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夢のはじまり

中央広場は想像以上だった。


駅前も十分すごかったが、ここはその比ではない。


広場の中央では巨大な噴水が絶え間なく水を吹き上げ、その周囲を数え切れないほどの人々が行き交っている。商人たちの呼び込みの声に、楽団が奏でる陽気な音楽。どこを見ても賑わっていて、立ち止まっているのが自分だけのような気がした。


そんな広場の中心で、一際存在感を放っているものがあった。


巨大な石像だ。


広場全体を見守るように立つその姿は、遠くからでもよく見えた。


「あの石像、誰なんだろう」


気になった僕は人混みを縫うようにして近づいていく。


石像の足元には予想通り説明板が置かれていた。


『グランパッセ伯爵』どうやらこの街の名の由来にもなった人物らしい。


説明によれば、まだこの地が小さな漁村と街道の中継地でしかなかった時代、誰よりも早く土地の価値に気付いたのが彼だったという。


海と大陸を繋ぐ港を整備し、各地へ続く街道を敷き、人や物が自由に行き交えるよう商業制度を整えた。その結果、様々な国や種族の商人たちが集まり始め、今のグランパッセの礎が築かれたらしい。


いわば、この街の父だ。


「なるほどなぁ」僕は改めて石像を見上げた。


これだけ大きな像が建てられているのも納得だった。


もしグランパッセ伯爵がいなければ、僕も今ここに立っていなかったのかもしれない。


そんなことを考えていると、不意に香ばしい匂いが鼻をくすぐった。


思わず顔を上げる。


さっきから何となく感じていた匂いだが、今はっきりとその正体が分かった。


広場の一角にある赤い屋根の店。


そして店の前には長蛇の列。


「あっ」タンパオ屋のおじさんが教えてくれたパン屋だ。


さっきは石像ばかり見ていて気付かなかったが、改めて見るととんでもない人気である。


列の最後尾がどこなのか一瞬分からないほどだ。


時計を確認する。まだ時間には余裕がある。……たぶん。


「これは並ぶしかないよな」


僕は会社へ向かう予定を少しだけ後ろ倒しにして、行列の最後尾へ向かった。


結果から言えば、少しどころではなかった。


「やっと買えた……」


想像していた倍は並んだ気がする。


けれど後悔は全くない。


焼きたてのパンからは湯気が立ち上り、香ばしい匂いが食欲を刺激してくる。


我慢できずに一口かじった。


外はぱりっと香ばしく、中は驚くほど柔らかい。


噛むたびに小麦の甘みが広がり、思わず足が止まった。


「うま……」


さっきのタンパオも衝撃的だったが、こちらも負けていない。


グランパッセの人たちは毎日こんなものを食べているのか。


ずるいだろ。


気付けばあっという間に食べ終わっていた。


名残惜しく空になった袋を見つめ、それから慌てて時計を確認する。


「まずい」今度こそ本当に会社へ向かわなければならない。


僕は足早に広場を後にした。



中央広場を抜けると、人通りは少し落ち着いた。


商店や事務所が並ぶ通りを進んでいくと、目的の建物が見えてくる。


「あれか」思わず足が止まった。


石造りの三階建てくらいの建物だ。


王宮のような豪華さはない。広場周辺に並ぶ大商会の建物と比べれば、むしろ控えめな方だろう。


それでも、どこか温かみのある建物だった。


正面の壁には木製の看板が掲げられている。


『グランパッセージ社』


僕は何度もその文字を見た。


「間違いないここだ。」


本当に来たんだ。最近までは宿の手伝いをしていた自分が、エルミナを出て、巨大都市グランパッセ来ている。しかもそこで働くんだ。


「フィンのやつに感謝しないとな」あのときフィンが会社の報せを持って帰ってなかったら今でも夢だけ抱いてエルミナいただろうな。


そして蘇ってくる。


あの景色、僕の人生を変えてくれた日のことを。



僕の故郷エルミナは湖のほとりにある小さな町だ。


旅人が立ち寄り、漁師が魚を獲り、商人が荷馬車を走らせる。


大きな出来事はそう多くない。


だけど穏やかで、居心地の良い町だった。


僕はそんなエルミナで生まれ育った。


実家は宿屋を営んでいる。


