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遠いようで近い場所

宿を出る頃には、太陽はすでに西へ傾き始めていた。


昼間の賑わいを見せていたエルミナの通りも、夕方が近づくにつれて少しずつ落ち着きを取り戻している。家々の煙突からは夕食の支度をする煙が立ち上り、湖から吹く風がそれをゆっくりと運んでいった。


旅人はそんな景色を一瞥すると、迷いなく町外れの山道へ向かって歩き出した。


僕とフィンは顔を見合わせながら、その後ろを追いかける。


「なあ、本当に何かあるのか?」フィンが疑わしそうに尋ねる。


「あるさ」旅人は振り返らずに答えた。


「少なくとも俺はそう聞いた。そのためにわざわざここまで来たんだからな」


「こんな田舎まで?」


「こんな田舎までだ」


自分で言ったくせにフィンは不満そうな顔をした。


「俺は十八年もここで生きてるんだぞ。だったら俺たちも見たことあるはずだろ」旅人は小さく笑う。


「同じ場所に住んでるからって、同じ景色を見てるとは限らない」


その言葉が妙に印象に残った。


同じ街、同じ湖、同じ山、けれど見えるものは人によって違う。


そんな意味にも聞こえたからだ。


山道を登るにつれて視界が開け、木々の間からエルミナ湖が見えるようになった。夕日を受けた湖面は橙色に輝いていて、どこまでも穏やかだった。


見慣れた景色だ。


子供の頃から毎日見ている。


それでも旅人は立ち止まらず、さらに高い場所を目指して歩いていく。


「おじさんって、ずっと旅してるのか?」フィンが尋ねる。


「まあな」


「じゃあ一番すごかった場所はどこなんだ?」


旅人は少し考え込んだ。


「難しい質問だな。数え切れないくらいある」


「そんなにか?」


「そんなにだ」


即答だった。


その迷いのなさに僕とフィンは思わず顔を見合わせる。


「最近見た場所なら、海の向こうにある小さな島が良かったな」


「島?」


「夜になると海が光るんだ」


「嘘だろ」フィンは疑心暗鬼に聞く。


「本当だ」旅人は笑う。


「波が岸にぶつかるたびに青白い光が広がる。海の中に星空を閉じ込めたみたいだった」


僕はその光景を想像してみる。


けれど上手く思い浮かばない。


海が光るなんて見たことがないからだ。


「魔法か?」


「違う」


「じゃあなんで光るんだ?」


「知らん」


「知らないのかよ!」フィンが叫ぶ。


旅人は楽しそうに笑った。


「説明は聞いたんだが忘れた」


「適当すぎるだろ」


「でも綺麗だったぞ」


旅人は当然のように言う。


「旅ってのは理屈を集めるためにするもんじゃない。綺麗だとか、面白いとか、そういうものを見つけるためにするんだ」


僕は少しだけ考えた。


旅人たちはみんなそうなのだろうか。


理由よりも先に感動を追いかける。


そんな生き方なのだろうか。


「他には?」


気付けば僕は身を乗り出していた。


旅人は嬉しそうに笑う。


「雲の上にある街を見たことがある」


「また嘘だ」


「本当だ」


「絶対嘘だ」


フィンはそう言いながらも目を輝かせていた。


「信じられないなら行けばいい」


旅人は当然のように言う。


「行けば分かる」


その言葉に僕たちは黙り込む。


簡単に言うけれど、それができる人は少ない。


少なくとも当時の僕にはそう思えた。


旅人は僕たちの様子を見ながら続けた。


「お前たちは世界がどのくらい広いと思う?」


突然の質問だった。


「さあ」


「分かんねぇ」


旅人は笑う。


「俺も分からん」


「なんだそれ」


「本当に分からんのだ」


旅人は少しだけ真面目な顔になった。


「旅を続ければ続けるほど、自分が何も知らないことを思い知る。地図に載っている場所なんてほんの一部で、誰も知らない景色や文化が世界中に転がっている」


風が吹き抜ける。


木々の葉が揺れる。


旅人は遠くの空を見ながら言った。


「だから面白いんだ。知らない景色がある限り、人は歩き続けられる」


その言葉には不思議な重みがあった。


本当に世界を見てきた人間だけが持つ重みだった。


気付けば空は群青色に染まり、東の空には大きな満月が姿を現していた。


旅人が足を止める。


「着いたぞ」


その声に導かれるように前を見た瞬間、僕は息を呑んだ。


眼下にはエルミナ湖が広がっている。


けれど、それは僕の知っている湖ではなかった。


湖面には満月が映り込み、その周囲には無数の星々が散らばっている。まるで夜空そのものが湖へ沈み込み、もう一つの世界を作り上げているようだった。


上を見ても星。


下を見ても星。


空と湖の境界は曖昧になり、自分がどちらの世界に立っているのか分からなくなる。


風が吹くたびに湖面が揺れ、映り込んだ星々が砕けるように散っていく。けれど次の瞬間には元の姿へ戻り、まるで夜空そのものが呼吸しているようだった。


月光を受けた湖は銀色に輝き、その向こうには黒い森の稜線が静かに横たわっている。


聞こえるのは風の音だけだった。


僕は言葉を失う。


毎日見ていた湖だった。


何度も見た景色だった。


それなのに、こんな表情を持っているなんて知らなかった。


少し山を登っただけで、世界はまるで別物になる。


その事実に胸が震えた。


「……すげぇ」隣でフィンが呟く。


その声もどこか遠く聞こえた。


目の前の景色から目を離せなかったからだ。


旅人はそんな僕たちを見て満足そうに微笑む。


「どうだ?」


答えられなかった。


ただ頷く。


それだけで精一杯だった。


旅人は再び湖へ視線を向けた。


「世界ってのはな、思ってるよりずっと面白い」


その声は静かだった。


「知らない景色は、知らないだけでそこにある。お前たちは毎日この町で暮らしていた。それでもこの景色を知らなかった」


僕は何も言えなかった。


その通りだったからだ。


「旅も同じだ。世界にはこういう景色が無数にある。でも歩かなければ出会えない」


旅人は月の映る湖を見つめながら続ける。


「行動した奴だけが見られる景色がある」


その言葉は、不思議なくらい自然に胸の奥へ落ちていった。


こんな景色がこんな近くにあるのなら、世界にはどれほどの景色があるのだろう。


どれほどの人がいて、どれほどの文化があるのだろう。


知りたい。見てみたい。


初めてそう思った。


心の底から。


その夜、僕の人生は大きく動き始めた。


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