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第十九話 妹の怒り

麻那がその話を聞いたのは、黒札の宴が終わった翌朝だった。


神代商工会調査機構の会議室。

報告書を受け取った麻那は、最初、何も言わなかった。


ただ、紙を一枚ずつめくった。


神代蒼麻(かみしろ そうま)、黒札により旧神代迎賓館へ招請(しょうせい)

黒狐真響(こくこ まゆら)、同伴。

地下宴席にて、蒼麻の器反応を確認。

神鏡に五柱の影、および九尾らしき影、一瞬現出。


そこまで読んだところで、麻那は静かに書類を閉じた。


同席していた部下が、青ざめる。


「神代室長……」


麻那は笑っていた。


とても綺麗に。


だからこそ、部屋の空気が凍った。


「誰が、私を通さずに兄を呼びましたか」


声は穏やかだった。


穏やかすぎた。


部下は答えられなかった。


麻那は立ち上がる。


「旧神代迎賓館へ行きます」


「お一人で、ですか」


「ええ」


「ですが、あちらには紫苑様や桃様も――」


麻那は振り返った。


「だから行くんです」


それ以上、誰も止められなかった。


旧神代迎賓館の地下宴席は、昨夜の気配をまだ残していた。


黒檀の長卓。

神鏡。

祭壇。

方位を示す床の文様。


そこに、神代紫苑(しおん)真人桃(まひと もも)、神代(さくら)がいた。


麻那が入ってきた瞬間、桃が面白そうに笑った。


「来たか」


麻那は桃を見なかった。


まっすぐ紫苑の前へ進む。


「説明を」


短い一言だった。


紫苑は静かに答える。


「蒼麻の状態を確認する必要があった」


「私を通さずにですか?」


「お前は蒼麻を守りすぎる」


麻那の目が紫苑を静かに見る。


「守って何が悪いのですか」


桃が肩をすくめる。


「悪くはない。ただ、目隠しになる」


麻那はようやく桃を見た。


「兄を値踏みする場に引きずり出す方が、よほど目隠しでは?」


桜が小さく息を吐いた。


「麻那、気持ちは分かる」


今度はそう発言した桜を、麻那はゆっくり見た。


「桜さん、あなたも止めなかったんですね」


麻那の声は震えていなかった。


桜は否定しなかった。


「ああ、止めなかった」


「なぜ」


「蒼麻自身が、神代の視線を一度知る必要があったから」


「本人の了承もなく?」


「黒札に応じたのは蒼麻だ」


その瞬間、麻那の表情が変わった。


怒りが、初めてはっきり顔に出た。


「兄は、断れば神代が来ると分かっていたから行ったんです」


地下の空気が重くなる。


「それを“応じた”と言うなら、神代は昔から何も変わっていない」


紫苑が目を伏せる。


「麻臣にも、同じことを言われたよ」


麻那の息が止まった。


父の名。


麻臣(あさおみ)


