第十八話 黒札招待状
その封筒は、和灯に届いた。
蓮二が暖簾をしまう少し前、郵便物の束から一通だけを抜き出して、蒼麻の前に置いた。
「また神代」
蒼麻は盃を持ったまま、露骨に嫌な顔をした。
「ここを俺の住所にするなって言ってるのに」
「差出人が神代って書いてある時点で、うちに置いとく方が怖いんだから早く持って帰ってくれ」
封筒は黒かった。
ただの黒ではない。
墨を何度も重ねたような、光を吸う黒。
表には、白い筆文字で一つだけ。
神代蒼麻 様
裏には、神代本家の紋が押されていた。
蒼麻はしばらく封筒を見つめた。
「置いて帰っていい?」
「勘弁してくれ」
「中身を見てから判断したい」
「早く開けなさい」
蓮二に促され、蒼麻は封を切った。
中には、黒い和紙の札が一枚入っていた。
そこには、短くこう書かれている。
神代蒼麻
来たれ
日時。
そして場所。
千鳥ヶ淵 旧神代迎賓館 地下宴席
最後に、朱で一文。
黒札を持たぬ者、入るべからず。
蒼麻は札を置いた。
「胡散臭すぎる」
蓮二も覗き込む。
「胡散臭いな」
「宗教勧誘より怖い」
「お前んち、神職絡みだろ」
「だから余計に怖いんだよ」
その時、店の外を冷たい風が通った。
蝋梅の香り。
蒼麻は暖簾の方を見た。
真響が立っていた。
黒い着物。
白い指。
いつものように、音もなく現れている。
「その札を捨てろ」
第一声がそれだった。
蒼麻は目を細める。
「圧が強いな」
「ろくな宴ではない」
「知ってるのか」
「黒札は、神代が“表に出したくない者”を呼ぶ時に使う」
蓮二が小さく言った。
「表に出したくない者……」
「俺、出したくない側なのか」
蒼麻が言うと、真響は黒札を見た。
「今までは隠されていた。これからは、見られるぞ」
「嫌な言い方だな」
「事実だ」
真響の声は硬い。
蒼麻は黒札を指で叩いた。
「行かなかったら?」
「向こうが来る」
「だよな」
「だから行くな」
「矛盾してるぞ」
「行けば値踏みされる。行かなければ狩りに来る。どちらも悪い」
「救いがないじゃないか」
「神代だからな」
蓮二が真面目な顔で頷く。
「親戚の集まりって怖いよな」
「規模と圧が違う」
蒼麻はため息をついた。
「真響」
「何だ」
「一緒に来るか」
真響は即答した。
「行く」
「早いな」
「お前一人で行かせる方が危ないからな」
「入れるのか?」
「入れなければ壊す」
「やめろ。開催前に出禁になる」
「わたしを閉め出そうとする方が悪い」
蓮二が小さく笑った。
「大丈夫か、この宴」
蒼麻は黒札を見下ろした。
「大丈夫じゃないから呼ばれてるんだろ」
旧神代迎賓館は、千鳥ヶ淵の奥まった場所にあった。
表向きは、明治期に建てられた洋館を改装した会員制クラブ。
重厚な石造りの外壁。
蔦の絡む鉄柵。
ガス灯を模した外灯。
門の向こうには、手入れされた庭園と黒い水を湛えた池がある。
桜の季節なら華やかだろう。
だが今夜は、月が薄く、池の水は夜を映して黒い。
迎賓館の玄関では、燕尾服の男が黒札を確認した。
蒼麻が札を差し出すと、男は深く頭を下げた。
「神代蒼麻様。お待ちしておりました」
その視線が、隣の真響へ移る。
男の表情が一瞬だけ強張った。
「……そちらの方は」
真響が目を細める。
「私に札が必要か」
霊気の圧が強まり、空気が冷える。
男の喉が鳴った。
その時、奥からくぐもった男の声がした。
「通していい」
神代桜だった。
薄紅の霊気をまとい、柔らかく微笑んでいる。
「黒狐真響を門前で止めるほど、今夜の神代は愚かではないよ」
「十分愚かに見えるが」
真響が返す。
桜は楽しそうに笑った。
「そこも含めて、今夜は面白い」
蒼麻はげんなりした。
「面白がってますね」
「かなり」
「隠す気あります?」
「ない」
桜は踵を返し、二人を館内へ案内した。
洋館の内部は華やかだった。
高い天井。
古いシャンデリア。
赤い絨毯。
磨かれた木製の手すり。
だが、桜は一階の大広間には向かわなかった。
