表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/8

第一話 黒き英雄の憂鬱

黒き英雄は、絶望していた。


世界を救った英雄。

魔王を討ち、数多の魔族を滅ぼした救世主。


そんな彼を打ち砕くほどの災厄が、今まさに迫っている。


逃げたい。


できることなら今すぐ布団へ潜り込み、この一日が終わるまで眠っていたい。


フェリクス・レイヴンは鏡の前へ立ち、小さくため息をついた。


漆黒の礼服を纏い、胸元を整え、襟元を正し、最後にゆっくりと黒い手袋をはめる。

そして、部屋の隅へ立て掛けられていた一本の黒い傘へ手を伸ばした。

慣れた重みが手の中へ収まる。

その瞬間だけ、張りつめていた肩の力がほんの少し抜けた。


今日は――国王陛下生誕祭。


年に一度、この国で最も華やかな祭典。


城下町には色とりどりの旗が掲げられ、露店には甘い焼き菓子や果実酒が並び、人々は祝いの歌を口ずさみながら王都を行き交っている。


子どもたちは走り回り、大人たちは笑い合う。


国中が今日という日を待ち望んでいた。


──ただ一人を除いて。


「……はぁ。」


着替え終わりソファに腰を下ろした黒き英雄ことフェリクス・レイヴンは憂鬱そうに深くため息をついた。


王城へ行けば、きっとたくさんの人がいる。


話しかけられ、見られ、期待される。


その光景を想像しただけで胃がきゅっと縮こまり、逃げ出したい衝動が込み上げてきた。


(やっぱり……行きたくないなぁ。)


そう思っても、行かないという選択肢は最初から存在しない。


英雄である以上、国王からの招待を断ることなどできるはずもなかった。


せめて今日だけ雨が降って、生誕祭が延期になったりしないだろうか。


そんな叶うはずもない願いをぼんやり考えていると、


コンコン。

控えめなノックが部屋へ響いた。


返事をするより少し早く、扉が静かに開く。


「失礼いたします。」


聞き慣れた穏やかな声だった。


入ってきた青年は、蜜色の髪をきっちりと整え、皺ひとつない礼服を完璧に着こなしている。


立ち姿には一切の隙がない。


まるで絵画から抜け出してきた貴公子のようだった。


「フェリクス様。準備はお済みでしょうか。」


柔らかな笑みを浮かべるその青年は、シリル・グランヴィル。


侯爵家の嫡男でありながら、自ら望んで黒き英雄の護衛となった青年だ。


フェリクスは黒い傘を握ったままソファから振り返る。


「あ……う、うん。」


シリルはその姿を見て、ごく自然に微笑えむ。

それは彼にとって、あまりにも見慣れた光景だった。


「今日は早くお目覚めになられたのですね。」


「……?」


「普段でしたら、あと十分ほどお布団と熱い戦いを繰り広げていらっしゃいますので。」


「…………。」


普段のだらしない所を言われて、フェリクスは思わず視線を逸らす。


ベットが気持ち良すぎるのがよくないよ!


そう心の中で叫んでいると、それに気づいたのかいないのか、シリルはくすりと笑う。そして、そのまま窓際へ歩いていった


シリルが厚いカーテンを開けば、朝の陽射しが一気に部屋へ流れ込んできた。


磨かれた床へ光が落ち、白い壁をやわらかく照らしていく。


窓の外では風に揺れる百合が、静かに花びらを震わせていた。


「今日は本当に良い天気です。」


庭を眺めながら、穏やかな声で続ける。


「百合も見頃を迎えております。お時間がございましたら、今度ご一緒しませんか。」


「……そ、そうだね。」


フェリクスの返事を聞いたシリルはとても嬉しそうに微笑んだ


「ありがとうございます。」


ただ予定を合わせただけなのに、そんなに嬉しいことなのだろうか。


フェリクスには分からない。


シリルは本当に些細なことで幸せそうに笑う。


その笑顔を見るたびに、自分は何か特別なことをしてしまったのではないかと不安になる。


……また、何か変なこと言っちゃったのかな。


シリルの考えてることがわからなくて、とりあえず黙った。


沈黙の時間が流れている。けれど、その時間は不思議と苦ではなかった。


シリルといる時だけは、黙っていても息苦しくならない。


言葉を探して焦ることもない。


だから今日は、少しだけ頑張ってみようと思った。


「あ……あの。」


小さく声を出すと、シリルが一言も聞き逃さぬようにと振り返った。


優しい笑顔のまま、返事を待ってくれている。


「きょ、今日は……いっぱい、人と喋る日だから。」


言い終えると同時に、フェリクスの指先がぎゅっと傘の柄を握り締める。


革張りの持ち手が、少しだけ軋んだ。


「はい。」


「れ、練習……したくて。」


言い終えるまでに、喉が渇いて、何度も言葉が止まる。


変なことを言ってしまった気がする。


やっぱり言わなければよかった。


そう後悔しかけた、その瞬間だった。


シリルの瞳が、ぱっと輝いた。


「……つまり。」


一歩、また一歩とゆっくり距離を縮める。


「私を、練習相手に選んでくださったのですね。」


「……え。」


さらに一歩近づいてくる。


「これほど光栄なことはございません。」




「本日の出来事は、生涯忘れることはないでしょう。」


「え、えっと……。」


「まさかフェリクス様の初めての練習相手に選んでいただけるとは──」


「あ、あの……ち、近い……!」


気付けばソファの前で膝をつきフェリクスの手を握っていた。


(な、なんで……!?)


ただ練習に付き合ってほしかっただけだ。


それだけなのに。


まるで一生に一度の贈り物でも受け取ったような顔をされてしまう。


どう返せば正解なのか。


何を言えばいいのか。


考えれば考えるほど分からなくなっていく。


シリルは相変わらず、とても幸せそうだった。


「も、もう、離れて…!」


そうフェリクスが言葉を紡いだ瞬間


バァン!


勢いよく扉が開かれた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