その名が出ると、怒りの奥から別の感情が滲みそうになる。


だが、麻那は崩れなかった。


「父は、兄を一族から守ろうとしました」


「そして、お前はそれを引き継いだ」


「はい」


麻那は即答した。


「でも、私は兄を隠したいわけではありません。兄に、選ばせたいだけです」


桃が少しだけ真顔になる。


「選ばせる?」


「そうです」


麻那は長卓に手を置いた。


「兄は、自分が何なのかを知らされていません。封印も、御神酒も、地酒も、神降しの器も。何も知らないまま、先日までずっと生きてきました」


声が少しだけ低くなる。


「それをしたのは父です。私も黙っていました。だから、私たちにも罪があります」


紫苑は何も言わない。


「でも、だからといって、今度は一族が兄を勝手に見る権利があるんですか」


麻那の声が、初めて震えた。


怒りではない。


痛みだった。


「父は、兄を神代の道具にしないために死んだんです」


場が静まり返った。


桃の笑みが消える。


桜も目を伏せた。


麻那は続ける。


「父は、正しかったとは言いません。兄から知る権利を奪った。私からも、普通の兄妹でいる時間を奪った。兄は今も笑ってごまかすけれど、傷ついています」


麻那は拳を握った。


「それでも、父は兄を愛していました」


その一言だけは、幼い妹の声だった。


「神の器ではなく、自分の子として守ったんです」


紫苑が、静かに息を吐いた。


「麻那」


「私は、兄を神代に渡しません」


麻那は紫苑を見た。


「必要なら協力します。怪異も祓います。神代の企業も守ります。でも、兄の意思を尊重しない者には、私が敵になります」


桃がゆっくりと笑った。


今度は、面白がる笑みではない。


「いいね」


紫苑が桃を睨む。


「桃」


「いや、いい。神代麻那。お前は本当に麻臣の娘だ」


麻那は冷たく返す。


「褒め言葉としては受け取りません」


「それでいい」


桃は椅子にもたれた。


「だが、一つだけ言っておく。蒼麻はもう隠れられない。黒狐が傍にいる。五柱の影が出た。九尾らしきものまで映った。神代だけではない。外も動く」


これが露見すれば

「神祓庁」

「陰陽寮」

「御法院」

財界組織「鴉羽会」

ヨーロッパ圏を仕切る「黄昏協会」

怪異研究組織「常世研究所」

神代を離反した者たちによる「朧会」

神狐と九尾狐の信奉者「帰還派」と呼ばれる者たち

酒神を信奉する「神酒講」

国家による「特異災害対策室」など様々な組織が動き出す可能性があるからだ。


「分かっています」


「ではどうする」


麻那は迷わず答えた。


「兄に話します」


紫苑の目がわずかに動いた。


「どこまで?」


「必要なところから。兄が聞いてくれるところまで」


「封印の全容は重い」


「重いからこそ、本人に渡すべきです」


麻那は、机の上に黒札を置いた。


昨夜、蒼麻に送られたものと同じ札だった。


「今後、兄を呼ぶ時は、私を通してください」


桃が言う。


「通さなければどうなる?」


麻那は微笑んだ。


「神代商工会調査機構の権限で、関係企業すべてに監査を入れます」


桜が小さく吹き出した。


「怖い妹だ」


「一部事業は停滞、損失も大きいかもしれませんがそれを覚悟してください」


麻那は真顔で返す。


「兄を守るためなら、だいたいなんでもやります」


紫苑はしばらく黙っていた。


麻那の管理下にある企業群の規模は、一族の中ではそこまで大きいわけではない。


だが、力を持つ企業に情報をリークしたり、外部企業と協力して何か仕掛けてくる事も容易に想像できた。


そして麻那がそれを口にするほど怒っているのだ。


紫苑はやがて、ゆっくり頷いた。


「分かった。次からは、お前を通す」


「“次から”で済ませません」


麻那の声が鋭くなる。


「今回は、兄に謝ってください」


紫苑が麻那を見る。


「蒼麻に?」


「はい」


「神代の大祭司が、か」


「はい」


沈黙。


桃がまた少し笑った。


「紫苑、これは断れないな」


紫苑は目を閉じた。


そして、静かに言った。


「分かった」


麻那は一礼した。


「ありがとうございます」


その礼は、勝利の礼ではなかった。


兄の尊厳を、一つだけ取り戻した礼だった。


その夜。


麻那は和灯へ行った。


蒼麻は、いつもの席で酒を飲んでいた。


隣には真響。


蓮二は黙って椀物を温めている。


「麻那?」


蒼麻が目を上げる。


「どうした。仕事帰りか」


麻那は少しだけ迷って、兄の隣に座った。


「怒ってきた」


「誰に」


「神代に」


蒼麻は一瞬固まった。


真響が盃を置く。


「なるほど。道理で気が尖っている」


麻那は真響を見る。


「兄を止めてくれて、ありがとうございました」


真響は少しだけ目を細めた。


「止まらなかった」


「それでも」


真響は何も言わなかった。


蒼麻は麻那を見る。


「何か言われたのか?」


「私が言った」


「何を」


麻那は少しだけ息を吸った。


「兄を神代の道具にするなって」


蒼麻は黙った。


蓮二が、そっと椀物を置く。


麻那は続ける。


「あと、次に兄を呼ぶ時は必ず私を通せって」


「麻那」


「それから、紫苑様に謝ってもらう」


蒼麻は思わず笑った。


「あの大祭司に?」


「うん」


「怖い妹だな」


麻那は少しだけ笑った。


「怖くないと、神代では兄を守れないから」


その言葉に、蒼麻は胸の奥が詰まるような感覚を覚えた。


麻那は、ずっと守ってきたのだ。


自分を。


自分が知らないところで。


父の真実も、封印も、神代の視線も、兄の痛みも。


全部抱えて。


「麻那」


「なに?」


「ありがとな」


麻那の目が揺れた。その一言で十分だった。


真響が静かに言った。


「礼は受け取れ。兄妹そろって下手だな」


蒼麻は苦笑した。


「最近、そればっかり言われてるな」


蓮二が酒を注ぐ。


「今日は麻那ちゃんに一杯出すよ。店から」


麻那は少し驚いた。


「いいんですか?」


「怒ってきた人には、温かいものと酒がいるんだよ」


真響が頷く。


「正論だ」


蒼麻も頷く。


「和灯基準だけど」


麻那は盃を受け取った。


三人、いや蓮二も含めて四人の間に、少しだけ静かな時間が流れた。


麻那は盃を見つめながら言った。


「お兄ちゃん」


「何だ」


「父さんのこと、少しずつ話す」


蒼麻の指が止まる。


「……今夜?」


「今夜は、少しだけ」


真響は何も言わなかった。


蓮二も黙っていた。


麻那は、静かに続けた。


「父さんは、お兄ちゃんを一族から隠すために、神代を捨てる覚悟だった」


蒼麻は目を伏せた。


怒りもある。


知りたい気持ちもある。


聞きたくない気持ちもある。


けれど、麻那が話そうとしているなら、聞くべきだと思った。


「そうか」


それだけ言った。


麻那は頷いた。


「父さんは、もしかしたらひどいことをしたのかもしれない。でも、愛してなかったわけじゃないの」


蒼麻は盃を握る。


酒の香りが、静かに立つ。


「……それが一番厄介だよな」


「うん。私もそう思う」


麻那は小さく笑った。


泣きそうな笑顔だった。


真響が盃を持ち上げた。


「厄介な愛に」


蒼麻が見る。


「乾杯する内容か、それ」


「飲まねば重すぎる」


蓮二が小さく笑った。


「それは正論」


麻那も、少しだけ笑った。


四つの盃が、静かに触れる。


ちん、と澄んだ音がした。


今夜の酒は、お燗なのにほろ苦い。けれど、不思議と美味しかった。

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