26話 「数式の世界」
例えるならそれは、釣り糸に掛かった魚だろう。
まるで裾に釣り針をひっかけられて、力いっぱい巻き上げられているような、そんな状況。
それを直接的に表現するのであれば、兼継は空中で引きずられていた。
身に覚えのない感覚だった。重力の書き換えは阻害されていないのだが、前に進む力が減衰している。
それがある時を境に、爆発的に力を増して、瞬く間に飛び出したはずの応接室まで引き戻された。その一連の流れはまるで、逆再生した映像を見ているかのようだった。
ただ一点、それは飛び降りた地点で止まるような速度ではなかった。市内を一望できる応接室の大窓に、2つ目の大穴を開けてより一層開放感のある空間へ造り変えると、今度はパーティションを何枚と貫通し、反対側の窓すら破壊した。
ようやく勢いを弱めると幾分か階数の低いビルの屋上に落下。屋上を突き破ることこそないものの、打って転がった先に並べられていた室外機を凹ませて止まった。
「……ぃってーな」
室外機から上がる白い煙。
地に掌を広げて体重を載せると、もう片方の手は膝に。のっそりと身体を立てた起き抜けに、高いノイズが耳に届いた。声にも聞こえるそれが、何を言っているのか識別できない。
音のする方を向くと、傍に転がっているスマートフォンがあった。転がった際にポケットから飛び出たのだろうそれは、画面に亀裂が走っていた。
「ねぇ! 兼継! 今の音なに!? 無事なの? 聞こえてる!?」
スマートフォンから聞こえたのは繋の声。かなり焦った様子だ。
「ああ、無事だ。どうした?」
スマホを拾い上げることもそれに近づくこともないまま、兼継は辺りに気を配った。
ひとまず周囲に人の気配はないが、これだけの騒ぎになればここもすぐに騒がしくなるだろう。
この騒動で世界が公になる事態だけは避けなければならない。
「どうしたじゃないって! いきなり変な音ばっかり鳴るし、呼びかけても全然答えてくれないし! しかも真壁択真が拠点に来てるんだけど!? そっちどうなってるわけ!?」
拠点が見つかるのはまだ先だったはずだ。兼継の知るシナリオからはそこさえもズレていたのだが、驚きはそう大きくない。ここまでシナリオが破綻している以上、むしろそうなるだろうとすら思うほどだ。
「シナリオが破綻した、今そっちに香織を向かわせてる。それまで持ち堪えててくれ」
「そういうの早く言ってよっ! って香織から電話だ、一旦切るね、リーダー」
直後に画面が暗転した。
近づいてスマホを拾い上げた兼継の視界を、上から何かが掠めた。映り込んできたのは先ほどまで対話をしていたあのスーツ男。灰色のスーツに、柄のないネクタイも灰色をしていた。
事務所からここまで10メートルはあろう高さを、ズボンのポケットに手を忍ばせたまま平然と降り立った。それでも足元にはわずかな砂埃が舞うだけだった。
「あれで怪我の一つもないとはな」
「そっちこそ、いい世界じゃねーか」
スマホをポケットにしまって、服についた土煙を払うも薄く伸びるばかり。
鉛色の雲は厚く、吹きすさぶ風はここ数分で冷たさを増した。じんわりと雨の気配がする。もうじき雨が降るのだろう。
「世辞はいい、それより最後の通告だ。俺の時間を進めるなら今の内だぞ」
「なんだ? 内心ビビってんのか? 安心しろ、お前らごときにそこまでする価値もねーよ」
「……ほう。ならばこちらも一つ、いいことを教えてやろう」
左手だけポケットから引き抜いて、同時に右足が動き出す。
「───世界は数式だ、この意味が分かるか?」
一歩、また一歩と足を運ぶその姿だけを切り取れば、昼に休憩しているだけの営業マンと大差ない。靴は光沢をみせるほどに磨かれていて、前髪は今からでも客前に出られるほどに整っている。これで鞄の一つでもあれば通勤途中と見間違えられても不思議ではない。それくらい自然に、そして無警戒に思える足取りだった。
