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第二話 黒き英雄の日常

バァン!


勢いよく扉が開かれた。


静かだった部屋へ、廊下の空気が一気に流れ込む。


風にあおられたカーテンがふわりと揺れ、差し込んだ朝日が床の上を滑った。


「おーい、フィー! いるかー!」


屋敷中に響きそうなほどよく通る声。


その聞き慣れた大声に、フェリクスはびくりと肩を震わせた。


反射的に、手にしていた黒い傘をぎゅっと抱き寄せる。

それと同時に聴き慣れた大声にフェリクスは少しだけ顔を綻ばせた。



隣に立っていたシリルの空気が、すっと変わる。


つい先ほどまで穏やかな笑みを浮かべていたその顔から、柔らかな空気だけが静かに消えた。


腰へ添えられた右手が、ほとんど反射のように剣の柄へ伸びる。


――キィン。


鋼が鞘を滑る澄んだ音が、小さく部屋へ響いた。


磨き上げられた刀身が朝日を受け、一瞬だけ白く光る。


「シ、シリル……?」


フェリクスが思わず目を丸くする。


その声に、シリルははっと我に返ったように剣を下ろした。


扉の前に立つ青髪の青年を見つめると、ふっといつもの穏やかな笑みを浮かべる。


まるで何事もなかったかのように。


「ネロ。」


声音は柔らかかく、礼儀正しく、非の打ち所がない。


「入室の際は、ノックをお願いいたします。」


静かに剣を鞘へ納める。

カチリ、と小さな音が鳴った。


「あと少し遅ければ、曲者と判断して切り捨てるところでした。」


その言葉だけなら冗談にも聞こえる。

だが、


「……いえ。」


シリルは小さく首を傾げた。

優しい笑顔は崩さないまま、ぽつりと呟く。


「やはり、切っておくべきでしたか。」


目には光が移っていなかった。


「聞こえてるぞ。」


「怖ぇんだよ、お前。」


「失礼しました。」


シリルは綺麗に一礼した。


「つい本音が。」


「隠す気ねぇじゃねぇか!」


部屋にネロのツッコミが響く。


ネロはシリルを指差し、不満そうに眉を寄せた。


「なーフィー」


 その声に、フェリクスは黒い傘の陰から顔を上げる。


「こいつ、うざいんだけど」


「……」


「追い出してくれよ」


 あまりにも迷いのない言葉に、フェリクスはぱちぱちと瞬きを繰り返した。


 視線を向けた先では、シリルがいつもの穏やかな笑みを浮かべている。


 先ほどまで自分に向けていた優しい表情。


 けれど。


 フェリクスはわかっていなかった


 その笑顔の奥で、シリルがわずかにネロへ向けている冷たい視線に。


「だ、だめだよ」


 小さく首を横に振る。


 その返事を聞いた瞬間、ネロは「あー」と納得したように肩を落とした。


「やっぱりなぁ」


「何がですか?」


 シリルはにこやかに首を傾げる。


「フィーは俺よりそっち選ぶと思ったよ」


「当然です」


 即答。


 しかも迷いが一切ない。


「……お前、慰めるふりくらいしろよ」


「必要性を感じませんので」


「そういうところだぞ」


 ネロが呆れたようにため息をつく。


 そんな二人のやり取りを見て、フェリクスは少しだけ首を傾げた。


 やっぱり。


 仲がいいな。


 言葉だけ聞けば喧嘩しているようにしか聞こえない。


 けれど、ネロもシリルも本気で怒っているわけではないことくらい、フェリクスにはなんとなく分かった。


 英雄の呼ばれる前から見てきた二人の姿だった。


 シリルはネロから視線を外し、再び優しい表情を浮かべる。


「フェリクス様は今夜国王陛下の生誕祭へ出席されるのです。」


 その声音は先ほどまでとは打って変わり、柔らかい。


「準備のお時間もございますので……」


 そう言いながら、さりげなくネロの肩へ手を置いた。


「ネロ」

「……」


「そろそろお引き取りください」


 ネロが即座に突っ込む。


「いや絶対今『帰れ』って言ったよな?」


「まさか」


 シリルは微笑んだ。


 完璧な笑顔だった。

 貴族の集まる社交界なら、誰もが騙されるような。


「ただ、フェリクス様のお時間を大切にしたいだけです」


「その言い方が一番腹立つんだよ」


 ネロはじとりと睨む。


 しかしシリルは涼しい顔のままだ。


 フェリクスの前では、決して乱れない。


「それに」


 シリルは続ける。


「フェリクス様は、今夜たくさんの方々とお会いになります」


 少しだけ声を落とした。


「余計な疲労を増やす必要はありません」


 その言葉だけ聞けば、心からフェリクスを心配している忠実な従者だった。


 実際それは嘘ではない。ただ、半分くらいはネロへの牽制でもあった。


