線が淡く光った。
残響狐は、少しずつ形を失っていく。
最後に、小さな黒い毛玉のような影になり、真響の足元へ寄った。
真響はしばらくそれを見下ろしていた。
そして、ゆっくり膝をついた。
白い指で、その影に触れる。
「……今は、眠れ」
影は、蝋梅の香りに包まれて消えた。
路地に静けさが戻る。
蒼麻は大きく息を吐いた。
「終わった?」
「終わってはいない」
真響が立ち上がる。
「だが、今夜は静まった」
「なら、和灯行くか」
真響が目を丸くした。ほんの少しだけ。
「この流れで?」
「この流れだからだ」
「お前は本当に……」
真響は言葉を探して、諦めたように息を吐いた。
「馬鹿なのか」
「お前にはよく言われる」
「褒めていない」
「知ってる」
少しだけ沈黙があった。
蒼麻は真響を見る。
「で、離れるのか」
真響は答えなかった。
代わりに、静かに言った。
「少し、距離は取る」
「また勝手に?」
「今度は言っている」
「まあ、進歩だな」
「調子に乗るな」
蒼麻は笑った。
真響は、ほんの少しだけ目を伏せる。
「だが、完全には離れぬ」
蒼麻は何も言わなかった。
言えば、たぶん余計なことになる。
だから代わりに歩き出した。
「じゃあ、行くぞ」
「どこへ」
「和灯」
「肴は」
「蓮二のおまかせで」
「なら行くか」
蒼麻は笑った。
「結局そこは信頼してるんだな」
「店はな」
「俺は?」
真響は少しだけ考えた。
「……以前よりは」
蒼麻は、今度は茶化さなかった。
「そっか」
それだけ言った。
夜の路地を、二人で歩く。
蝋梅の香りが戻っていた。
少しだけ弱く。
けれど、確かに。