「力もその一部とか、くだらねぇーこと言うんじゃねーぞ」
兼継の視線は、ひと時も男を捉えて逸らされなかった。
「実に愚かだな……」
嘘偽りなく不愉快そうな表情だが、そこで男の歩みが止まる。両足の踵をきっちり揃えているが、一歩踏み込めば互いの拳が届く、その間合いで。
「────世界の事象はすべて、再定義できるということだ!」
瞬間、大きく踏み込んで振り上げた拳。
見失うほどに早いわけでも見てわかるほどに力強くもない。それこそサラリーマンと大差ない。
兼継は、目の瞳孔まで見開いて確実にそれを捉えている。直線的に振り下ろされるであろうそれを左手で弾き、すかさず右フックを返すところまで、ほとんど反射的にイメージできた。
────だが同時に、その目は捉えていた。
男の拳に乗っている尋常じゃない大きさのそれを。
兼継の目を通して見たそれは、もはや生物から生み出せる規模を超えている。コンクリートのビルですら容易く貫通でき、市内にある山なら一振りでトンネルが完成するほどのもの。
世界を力と定義する彼ですら見たことがない、生み出したことさえない程のものだった。
それでも弾こうと振り上げる左手に恐れはない。触れた瞬間にそれ以上の力を発生させられる兼継には、その必要などないのだから。
「なっ」
だが、それでもだ。弾き上げたはずの拳は微動だにしなかった。
防ぐ術もなく振り抜かれた拳は、そのまま兼継の頬を捉えた。
瞬間、頬に作用する力をゼロに、相手の拳に反作用する力を、受けた力より倍に書き換える。
その力といえばまさに、隕石の衝突。
凄まじいインパクトを生み出して、なおも余りある。砂埃を舞いあげ、周囲のビルの窓を割り、室外機のいくつかを吹き飛ばす。
兼継の視界はその力だけで埋め尽くされ、辺りのすべてが視認できなくなった。
目が眩む。明るさではない。ただただ赤色で、その先端さえ見えない矢印によって。
「……やはり、単純な力では書き換えられるか」
しかし、すっと力が消滅した兼継の視界には、映っていた。先ほどとなんら変わらない姿だ。
あれほどの反作用を受けてなお、男は平然と立っていた。傷どころか、スーツに汚れの一つも付着させないままに。
「どうなってやがる……?」
えも言えぬ不安感に駆られ、咄嗟に後ろへ飛んで距離を稼いだ。
男はなぜ平然としているのか、そもそもなぜあの手を弾けなかったのか。
左手に落とした視線。握ったり開いたり思い通りに動かせる。書き換えも確かに行われた。
相手が纏っていた力の倍以上は込めたはずだった。確実に芯を捉え、間違いのない手応えさえあった。
それでも——いや、だからこそ確信できた。
あの程度の力では到底動かすことなどできないほどの質量が、男の拳にはあった。と。
「────どういう意味だい?」
珍しく鋭い目つきで西鶴は問いかけるが、美音の視線は窓の外。カウンターテーブルに肘を立てながら対峙する二人の男を眺めていた。
「今見た通りだって。力兼継の力じゃ学の数式は壊せない」
「世界に強弱はないはずだよ。どんな世界でも最後に書き換えた世界が反映されるんだ。数式の世界。確かに兼継には有利かもしれないけど、勝敗を決するほどの差にはならないんじゃないかな」
「その残念な頭でも理解できるよに教えたげる。学の世界は、この世の全てを数式として捉えてるの。力だってそう、質量に加速度を掛ければ定義できる。でもね、学の世界はその数式そのものを書き換えることができんの」
「兼継が出力しているのは数式の結果よ? 数式を書き換えたところで結果は変わらないんじゃないかしら」
自分が立つ場所をカフェと認識させられている詩葉にとって、今窓の外に見える二人が本当のそれかどうかも疑わしい。
ただ先ほど、西鶴が放った弾丸はそこにいるはずの彼女を貫通した。その事実から考えるに、美音本人はここにいない可能性が高い。であれば本人がどこかから観測している現実を、認識として共有させられているとみるべきかもしれない。
