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幕間 封鎮記

神代奥之院の灯りは、夜でも明るすぎることがない。


薄い行灯の光。

磨かれた廊下。

古い檜と誰の声も響きすぎない広間。


そこに、数人の神代が集まっていた。


「蒼麻の封印が緩み始めている」


最初にそう言ったのは、神代紫苑(しおん)だった。


大祭司。


神代一族の祭祀を束ねる者であり、奥之院に深く関わる人物でもある。


その場にいた者たちの空気が、わずかに変わる。


「やはり、祝詞を口にした件か」


低く言ったのは、神代真人桃(まひと もも)


三十代半ば。

革新派の中心にいる男。


「それだけではない」


紫苑は静かに答えた。


「名を返し、祈りを返し、印へ責任を戻した。あれは通常の退魔ではない」


「祓っていないのに、怪異の性質を書き換えている」


そう言ったのは、神代桔梗(ききょう)だった。


真実を見る目を持つ女。


「視たのか」


桃が尋ねる。


桔梗は頷いた。


「直接ではない。でも、痕跡は見た。あれは麻臣さんの封鎮が想定した範囲を越え始めている」


広間に沈黙が落ちた。


麻臣。


神代蒼麻の父。


かつて一族の中でも極めて優秀な術者と見なされていた男。

だが、ある時期から本流の祭祀から距離を取り、蒼麻の記録を一切報告していない。


神代一族の多くは、それを不審に思っていた。


だが、踏み込めなかった。


麻臣が施した封印はあまりにも精緻で、力があると誰も思わなかったからだ。


「麻臣は、最初から一族に渡す気がなかったのだな」


桃が言う。


その声には怒りよりも、興味が混じっていた。


「神代一族からあれほどの器を隠した。しかも、ただ封じたのではない。酒と土地の気脈を使い、封印を維持し続ける仕組みまで作っていた」


「裏切りと見る者もいるだろう」


紫苑が言う。


「実際、そう見るべき案件でもある」


桔梗は静かに首を振った。


「でも、愛情でもあった」


桃が目を細める。


「愛情?」


桔梗は、手元の古い記録を開いた。


そこには、麻臣の筆跡で短い文が残されていた。


蒼麻は、酒を好む子になるだろう。

そう仕向けたのではない。

あの子は、水の違い、米の甘み、土地の匂いを、幼い頃から面白がっていた。


ならば、その好きを奪わずに済む封鎮を作る。

あの子が己を守る術を、呪いとしてではなく、楽しみとして選べるように。


広間が静まり返る。


桔梗は続けて読んだ。


酒を鎖にしてはならない。

あれは、蒼麻が人として帰るための道でなければならない。

神の器としてではなく、神代の道具としてでもなく。


ただ、あの子が「ああ旨い」と笑えるように。


紫苑が目を伏せた。


「麻臣らしい」


「らしい、で済む話か」


桃の声は低い。


「一族の管理外で、器を温存した。しかも本人にも知らせずに」


「だからこそ、離別する覚悟だったのでしょう」


桔梗が答える。


「麻臣さんは、蒼麻を一族から守るために、一族を敵に回すつもりだった」


その言葉に、誰もすぐには反論しなかった。


蒼麻の器。


神を降ろすための器。

だが、通常の神降しとは違う。


土地の気脈と、酒と、名と縁に反応する。

降ろすだけではなく、ほどけたものを戻し、失われかけたものを留める。


蒼麻はいかなる神の権能を行使し始めたというのか。


そしてそれは、神代一族にとって利用価値が高すぎた。


「だから隠した、か」


桃が笑う。


「親というものは、面倒だな」


「あなたには分からない?」


桔梗が問う。


桃は肩をすくめた。


「分からないとは言わない。ただ、理解と納得は別だ」


紫苑が静かに言う。


「問題は、黒狐だ」


その一言で、空気がまた変わった。


「真響か」


「黒狐が蒼麻の傍にいる。偶然とは思えない」


「五柱の一つが、神代の封じた器に近づいている」


誰かが低く呟いた。


「神狐の兆しか」


紫苑は答えない。


桔梗は、遠くを見るように目を細めた。


「まだ違う。でも、真響は蒼麻を見張っているだけではなくなっている」


桃が笑う。


「情でも移ったか」


「笑うことではない」


紫苑の声が冷えた。


「黒狐の情は重い。穢れも、記憶も、縁も抱え込む。蒼麻の器と噛み合えば、何が起きるか分からない」


「なら、引き離すか」


桃が言った瞬間、桔梗が首を振った。


「無理に引き離せば、逆に縁が強まる」


「面倒だな」


「縁とは、そういうものです」


紫苑は、麻臣の記録に視線を落とした。


「麻臣は、それも見越していたのかもしれない」


桃が眉を上げる。


「黒狐まで?」


「そこまでは分からない。ただ、記録の最後にこうある」


紫苑は、古びた紙片を読み上げた。


いつか、蒼麻は封じたものを見る。

その時、私を恨んでもよい。

一族を恨んでもよい。


ただ、あの子が自分の名を手放さずにいられるなら、それでいい。

神代蒼麻。

私の息子。

神の器ではなく、私の子である。


あの子が酒を飲み、笑い、誰かの名を呼んで帰ってこられるなら、

私は神代を捨てても構わない。


誰も言葉を発しなかった。


それは術式の記録ではなかった。

報告書でもない。

父親の、ただの祈りだった。


やがて、桃が小さく息を吐く。


「厄介だな」


紫苑が問う。


「何が」


「麻臣を責めにくくなった」


桔梗は静かに記録を閉じた。


「責めるべきところはある。隠したことも、封じたことも、蒼麻本人から選ぶ権利を奪ったことも」


「だが、道具として守ったのではない」


紫苑が言った。


「我が子として守った」


その言葉は、奥之院の広間に重く残った。


外では、夜風が木々を揺らしている。


神代一族は、まだ蒼麻をどう扱うか決めかねていた。


監視するか。

保護するか。

利用するか。

隔離するか。


そして、それぞれの思惑が動き始めている。


ただ一つ、確かなことがある。


麻臣が隠した器は、もう隠しきれない。


黒狐は、その傍にいる。


神代蒼麻という名は、いま静かに、一族の中心へ引き寄せられつつあった。

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