第6話 『少年の救済』
せめて、アラタは元気でいてね。
俺が最後に聞いた母からの言葉だった。
俺の母は、このスラムから立ち去ってしまった。
理由は、俺には分からない。
俺の目線では、父と母は仲良くやっていたと思う。
決して、家族仲は悪い訳ではなかった。
それなのに、俺達の前から立ち去ってしまった。
母が立ち去るまで、父と母、それと俺で平穏に暮らしていたというのに。
母が立ち去るまで間違いなく、幸せだった。
なのに、なんで今はこんなことになってしまったんだろう――。
目の前の男が怖い。
それは、自分がこの男には何もできないと、分かっているからだ。
この男を視界に入れると、恐怖に支配されて体が動かなくなる。
恐怖に支配されると、自然と抵抗する気が失せてくる。
だから、今はこの痛みに耐えるしかない。
この痛みに――。
「オイ、そこに座るなって言ったよなぁ!」
こいつは、何を言っているんだ。
確かに座るなと言われたことは覚えているが、言われた場所はここではない。
そんなことも、忘れたのか。
「そこは死んだ、あいつの場所だ。二度と座るんじゃねぇぞ」
死んだあいつの場所?
何があいつの場所だ。
出て行った母が忘れられないだけだろ。
母は、とっくにお前のことなんて忘れているだろうに。
こいつは、捨てられたことを認められずに母を死んだことにしてやがるんだ。
自分の記憶を捏造して、捨てられたことをなかったことにしている。
こいつは、母が立ち去ってから、捨てられたという事実に耐えられなくて、正気を失った。
最期まで母と愛し合っていたと、そう本気で思い込んでいる。
可哀想なやつだ。
だが、そんなもので俺が殴られる謂れはないけどな。
「悪かったから、殴るのはやめてくれ」
表に文句を出す必要はない。
できるだけ、刺激しないようにやさしく言葉を発する。
刺激してもこいつが暴れるだけだしな。
できるだけ穏便にやり過ごそう。
「てめぇ、なんだその顔は、俺を憐れむのはやめろ!あいつの顔を思い出すだろうがっ……あいつの顔?あいつ……?」
ずっと、うわごとのようにあいつ、あいつと連呼している。
どうしたんだ?急に。
本当に頭でもおかしくなったのか?
今でもおかしくなってんのに、勘弁してくれ。
「あいつ……あいつみたいにお前も、俺を捨てるのかぁ!」
「待てっ……」
頭を強く殴られた。男はそのまま俺に組みつき、首を絞めてきた。
これはまずいと、体が警報を鳴らしている。
「捨てられるくらいなら、捨ててやるよ!」
さらに首が絞められる。
ここまでされて、抵抗できないのはなんでだろう。
諦めてしまっているからだろうか。
恐怖で体が動かないからだろうか。
このままだと殺される。
苦しい、苦しい、苦しい――。
何もできなかった。やりたいことを。
こんな人生で終わりたくない。
誰でもいい。助けてくれ……。
神様――本当にいるなら――。
※ ※ ※ ※ ※
元委員長と解散した後は自宅に向かっていた。
元委員長とは微妙な雰囲気で解散したが、俺は解散した後の気分は晴れていた。
なぜならこのあと、俺は救われるからだ。
少なくとも、もう苦しむ必要はない。
一瞬、苦しむかもしれないがこれから続く苦しみに比べれば、他愛のないことだ。
俺はもう、何も考えなくない。苦しみたくない。
「ふぅ……」
緊張するな。
こんな人生だったとはいえ、人生の終わりが来るのだ。
緊張だってするのは当然だ。
恐怖はもちろんある。
でも、恐怖を乗り越えれば俺は救われる。
そう思えば、死の恐怖も和らげることができる。
ロープに手を掛ける。
「いくぞ」
次の動作でロープに首を掛ける。
ロープに首を掛けたら、あとは重力に任せるだけだ。
重力に任せ、徐々に首が絞まっていく。
苦しい、苦しい、苦しい――。
苦しい。
でもこれを耐えれば、救われる。
救われるんだ――。
※ ※ ※ ※ ※
少年が動かなくなった頃。
男は、放心状態でいた。
殺した?俺が?自分の子供を?
ありえない、ありえない、ありえていいはずがない。
「俺は殺してなんかない……殺してなんか……」
目の前で起きている、自分が起こした不祥事だというのに、この男は認めない。
都合の悪いことを捻じ曲げようとする。
この男はいつまで事実から逃げ続けるのか。
男が殺していないと呟いていると、少年がピクリと動き出す。
「は?」
疑問が出るのは当然だ。
自分がさっき殺したはずの少年が動き始めたのだから。
「お前、どういうことだよ……」
仰天する。
さっき殺したはずの少年が立っている。
もしかして、俺が今まであいつに行ってきた行為に対する罰を誰かが下しにきたのだろうか。
それとも、少年の亡霊か。
「殺したはずだ……殺した、俺はお前を殺したはずなんだよ!」
ここに来てやっとこの男は自分が起こしてしまった、事実を受け入れることができた。
目の前で起こりえない現実を見て、今までの出来事をようやく受け入れられるようになったんだ。
そんな非現実が目の前で起こったことによって、自分が起こした現実がはっきりと理解することができた。
そんなこと起こるはずがないと、俺が殺したはずなのに動くはずがないと、やっと自覚することができた。
「殺したはずだぁ!」
そう叫びながら、立つはずがなかった少年に襲い掛かる。
そして、先ほどのように殴りかかり首を絞める。
「誰だか、知らないが死ねぇ!」
先ほどの曖昧な殺気ではなく、明確な殺気を放ちまた少年を殺そうとする。
今にも、殺されそうな少年は心ここにあらずといったような表情をしている。
状況が呑み込めていないようだ。
「どういう……ことだ?」
疑問が聞こえてくる。
だが、首を絞めている本人には届いていないようだ。
仮に届いていたとしても、首を絞める力を緩むことなどこの男はしないだろう。
「俺は……あの時……」
少年から小声が聞こえてくる。
首を絞められて、声が掠れている。
「そうだ……あのとき、俺は。本当は……本当にしたかったのはっ……」
少年が男を殴る。
殴られたことで、男が後ろに倒れる。
「がはっ」
少年は、男が倒れたことを知り、そのまま追い、殴りつける。
殴る、殴る、殴る――。
声すら出させる暇を与えることもなく、少年は男を殴り続ける。
今までの人生の憤りを、怒りを、悲しみをぶつけるようにひたすら殴っているに見えた。
同時に、殴っている少年は悲しんでるようにも見えた。
そして、男の動きが止まってしばらくした後、少年の殴る手も止まっていた。