「数式を書き換えるって意味、わかってないんだね、数式を変えるってことは結果を再定義するって意味なのに」
「結果の再定義? まさか、数式を書き換えるって、そういうことなのかい!?」
「どういうこと?」
「力は通常、その物体の質量に加速度を掛けて定義される。でもあの人が書き換えるのは、その数式の数値じゃない。その力を構成する要素の方、質量と加速度そのものなんだ。それを書き換えるなら、力は質量や加速度に依存しなくなる。極端に言えば、」
力が、力を構成する要素以外で定義される。そこにはもう、理論などありはしない。
「———速さ×時間を力に再定義することだってできてしまうんだ」
「な、何よそれ……意味がわからないわ。で、でも、仮にそうだとしても最終的に出力されている力に変わりはないなら、過程がどうなっても意味なんてないはずよ?」
「そうとも言い切れないよ、数式は力を求めるときにだけ使うわけじゃない。力と質量が分かれば加速度が、逆に加速度がわかっていれば物体の質量を導き出せる。兼継の力はきっと分解されたんだ」
「そ。学は、『力兼継が与える力』を『地球の直径』×《かける》『学の拳に与えられる加速度』に書き換えてんの。そのとき、学の手に与えられる加速度は、『力兼継が与える力』を『地球の直径』で割った値。力兼継がどれだけの力を込めたかなんてわかんないけど、ちょっとやそっとの力で動くわけないでしょ」
「ま、待ってちょうだい。理解できないわ。加速度が与えられなくともダメージは別でしょ? 腕には相当な衝撃が与えられているのは変わりないはずじゃないの?」
「はぁー……なんもわかってないじゃん。っま、そっから先は高校物理の対象外だし、しょーがないっちゃしょーがないっか。ざっくり言うと、『加速度が与えられなかった学の拳』という概念には、『その拳を構成する細胞』が含まれてるってこと。もっとわかりやすく言えば、そもそも細胞の変形そのものが起こってないの。ひずんでもないし降伏点にも達してない。応力そのものが発生してないの。だから神経を圧迫して痛覚を刺激することさえない。要するに、ここでいう『加速度が与えられていない』って言うのは、『ダメージが通っていない』ってのと同義なわけ。わかる?」
詩葉には、問いかけるその人こそ高校の門を潜っているようには見えていない。もしかすると、彼女という存在そのものの認識さえ、変えられているのではないかと疑ってしまうほどだった。
「学生の割によくやってる方だと思うよ、アンタらは。でもことを構える相手くらいは、もっと慎重に見定めるべきだったんじゃない?」
床に固定された椅子の座面だけを回転させて、美音は二人に背を向ける。すでに小指の先ほども二人を警戒していない彼女は、グラスにストローを差し込んで咥える直前、こう告げた。
「──甘いんだよ、認識が」
「力の世界……まったく持って面倒だな」
メガネのブリッジを、中指が軽く持ち上げた。こちらの出方を伺っているのか学に距離を詰めてくる気配はない。
「そのまま返してやるよ」
どんな形であれ、相手を戦闘不能にするには力が作用する。その時点で兼継に負けるビジョンなど毛ほども見えない。
むしろ相手がこちらの力を打ち消せる何かがある以上、最悪ことが終わるまでこの場所に縛られかねない。そちらの方が避けたい。
「随分と余裕だな、状況を理解できていないのか?」
「さっきも言ったが暇じゃねんだ。悪りーが、こっからは手加減なしでやらせてもらうぞ」
首を軽く傾けて骨を鳴らすと、左手を肩に乗せ右腕を回す。
先ほどは出鼻を挫かれたが、既にそれさえどうでもいい。相手がどんな形で世界を書き換えていようとも関係ない。兼継はただ、圧倒的なまでの力で捩じ伏せればいい。それでいいんだ。
「死んでも構わねぇーならかかってこい」
兼継にとって世界は、力でできているのだから。