朝は客室の掃除から始まり、昼は荷物運び、夜は食堂の手伝い。


物心ついた頃から当たり前のように続けてきた生活だった。


「クラウ!三号室のシーツ交換終わった?」


階下から母さんの声が飛んでくる。


「今終わった!」窓を開けてシーツを抱えながら答える。


窓の向こうにはエルミナ湖が見えていた。


穏やかな青色の湖面、見慣れた景色だ。


子供の頃からずっと見ている。


だから特別だと思ったことはない。


「終わったなら下も手伝いなさい!」


「はーい!」返事をして階段を下りる。


宿屋の一階では昼食を終えた旅人たちが思い思いにくつろいでいた。


商人たちは地図を広げて次の目的地を相談し、冒険者らしい一団は酒を飲みながら武勇伝を語っている。


僕はそんな話を聞くのが好きだった。


旅人たちはいつも知らない話を持ってくる。


北の雪原、海の向こうの港町、巨大な遺跡、異国の祭り。


聞いているだけで面白い。本当に面白いと思う。


でも、それだけだった。


「へぇ」


「すごいな」


そう思って終わる。


そこへ行きたいとは思わなかった。


世界は広い、だけどどこか遠い。


自分とは関係ない場所の話だった。


僕には夢中になれるものがなかった。


剣術も続かなかった。


勉強も普通。


商人になる気もない。


ただ何となく毎日を過ごしていた。


だから暇な時間は決まって本棚の前にいた。


父さんが集めた旅の本が並んでいる。


その中でも何度も手に取る本があった。


『世界巡景録』


作者不明、世界中の景色や文化を描いた旅行記。


王国中で読まれている名作だ。


表紙を開く。


見たこともない景色が広がる。


空まで届きそうな断崖絶壁、夜空のように青く光る森、雲海に浮かぶ都市。


本当に存在するのか疑わしくなるような景色ばかりだった。


それでもページをめくる手は止まらない。


「また読んでるのか」いつの間にか父さんが後ろに立っていた。


「だって面白いんだもん」


「そうだろう」父さんは嬉しそうに笑う。


「世界は広いからな」そう言って厨房へ戻っていった。


僕は再び本へ目を落とす。


もしこの本の作者に会えたなら。


どんな人なんだろう。


どんな景色を見てきたんだろう。


そんなことを考えていると、不意に影が落ちた。


「兄ちゃん。世界巡景録読んでんのか?」


顔を上げる。見知らぬ旅人だった。


日に焼けた肌に、少しくたびれた外套。


大きな荷物も持っていない。


どこにでもいそうな旅人だった。


だけど、その目だけは妙に印象に残った。


「はい」僕は本を掲げる。


「父さんが好きなんです。でも僕も好きで」


「へぇ」旅人は向かいの椅子へ腰を下ろした。


「どこが好きなんだ?」僕は少し考える。


「こんな世界を見て回ってるところです」


本を開く。


見開きいっぱいの景色。


「自分にはできないことをしてるから」


旅人は小さく笑った。


「案外そんなことないぜ」


「え?」


「兄ちゃんもう暇だろ?」


思わず言葉に詰まる。


旅人は立ち上がる。


「ちょっと付き合え」


「どこへですか?」


「面白い景色を見に行く」


僕は思わず苦笑した。


「この辺にそんな景色あります?」


エルミナなんて見慣れた町だ。


湖も山も毎日見ている。


旅人はニヤリと笑った。


「だから面白いんだよ」


その時だった。


宿の扉が勢いよく開いた。


「おじさんどこ行くんだ!」


聞き慣れた声、友人のフィンだった。


「俺も行く!」


僕は思わず声を上げる。


「お前帰ったんじゃなかったのか」


「お前の父さんに荷物運び頼まれてたんだよ!」フィンは当然のように僕の隣へ座った。


「クラウも行くだろ?」


旅人が楽しそうに笑う。


「いいねぇ。二人とも付いてこい」


その笑顔を見た時。


なぜだろう、胸が少しだけ高鳴った。


まるで世界巡景録の次のページを開く前みたいに。


その先に何かが待っている気がした。


まだ知らない景色が、まだしらない世界が。


三人は宿を出て、湖の向こうに見える山へ向かって歩き始めた。


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