第五話 黒き英雄の帰還
月はすでに天高く昇っていた。
夜空いっぱいに散りばめられた星々が、静かな光で王都を照らしている。
生誕祭の喧騒も少しずつ遠のき、冷え始めた夜風が馬車の窓から頬を優しく撫でた。
フェリクスが乗った馬車が、ゆっくりと屋敷の門をくぐる。
車輪が砂利を踏む音だけが、静かな庭へ小さく響いた。
「……着いた。」
フェリクスは小さく息を吐く。
黒い傘を握る手には、まだ少しだけ力が入っていた。
長かった。
本当に長い一日だった。
馬車の扉が開く。
ひんやりと澄んだ夜気が流れ込み、火照った身体をゆっくりと冷ましていく。
……つかれた。
屋敷に着いた瞬間、肩の力がすっと抜ける。
力が抜けて転ばないようにと、ゆっくりと馬車を降りようとした、その時だった。
「フェリクス様がお戻りです!」
屋敷の扉が開き、一人の使用人が声を上げる。
その声を合図にしたように、玄関から二人の人影が姿を現した。
黒燕尾服を隙なく着こなした執事――ヴィンス。
そして、栗色の髪を揺らしながら駆け寄ってくるメイド――マチルダ。
「お疲れ様でございました、フェリクス様。」
ヴィンスは深々と頭を下げる。
その声はいつもと変わらず穏やかだったが、どこか安堵が滲んでいた。
「フェリクス様っ!」
一方のマチルダは勢いそのままに栗色の三つ編みを揺らしながら駆け寄ってくる。
「甘いものいっぱい食べられましたか!?」
フェリクスは目をぱちぱちさせる。
「う、うん。」
「美味しいものは!? お肉は!? ケーキは何種類ありました!? ちゃんと食べられました!?」
質問が止まらない。生誕祭への興味を抑えきれないみたいだ。
フェリクスの周りをくるくる回りながら、目を輝かせて尋ねてくる。
「ま、マチルダ。」
ヴィンスが苦笑しながら小さく咳払いをする。
「フェリクス様もお疲れです。少し落ち着きなさい。」
「はっ!」
ようやく我に返ったマチルダは、慌てて姿勢を正し、ぺこりと頭を下げた。
「も、申し訳ありません!」
「……ふふ。」
思わずフェリクスの口元が緩む。
その笑顔を見て、ヴィンスもマチルダもそっと顔を見合わせ、笑みを浮かべた。
「ネロ様は現在、お部屋で仮眠を取られております。」
ヴィンスが静かに告げる。
「生誕祭が終わる頃には起きる、とおっしゃっていたのですが……。」
「きっと待ってる途中で寝ちゃったんですね!」
マチルダがくすりと笑う。
「ご案内いたします。」
ヴィンスの後ろを歩きながら、フェリクスは屋敷の中へ足を踏み入れた。
玄関を抜けると、どこか懐かしい木の香りが鼻をくすぐる。
王城とは違う、肩肘張らなくていい安心できる匂いだった。
応接間の扉を開くと、ソファには毛布を掛けたネロが、大の字になって眠っていた。
「……。」
マチルダが口元へ人差し指を当てる。
「まだ寝てますね。」
そう小さく囁いた、その時。
「……んぁ。」
ネロの耳がぴくりと動く。
ゆっくりと瞼を開けると、ぼんやりした視線がフェリクスを捉えた。
ほんの一瞬、静かな時間が流れる。
「――フィー!」
ネロは勢いよく身体を起こした。
「おかえり!」
満面の笑みだった。
その一言だけで、フェリクスの胸を締め付けていた緊張が、ふっとほどけていく。
「……ただいま。」
今度は自然に笑うことができた。
「で?」
ネロはソファへ座り直す。
「どうだった、生誕祭。」
「……えっと。」
フェリクスは少し考えてから、小さく笑った。
「ケ、ケーキ……おいしかった。」
「そこかよ。」
ネロが吹き出す。
「まぁ、お前らしいな。」
そのやり取りを見て、マチルダも嬉しそうに頷いた。
「やっぱりケーキが美味しかったんですね!」
「王城の料理長さんのお菓子、一度食べてみたいんですよねぇ。」
ヴィンスも穏やかな笑みを浮かべる。
「お元気そうで何よりです。」
和やかな空気が流れる。
その時だった。
ネロが部屋を見回し、小さく首を傾げた。
「……そういや。」
「あのバカ騎士は?」
その一言に、マチルダが「あっ」と声を漏らす。
「そういえば……。」
ヴィンスも静かに目を瞬かせた。
「本日は御者もシリル様ではございませんでしたね。」
「え?」
フェリクスだけがきょとんとする。
「あ、えっと……。」
記憶を辿るように視線を泳がせる。
「屋敷に着く少し前に……。」
『少々急ぎの用件ができましたので、私はここで失礼いたします。フェリクス様はそのままお屋敷へお戻りください。』
シリルが穏やかに微笑みながらそう告げた姿が脳裏によみがえる。
「だ、大事な用事があるから……先に帰っててって。」
部屋が静まり返る。
「……は?」
最初に口を開いたのはネロだった。
「フィーを送り届けるより大事な用事?」
信じられない、とでも言いたげな顔をしている。
「……あいつが?」
ヴィンスも小さく眉を寄せた。
「確かに、それは珍しいですね。」
「ですよね……?」
マチルダも不思議そうに首を傾げる。
「シリル様って、フェリクス様のお世話が最優先ですもん。」
三人が揃って考え込む。
その中心で、フェリクスだけがきょとんとしていた。
「……?」
どうしてみんな驚いているのだろう。
シリルにも、急に用事ができることくらいあるはずだ。
そう思って首を傾げるが、誰もそんな様子ではない。
ネロは腕を組み、ゆっくりとソファへ背を預けた。
その表情から笑みは消えている。
「……嫌な予感がする。」
静かな一言が、応接間へ重く落ちた。