「は?」


 ネロは眉を跳ね上げる。


「俺が余計な疲労みたいな言い方すんなよ」


「違いましたか?」


「違うわ!」


「そうですか」


 シリルは穏やかに頷いた。


「では訂正しましょう」


「お?」


「大きな疲労です」


「悪化してんじゃねぇか!」


 思わず声を荒げるネロ。


 その様子に、フェリクスは慌てて二人の間を見る。


「あ、あの……」


 やっぱり。


 喧嘩になってしまった。


 自分のせいだ。


 自分が生誕祭なんて行かなければ。


 こんなことには――。


「でも……」


 フェリクスはふと気付く。


 二人とも。


 顔は怒っているのに。


 どこか楽しそうだった。


 だから余計に分からない。


 喧嘩なのか。


 仲良しなのか。


「……二人とも、仲良いよね」


「え?」


「は?」


 二人の声が重なった。


 フェリクスは首を傾げる。


「だって……いつもこうだから」


 その言葉に、ネロとシリルは一瞬黙った。


 そして。


「……フィー」


 ネロが小さく息を吐く。


「お前、たまにすげぇこと言うよな」


「?」


 フェリクスは本気で分かっていない顔をしている。


 シリルはそんな彼を見て、ふっと笑った。


「……そうですね」


「え?」


「フェリクス様がおっしゃるなら、そうなのでしょう」


 その言葉だけは、本心だった。



 その後も少しばかり言い合いを続けた二人だったが。


 フェリクスが不安そうに傘の柄を握り締めていることに気付いた瞬間、ネロは大きく息を吐いた。


「……はぁ」


 頭を掻く。


「もういいや」


 両手を上げると、シリルへ向かって顎をしゃくった。


「な?」


「……」


 シリルは一瞬意味が分からないように眉を寄せる。


 しかし。


 フェリクスの表情を見た瞬間、すぐに理解した。


「あ……」


 しまった。


 そう思ったのだろう。


 ほんの一瞬だけ、いつもの余裕が崩れる。


「……失礼いたしました、フェリクス様」


 シリルは静かに頭を下げた。


 その声には、先ほどまでの棘はなかった。


「大丈夫……?」


 フェリクスが小さく尋ねる。


「はい」


 シリルは微笑む。


「問題ございません」


 その笑顔を見て、フェリクスはようやく安心した。



 ネロはそんな二人を見て、ふっと笑う。


「まったく」


 そう呟きながら、フェリクスの前まで歩いていく。


 そして。


 ぽん、と。


 少し乱暴に肩を叩いた。


 けれど、その手は驚くほど優しかった。


「楽しんでこいよ、フィー」


 明るい声。


 いつものネロの声。


 だからこそ。


 フェリクスには分かった。


 心配してくれている。


 無理していることも。


 怖がっていることも。


 全部、分かっている。


「……うん」


 小さく頷く。


「帰ってきたらさ」


 ネロは笑った。


「土産話聞かせろよ」


「……」


「別に大した話じゃなくていい」


「ケーキが美味かったとか」


「料理がすごかったとか」


「誰かに怒られたとか」


「……最後のは嫌だな」


 フェリクスが小さく呟くと、ネロは声を上げて笑った。


「そういうのでいいんだよ」


 その笑顔につられるように、フェリクスの口元も少しだけ緩む。


「……分かった」


「約束な」



 やがて。


「それでは参りましょう、フェリクス様」


 シリルの声が響く。


 フェリクスは一度だけ屋敷を振り返った。


 そして。


「行ってきます」


 小さく告げる。


「おう」


 ネロは手を上げた。


「行ってこい、英雄様」


 からかうような声。


 でも。


 その目は誰よりも優しかった。


 フェリクスが馬車へ乗り込む。


 シリルは御者台へ上がり、手綱を握った。


 車輪がゆっくりと動き出す。


 遠ざかっていく屋敷。


 窓から見えるネロの姿は、いつまでも小さく手を振っていた。


 やがて馬車が角を曲がり、その姿が見えなくなっても。


 ネロはしばらく、その場に立ち尽くしていた。


「……」


 静かになった屋敷。


 少しだけ寂しさを感じながら。


「……帰ってきたら」


 誰もいない場所で、小さく呟く。


「甘いもんでも用意しとくか」


 そう言ってネロはゆっくりと屋敷へ戻っていく。


こうして。

世界を救った英雄フェリクス・レイヴンは、

魔王よりも恐ろしい敵――人間たちが待つ生誕祭へ向かうことになった。

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