廊下の奥、壁に隠された扉を開く。
その先に、地下へ降りる階段があった。
階段を降りるにつれて、空気が変わる。
西洋建築の華やかさが薄れ、代わりに檜と石と古い香の匂いが濃くなる。
地下には、まるで神社の拝殿と財界人の晩餐室を無理やり縫い合わせたような空間が広がっていた。
黒檀の長卓。
壁際に並ぶ古い神鏡。
床には方位を示す文様。
奥には、注連縄を張った祭壇。
そして、そこに集まる人々。
企業家。
神職。
術者。
研究者。
政治家めいた者。
退魔師。
神代の分家筋。
神代企業群の重役。
全員が、蒼麻を見た。
そして次の瞬間、視線が真響へ移る。
場が止まった。
本当に、呼吸まで止まったようだった。
誰かが小さく呟いた。
「黒狐……」
別の者が、さらに低く。
「本物か」
「なぜ蒼麻の隣にいる」
「麻臣の封鎮が緩んだという話は本当か」
「五柱の兆しではないのか」
ざわめきが広がる。
蒼麻は真顔で言った。
「もう帰りたい」
真響は隣で静かに返す。
「遅い」
「お前が行くって言ったんだろ」
「一人で行くよりはましだからだ」
桜が横で笑いをこらえている。
蒼麻は睨んだ。
「楽しんでますよね」
「最悪に美味しい」
「口に出した」
「隠す必要がない」
「神代の人間って、そういうところありますよね」
桜は笑みを深めた。
「ある」
長卓の奥に、神代紫苑がいた。
白い装束に近い黒衣。
神代一族の大祭司。
隣には神代真人桃。
三十代半ばの男。
穏やかに笑っているが、目は笑っていない。
さらに少し離れて、神代百合。
桃を監視するような位置に立っている。
神代林檎は、部屋の隅で鳥のような式を肩に乗せていた。
神代宴もいる。
人当たりのよい顔をしているが、空気は妙に鋭い。
それぞれが、静かに蒼麻を観察していた。
紫苑が口を開く。
「神代蒼麻」
蒼麻は一応、軽く頭を下げた。
「どうも」
「よく来た」
「来たというか、呼ばれたので」
桃が笑った。
「黒札を受けてなお、その程度の挨拶か。面白いな」
「面白がられるために来たわけではないです」
「では、何のために来た?」
蒼麻は少し考えた。
「来なかったら、そちらが来そうだったので」
部屋の空気がわずかに動く。
百合が小さく笑った。
「正しい判断ね」
紫苑は真響を見る。
「黒狐真響」
「呼ぶな」
真響の一喝で、場がまた凍る。
蒼麻は小声で言った。
「もう少し穏便にできないのか」
「できぬ」
「即答しないでくれ」
紫苑は表情を変えない。
「蒼麻の傍にいる理由を聞きたい」
真響は淡々と答えた。
「言う義理はない」
桃が面白そうに身を乗り出す。
「見張りか。興味か。あるいは、……情か」
その瞬間、真響の視線が桃へ向いた。
黒い狐火が、一瞬で現れる。
「次にそれを軽く言えば、舌を焼く」
部屋が沈黙した。
蒼麻は額を押さえた。
「始まって五分で戦闘になりそうなんだが」
桜が嬉しそうに言う。
「まだ五分も経っていない」
「実況しないでください」
紫苑が静かに手を上げた。
「今夜は争うための席ではない」
「なら何のための席ですか」
蒼麻が問う。
紫苑は答えた。
「確認の席だ」
嫌な言い方だった。
「何を」
「神代蒼麻。お前が何者であるか」
その言葉と同時に、長卓の上に小さな盃が置かれた。
酒が注がれている。
御神酒。
ただの酒ではない。
複数の土地の気が混ざっている。
蒼麻には、それが分かった。
分かってしまった。
喉の奥が、わずかに熱くなる。
麻臣の封印。
地酒。
土地の気脈。
器。
真響が低く言った。
「飲むな」
紫苑は真響を見た。
「毒ではない」
「毒より悪いものもある」
桃が笑う。
「黒狐が過保護とは面白い」
蒼麻は盃を見た。
周囲の視線が刺さる。
試されている。
この酒を飲めば、何かが開く。
あるいは、蒼麻の器がどう反応するか観測される。
麻那はいない。
蓮二もいない。
ここには、蒼麻を値踏みする目ばかりがある。
蒼麻は盃に手を伸ばした。
真響が腕を掴む。
「蒼麻」
