第三話 黒き英雄と生誕祭
王城の大広間は、祝宴の熱気に包まれていた。
天井を見上げれば、幾重にも吊るされた巨大なシャンデリアが黄金色の光を降り注ぎ、その輝きを磨き上げられた白い大理石が静かに映し返している。
壁際には王国各地から集められた名画や彫刻が並び、柱には純白の百合と深紅の薔薇が惜しみなく飾られていた。
楽団が奏でる優雅な弦楽器の旋律は、広間の隅々まで柔らかく満ちている。
貴族たちは上質な葡萄酒を片手に穏やかに歓談し、騎士たちは背筋を正したまま静かに談笑を交わす。
誰一人として声を荒げる者はいない。
笑い声でさえ、この夜の品格を乱さぬよう自然と抑えられていた。
今日は、国王陛下の生誕祭。
一年で最も華やかで、最も格式高い夜だった。
そんな大広間の入口が、静かに開く。
最初に姿を現したのは、一振りの黒い傘だった。
続いて、その傘を差した一人の青年がゆっくりと足を踏み入れる。
漆黒の礼服、黒い髪、そして、決して手放そうとはしない黒い傘。
豪奢な色彩に満ちた祝宴の中で、その姿だけが不思議なほど異質だった。
まるで祝いの席へ紛れ込んだ夜そのもの。
その青年の半歩後ろには、金髪の青年が静かに付き従っている。
堂々とした立ち居振る舞いに、洗練された所作。
従者でありながら、その姿には名門貴族として育った気品が自然と滲んでいた。
人々の視線が、ゆっくりと二人へ集まり始め、ざわりと空気が揺れた。
「あれが黒き英雄殿か。」
「思っていたより、お若い。」
「本当に魔王を討ったという……。」
「部屋の中でも黒い傘は手放さぬのだな。」
「やはり噂は本当なのか。」
「吸血鬼なのでは、とも聞くが……。」
「馬鹿な。」
「だが夜でも日傘を差しているぞ。」
「吸血鬼も夜は傘を差さないだろう。」
ひそひそと交わされる声は決して大きくない。
それでも、その一つひとつがフェリクスの耳には妙にはっきり届いてしまう。
誰かが笑った。
その笑いが、自分へ向けられたもののような気がした。
誰かと目が合う。
慌てて逸らされたその視線さえ、「見世物だ」と言われたように感じてしまう。
黒い傘の柄を握る手へ、じわりと汗が滲んだ。
……か、帰りたい。
まだ会場へ入ったばかりだというのに、胸はもう限界だった。
できることなら今すぐ踵を返し、屋敷へ逃げ帰りたい。
けれど、それが許されないことくらい分かっている。
口にすることもできず、フェリクスは小さく唇を噛んだ。
その時だった。
コツン。
黒い傘の先が、隣を歩くシリルの腕を小さく叩く。
シリルは視線を伏せ、その意味を静かに受け取る。
表情は変わらない。その瞳だけが柔らかく細められる。
フェリクスが誰かを責めることはない、人前で不満を口にすることもない。
だからこそ、この小さな合図には意味がある。
──この場を穏便に収めたい。
そう願っておられるのですね。シリルは胸の内で静かに頷いた。
任せてください。
その想いに応えることこそ、自分の役目なのだから。
自然な足取りで一歩前へ出る。
磨き上げられた床へ、革靴が小さく音を立てた。
シリルは噂話を交わしていた貴族たちへ向き直ると、胸へ手を添え、優雅に一礼する。
「皆様。」
穏やかな声だった。
それだけで、周囲の会話が少しずつ止んでいく。
「従者の分際で口を挟みますこと、ご無礼の段、どうかお許しください。」
丁寧すぎるほど丁寧な挨拶。
だからこそ、人々は自然と彼へ視線を向けた。
その顔を見た年配の侯爵が、ふっと目を細める。
「何を言う。」
「君はグランヴィル侯爵家の嫡男ではないか。」
「その通り。」
別の貴族も苦笑する。
「君ほどの家柄の者が従者を務めている方が、我々には驚きだ。」
周囲から小さな笑いが漏れた。
シリルも穏やかに微笑む。
「身に余るお言葉です。」
一拍置き、静かに続けた。
「ですが、この立場は私自身が望んだもの。」
「誇りこそあれ、恥じる理由はございません。」
その声には、不思議と人を納得させる力があった。
決して強くはない。
それでも、自然と耳を傾けてしまう。
シリルはもう一度だけ一礼する。
「そして、本日は皆様へお願いがございます。」
広間の空気が少しだけ引き締まる。
誰も口を挟まない。
静かに続きを待っていた。
「フェリクス様は。」
シリルは一度だけ後ろを振り返る。
そこではフェリクスが、黒い傘を両手で抱えるように握りしめ、所在なさそうに立っていた。
その姿を見つめる眼差しが、少しだけ柔らかくなる。
「皆様が思われておりますほど、人前がお好きなお方ではございません。」
「……ほう。」
「英雄である前に、お一人の人間でございます。」
静かな声だった。
「ですので、どうか今宵だけは。」
シリルは真っ直ぐ前を向く。
「過度なご注目は、お控えいただければ幸いです。」
柔らかな物腰。
それでも、その言葉には貴族たちでさえ軽んじることのできない重みがあった。
しばしの沈黙。
やがて、一人の老侯爵が小さく頷く。
「……配慮が足りなかったな。」
「すまない。」
「英雄殿にも、静かな時間は必要ということか。」
次々と頷きが広がっていく。
「ご理解いただき、ありがとうございます。」
シリルは深く頭を下げた。
そして何事もなかったかのように踵を返し、フェリクスの隣へ戻る。
磨かれた床へ響く靴音は、先ほどよりもどこか軽やかだった。
フェリクスは傘の陰から、おそるおそるシリルを見上げる。
「……。」
何が起きたのかは分からない。
けれど、さっきまで自分へ向いていた無数の視線は、いつの間にか散っていた。
広間には再び穏やかな談笑が戻っている。
フェリクスは小さく息を吐いた。
肩から、ほんの少しだけ力が抜ける。
「……よかった。」
かすれるような小さな声は、誰の耳にも届かなかった。




