第四話 黒き英雄への視線
王国各地から集った貴族たちは、思い思いに杯を傾けながら歓談していた。
領地の近況を語り合う者。
新たな取引の話に花を咲かせる商人。
久方ぶりの再会を喜ぶ老貴族たち。
生誕祭は、ただ国王の誕生日を祝うだけの宴ではない。
この日しか顔を合わせられない者も多く、王国中の有力者が一堂に会する、社交の場でもあった。
だからこそ。
大広間の視線は、いつしか自然と一人の青年へ集まっていく。
黒き英雄。
フェリクス・レイヴン。
魔王を討ち、世界を救った英雄。
その隣には、名門グランヴィル侯爵家の嫡男でありながら、自ら従者となる道を選んだ青年、シリル・グランヴィル。
誰もが一度は話してみたいと思っていた。
英雄とはどのような人物なのか。
噂に聞く『黒き英雄』とは、本当にあの青年なのか。
そんな好奇心か混じった視線が、遠巻きに二人へ向けられている。
しかし——。
「シリル。」
「はい。」
「こ、このケーキ……おいしい。」
フェリクスは小さな皿を両手で持ちながら、控えめに笑った。
真っ白な生クリームの上には艶やかな苺が乗り、口へ運ぶたびに優しい甘さが広がる。
緊張でほとんど味は分からないと思っていたのに、不思議と甘さだけはしっかり感じられた。
シリルはそんなフェリクスの表情を見て、どこか嬉しそうに目を細める。
「お気に召したようで何よりです。」
「……う、うん。」
小さく頷くと、フェリクスは皿の上へ視線を落とした。
もう一つ。
もう一つだけ食べたい。
そんな気持ちが、ありありと顔へ出ていた。
シリルは思わず口元を緩める。
「もう一つ、お召し上がりになりますか?」
「……えっ。」
図星だった。
フェリクスは少しだけ肩を震わせる。
「い、いいのかな……。」
遠慮がちに視線だけをデザートの並ぶ長机へ向ける。
色鮮やかな果物を使ったタルト。
ふわふわのシフォンケーキ。
艶やかなチョコレートケーキ。
どれも普段なかなか口にできないものばかりだった。
「もちろんです。」
シリルは迷いなく頷く。
「今日は陛下がお開きになった祝いの席です。どうぞ、お好きなだけ。」
「……ほ、本当に?」
「ええ。」
フェリクスは嬉しそうに微笑む。
その笑みを見たシリルまで、自然と頬が緩んでしまう。
「……じゃ、じゃあ。」
フェリクスはおそるおそる歩き出しかけた。
しかし、その足が途中で止まる。
「あ……。」
不安そうに周囲を見回した。
さっきまで自分を見ていた人たちが、またこちらを見ている気がしたのだ。
「……もしかして。」
「み、みんな見てる……?」
シリルは静かに周囲へ目を向ける。
確かに。
何人もの貴族が、それとなくこちらへ視線を向けている。
英雄が何を食べるのか。
どんな振る舞いをするのか。
ただそれだけを興味深そうに見守っている者も少なくなかった。
だが。
「ご安心ください。」
シリルは即座に答えた。
「誰も見ておりません。」
「そ、そう……?」
「はい。」
少しも迷わない返事だった。
実際には、ものすごく見られている。
だが、フェリクスへそんな事実を教える理由はどこにもない。
知らなくていいことは、知らないままでいい。
それがシリルの考えだった。
「よ、よかった……。」
フェリクスはほっと胸を撫で下ろす。
安心したようにケーキへ手を伸ばした、その瞬間——
「――国王陛下、王妃殿下、第一王子殿下、第一王女殿下、ご入場!」
侍従の張りのある声が、大広間いっぱいに響き渡った。
それまで流れていた音楽が、ぴたりと止む。
談笑していた貴族たちは一斉に口を閉ざし、手にしていた杯を静かに卓へ置いた。
椅子が引かれる音さえ、どこか遠慮がちに聞こえる。
先ほどまで穏やかな熱気に包まれていた会場は、一瞬にして張り詰めた空気へ変わった。
誰もが自然と赤い絨毯の先へ視線を向ける。
フェリクスも慌てて皿を侍従へ預けると、黒い傘を握り直し、小さく頭を下げた。
その手は、知らず知らずのうちに汗ばんでいる。
静まり返った大広間へ、靴音だけがゆっくりと響き始めた。
一歩。
また一歩。
規則正しく近付いてくるその音は、不思議と誰の耳にも心地よく届く。
やがて。
その足音が、玉座の前で静かに止まった。
「皆、今宵はよく集まってくれた。」
穏やかな声が、大広間の隅々まで静かに響いていく。
決して怒鳴るような大声ではない。