その声は、いつもより低かった。
止めている。本気で。
蒼麻は真響を見る。
「大丈夫」
「大丈夫ではない時の声だ」
「最近、そればっかりだな」
「分かっているならやめろ」
蒼麻は小さく笑った。
そして、盃を持ち上げた。
場が静まる。
蒼麻は酒を見つめた。
そして香りを嗅いで言い放つ。
「……これはまずそうだ」
紫苑の眉がわずかに動いた。
桃が笑みを深める。
蒼麻は盃を置いた。
飲まなかった。
「酒として、これはまずい。そんなことは飲む前にわかる」
長卓の端で誰かが息を呑んだ。
蒼麻は続ける。
「土地の気を混ぜすぎてる。米の声も、水の筋もぐちゃぐちゃだ。御神酒として整えたつもりなんでしょうけど、これは酒じゃなくて、術式の溶液だ」
真響の目が少しだけ緩む。
桜が小声で笑った。
「言いやがったな」
蒼麻は紫苑を見る。
「酒で俺を試したいなら、せめて美味い酒を出してください」
一瞬。
本当に一瞬だけ、場が完全に止まった。
次に、桃が大声で笑った。
「最高だな、麻臣の息子は」
百合も口元を押さえている。
林檎の肩の鳥が、きょろきょろと周囲を見た。
紫苑は、しばらく蒼麻を見ていた。
やがて、低く言った。
「何者なのだ、お前は」
蒼麻は少し考えた。
部屋中が、その答えを待っている。
神代蒼麻とは何か。
神降しの器か。
麻臣の封じた切り札か。
黒狐がまとわりつく異物か。
九尾狐に対する何かか。
五柱を引き寄せる存在か。
蒼麻は答えた。
「酒好きです」
沈黙。
真響が目を閉じた。
桜がついに吹き出した。
桃は机を叩いて笑った。
紫苑は頭痛をこらえるように眉間を押さえた。
蒼麻は続けた。
「酒が好きで、名前を呼んで、帰る場所があって、まだ自分が何者か分からない人間です」
笑いが止まった。
空気が変わる。
蒼麻は静かに言った。
「器だの、封印だの、神代の都合だの。正直、まだ全部は分からない。でも、少なくとも、俺は俺の名を手放す気はありません」
真響が、ほんの少しだけ笑った。
「そうだな」
その声だけが、やけに静かに響いた。
「まだ、分からぬな」
紫苑は蒼麻を見つめた。
「麻臣が隠した理由が、少し分かった」
桃は薄く笑う。
「そして、一族が欲しがる理由もな」
真響の目が冷える。
「欲しがるな」
桃は肩をすくめた。
「怖いな、黒狐」
「もっと怖がれ」
蒼麻は小さくため息をついた。
「本当に帰っていいですか」
桜が楽しげに言う。
「まだ始まったばかりじゃないか」
「最悪ですよ」
その時、奥の祭壇に置かれた神鏡が、かすかに曇った。
誰かが真実を見抜く伊斯許理度売命の権能を行使したのか。
いや誰も触れていない。それが得意な桔梗もここにはいない。
だが鏡面に、黒い影が映る。
狐の尾。
一つではない。
五つ。
場の空気が一変した。
紫苑が立ち上がる。
桃の笑みが消える。
真響の表情が、静かに凍る。
蒼麻は神鏡を見る。
黒。
白。
朱。
蒼。
黄。
五つの狐影が、鏡の奥で揺れていた。
そして、その背後に、もっと大きな尾の影が一瞬だけ見えた。
九つ。
蒼麻の胸の奥が熱を持つ。
真響が低く言った。
「見るな」
「またそれか」
「今度は本当に見るな」
だが、もう遅かった。
蒼麻は見てしまった。
一瞬だけ。
黒い太陽のようなものを。
灰の降る空を。
世界が巻き戻る直前の、名も知らぬ記憶を。
その瞬間、真響が蒼麻の手を強く掴んだ。
「蒼麻!」
名前を呼ばれた。
蒼麻は息を吸い戻す。
神鏡の曇りは消えていた。
だが、場にいた全員が悟っていた。
これは、ただの確認の席では終わらない。
神代蒼麻と黒狐真響。
その組み合わせは、神代一族の思惑を越えた何かを呼び始めている。
紫苑が静かに言った。
「宴は、ここまでだ」
桃が低く笑う。
「いや。ここからだろう」
真響は蒼麻の手を離さなかった。
蒼麻も、それを振りほどかなかった。
今夜。
神代一族は蒼麻を見た。
黒狐を見た。
そして、鏡の奥に揺れた五柱の影を見た。
もう、誰も見なかったふりはできない。