それでも、不思議なほどよく通る声だった。
「余の誕生を祝うため、このような盛大な宴を開いてくれたこと、心より感謝する。」
ゆっくりと顔を上げたフェリクスは、思わず息を呑んだ。
玉座の前に立つ国王は、豪奢な王冠や宝石よりも、その佇まいそのものが人を惹きつけていた。
肩肘を張るような威圧感はない。
ただ静かに立ち、穏やかな眼差しで民を見渡しているだけ。
それだけなのに、この場にいる誰もが自然と頭を垂れ、言葉を失っていた。
これが王というものなのだ、と。
フェリクスは初めて、その意味を理解した気がした。
国王のすぐ後ろには、優雅な微笑みを絶やさない王妃が控えている。
柔らかな笑みは春の日差しのように穏やかで、不思議と人の心を和ませる温かさがあった。
その隣には、真っ直ぐ前を見据える第一王子。
まだ若いながらも、その立ち姿にはすでに王族としての気品が宿っている。
そして、その隣では第一王女が小さく背筋を伸ばし、少しだけ緊張した面持ちで父の後ろに立っていた。
「今宵は祝いの席だ。」
国王は穏やかに微笑む。
「立場も肩書も忘れ、存分に楽しんでほしい。」
その言葉だけで、張り詰めていた空気がふっと和らぐ。
あちこちから安堵したような息が漏れ、会場に柔らかな空気が戻っていく。
「それでは——宴を始めよう。」
楽団が再び演奏を始めた。
優雅な旋律が大広間を満たし、人々は再び静かに歓談を始める。
(……よかった。)
フェリクスは胸を撫で下ろした。
これで終わりだ。
あとは隅の方で静かに過ごしていれば、この長い夜も何とか乗り切れる。
そう思った、その時だった。
「――それではまず、黒き英雄フェリクス・レイヴン殿。」
侍従の声が高らかに響く。
「…………え。」
時間が止まった。
フェリクスは呆然と瞬きを繰り返す。
聞き間違いだろうか。
いや、今、確かに。
自分の名前が呼ばれた。
「ぼ、僕……?」
震える声で隣を見る。
シリルは当然のように頷いた。
「はい、フェリクス様。」
「…………。」
言葉が出ない。
まだ何も心の準備ができていない。
侯爵。
伯爵。
騎士団長。
この場には、自分より何倍も身分が高く、功績を重ねた人々が大勢いる。
どうして最初なのだろう。
どうして自分なのだろう。
理解が追いつかない。
「フェリクス様。」
シリルが小さく促す。
その声でようやく我に返った。
「……う、うぅ。」
逃げたい。
今すぐ。
けれど、ここで逃げるわけにはいかない。
フェリクスは黒い傘をぎゅっと握り締める。
手袋越しにも分かるほど、指先には力が入っていた。
一歩、赤い絨毯へ足を踏み出す。
その瞬間だった。
ざわり。
静まり返っていた会場が、小さく揺れた。
「……最初だと。」
「侯爵家より先とは。」
「陛下も随分と英雄殿へ肩入れなさる。」
「我々の面子はどうなる。」
抑えた声。
それでも、フェリクスの耳にははっきり届いてしまう。
そのたびに肩が小さく震えた。
黒い傘を握る手へ、さらに力が入る。
シリルは一歩後ろから、そんな背中を静かに見守っていた。
不用意に励ますことはしない。
不用意に声を掛けることもしない。
フェリクスが必死に勇気を振り絞っていることを、誰よりも知っているからだ。
だから今は、ただ隣にいる。
それだけで十分だった。
赤い絨毯は、どこまでも長く感じられた。
ようやく玉座の前まで辿り着く。
フェリクスは深く頭を下げた。
声が出ない。
呼吸もうまくできない。
「……フェリクス。」
国王が優しく名を呼ぶ。
その声音には、王としての威厳よりも、一人の年長者として青年を気遣う温かさが滲んでいた。
「今宵はよく来てくれた。」
「……は、はい。」
やっとの思いで返事をする。
喉はからからに乾き、声は震えていた。
「そんなに緊張せずともよい。」
国王は柔らかく目を細める。
「今日は余の誕生日だ。」
穏やかな笑みを浮かべたまま続けた。
「祝いに来てくれただけで十分嬉しい。」
その一言に、フェリクスは思わず顔を上げる。
目が合う。
そこには英雄を見る目も、畏怖も、期待もなかった。
ただ一人の青年へ向ける、優しい眼差しだけがあった。
「…………あ、ありがとうございます。」
ようやくそれだけを絞り出す。
国王は満足そうに頷いた。
「うむ。」
そして、少しだけ声を和らげる。
「甘味は口に合ったか。」
「……え?」
思わず間の抜けた声が漏れる。
国王はくすりと笑った。
「先ほど、夢中でケーキを食べていただろう。」
「…………っ!」
フェリクスの顔が一気に赤くなる。
見られていた。
しかも国王に。
恥ずかしさのあまり俯くフェリクスを見て、王妃がくすりと笑う。
第一王女も嬉しそうに口元を押さえていた。
第一王子だけは咳払いを一つして視線を逸らすが、その口元はわずかに緩んでいる。
「楽しんでくれて何よりだ。」
国王はそう言って頷いた。
「今宵は遠慮はいらぬ。」
「存分に楽しんでいくといい。」
「……は、はい。」
深く頭を下げる。
そしてフェリクスは、ほとんど逃げるような足取りでシリルの元へ戻っていった。
その背中を見送りながら、会場には再び小さなざわめきが広がっていく。
英雄を羨む者。
国王の寵愛を妬む者。
純粋にその姿へ見惚れる者。
向けられる感情は様々だった。
けれど、そのどれにも気付かないまま、フェリクスはただ小さく息を吐いた。
シリルだけが、その姿を少し誇らしげに見つめていた。
フェリクスが戻ると、シリルは静かに一礼した。
「お疲れ様でございました、フェリクス様。」
「……つ、疲れた。」
黒い傘を抱えたまま、フェリクスは力なく肩を落とす。
その小さな声に、シリルは思わず笑みをこぼした。
「まだ宴は始まったばかりですよ。」
「…………。」
返ってきたのは、どこか絶望したような沈黙だった。
シリルは小さく苦笑すると、給仕が運んできた飲み物を受け取り、フェリクスへ差し出す。
「少しお休みになられてはいかがでしょう。」
「……うん。」
冷えた果実水を一口飲む。
張り詰めていた喉へ、ひんやりとした甘さがゆっくり染み渡っていく。
それだけで、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
周囲では再び楽団が演奏を始め、貴族たちも思い思いに歓談へ戻っていた。
先ほどまで国王へ向けられていた視線は、それぞれの談笑や酒杯へ散っていく。
誰かが笑い。
誰かが踊り。
誰かが商談を始める。
華やかな宴は、何事もなかったかのように続いていた。
フェリクスもほっと息をつく。
これなら。
もう誰も自分を見ていない。
ようやく安心してケーキを食べられる。
「シリル。」
「はい。」
「……さっきのケーキ、まだあるかな。」
シリルはフェリクスの言葉に笑みを浮かべた。
「ええ、もちろんございます。」
「よかった……。」
その返事だけで、フェリクスの表情が少しだけ明るくなる。
緊張で強張っていた頬も、ほんのわずかに緩んでいた。
シリルはそんな様子を見つめながら、静かに目を細める。
(本当に……甘い物がお好きなのですね。)
魔王を討った英雄。
世界最強の存在。
世間はそう呼ぶ。
だが、シリルにとってのフェリクスは、目を離せばすぐにどこかへ隠れてしまいそうな、少し臆病で、甘い物が好きな青年だった。
だからこそ。
守りたい。
その想いだけは、昔から何一つ変わらない。
「フェリクス様。」
「……?」
「ケーキをお持ちいたします。」
「う、うん。」
シリルが席を外す。
フェリクスは一人、静かに会場を見回した。
誰もこちらを見ていない。
そう思った。
そう、思っていた。
しかし。
大広間の最も奥。
大きな柱の影から、一人の青年だけが、最初から一度も視線を逸らしていなかった。
豪奢な礼服。
胸元には見覚えのない紋章。
年の頃はフェリクスと同じくらい。
整った顔立ちと柔らかな物腰は、どこからどう見ても名家の若き貴族にしか見えない。
彼は誰とも言葉を交わさない。
酒にも料理にも手をつけず、ただ静かにフェリクスだけを見つめ続けていた。
その視線は、英雄へ向ける憧れとも。
畏怖とも違う。
まるで。
長い年月をかけて探し続けた何かを、ようやく見つけた者のようだった。
やがて青年は、小さく唇を動かす。
「……あれが。」
誰にも届かないほど、小さな声。
細められた瞳に、静かな熱が宿る。
「黒き英雄――フェリクス・レイヴン。」
その名を噛み締めるように呟くと、青年はゆっくりと口角を上げた。
歓喜とも。
安堵とも。
あるいは狂気ともつかない、かすかな笑みだった。
「――やっと見つけた。」
その声は、再び鳴り始めた楽団の演奏に溶け、誰の耳にも届くことなく消えていった。




