LOG_0008:アネラス・ヘイワーズ
深い闇の底で、星奈は夢を見ていた。
それは、真っ白な研究室のような、あるいは宇宙の果てのような場所だった。そこには、数式で書かれた膨大な「仕様書」が宙に浮いている。
――君なら、この世界の不備を直せる。
姿の見えない声が、彼女の脳内に直接響く。日本に戻る方法は示されない。けれど、目の前のエラーを放置すれば、この美しい世界も、そして自分自身さえも消えてしまうという、抗いようのない確信だけが植え付けられていく。
(……やるしかないのね。計算を合わせるために。私が私でいるための『解』を出すために)
それは決意というよりも、消去法で選んだ「妥協」に近い。
けれど、二十歳の少女は夢の中で、震えながらその契約を認めてしまった。
ふと、意識が浮上する。目を開けると、視界に飛び込んできたのは、昨日泣き疲れたあの豪奢な天蓋だった。
「……そっか。起きたら、いつものの天井になってるかもって、少しだけ期待したんだけど」
わずかな希望は、昨日と同じ「完璧な朝」の光に砕かれた。
しばらくの間、星奈はぼーっと天井を見つめていた。
トントン、と控えめなノックの音が響いた。
「ステラ様、おはようございます。お目覚めですか?」
ノアの声だった。その響きは昨日の泣き声を聞いていたことなど微塵も感じさせないほど、爽やかで、そしてどこか機械的なほどに穏やかだ。
「……ええ。今、起きたところよ」
星奈は体を起こし、用意されていた新しい服に着替えた。
散々泣き絶望した昨晩を経て、もう悲しさからくる涙の余りさえない。
これから始まるのは、この未知の世界――エリュマントスを理解するための「フィールドワーク」だ。
「……この街、一体どこまで続いているの?」
星奈は、街の中央に広がる巨大な吹き抜けの縁から下を覗き込み、思わず眩暈を覚えた。エリュマントスは、ただ横に広いだけの都市ではなかった。
白亜の塔が並ぶ「上層」、ギルドや商店が密集する「中層」、そして遥か深淵へと灯火が続く「下層(地下)」。
「エリュマントスは、それ自体が一つの完結した世界なのです」
ノアが誇らしげに説明を続ける。
「わざわざ危険な『外の世界』へ行く必要はありません。上層で神の恩恵を授かり、中層で営みを築き、下層で都市の動力を維持する。この垂直構造こそが、完璧な循環を生み出しているのです」
「……垂直型のメガストラクチャー。完全に計算された自律型閉鎖都市ってわけね」
星奈は手摺りに手をかけ、解析ログを走らせる。
【構造:多層階層型都市エリュマントス】
【標高差:上層(+500m)〜地下(−1000m以上、計測不能)】
【特記:最下層より未知のエネルギー供給を確認】
見上げれば人工の柱が天を貫き、見下ろせば幾何学的な街並みが万華鏡のように底へと続いていた。 魔力で浮遊する昇降機が担う効率的な人の流れは、さながら基盤の上を流れる電流のようだ。
「ねえ、ノアくん。これだけの人口を維持するためのシステム……例えば廃棄物の処理はどうなっているの?」
「すべては『下層』の奥深くで自動的に処理され、再び資源として循環しています。住人は誰もその仕組みを気にする必要はありません。ただ、与えられた場所で幸福であればいいのです」
「……ブラックボックス化されているわけね。ますます巨大なサーバーラックの中に住んでいる気分だわ」
中層を歩けば、上層から降り注ぐ人工的な「聖なる光」が街を照らしている。
露店に並ぶ果実、勝手に動く織機。そして、そこに「貧困」の気配が一切ない。 人々は皆、親切で、礼儀正しく、星奈と目が合うと深々と頭を下げる。
「救世主様、昨日のお働き、感謝いたします」
投げかけられる言葉はどれも温かい。けれど、星奈にはそれが、プログラムされたNPCの台詞のように聞こえて仕方がなかった。自分にもっと躍動するような感情を持ち合わせていればそんなことはないのだろうけど。
彼女が愛した物理の世界は「カオス」を内包していた。けれど、このエリュマントスには、誤差が許されていない。そして、その唯一の誤差こそが、都の外から現れる「獣」であり、それを消去できるのが「自分」なのだと、彼女は改めて理解した。
「……わかったわ。ここは、完璧にメンテナンスされた『垂直の箱庭』なのね。そして私は、その庭を荒らすバグを排除するための……庭師、というわけだ」
「庭師……。ふふ、ステラ様らしい表現ですね。では、次はその庭師たちの集う場所――ギルド本部へ戻りましょうか」
ノアが微笑む。星奈は、足元から伝わるかすかな微振動を感じていた。
彼女は、自分の心がその完璧な旋律に少しずつ侵食されていくような、心地よい恐怖を感じながら、再び昇降機へと乗り込んだ。
ノアに導かれてやってきたギルドの中層、その最奥に位置する修練場は、先ほどまでの「美しすぎる街並み」とは別の意味で異様な空間だった。吹き抜けの広大な空間に、激しい気合と、金属が激突する硬質な音が反響している。立ち込めるのは、磨耗した鉄と、拭いきれない汗の匂い。
(……何これ。湿度も温度も、他のエリアより明らかに高いわね)
星奈の視界に、無数のログが走る。
【対象:訓練用ダミー。耐久値:14%。深刻な損壊を確認】
【環境:酸素濃度:微減。二酸化炭素濃度:上昇中】
そこには、システムが維持する「清潔な平和」はなかった。あるのは、人間が自らの意志で肉体を削り、限界を超えようとする泥臭い現実だ。皮肉なことに、星奈はその「計算通りにいかない熱量」に、今日初めて、人間らしい安らぎを覚えていた。
「そんなにじっと見て、人の筋肉の付き方に興味でもあるの?」
背後からの声に、星奈は肩を揺らして振り返った。そこに立っていたのは、星奈より少し背の低い、けれど一目で並の戦士ではないと分かる女性だった。アネラス・ヘイワード。 小柄ながら、しなやかな曲線を描くその肢体には、磨き上げられた鋼のような筋肉が宿っている。
【対象:アネラス・ヘイワーズ。レベル:34】
(レベル34……。カシムさんの半分以下。数値そのものは、この世界の平均より少し高い程度?かな。平均がまだ分かり切っていないけど)
星奈の解析ログは、数値化できない「ノイズ」を検知していた。アネラスが握る練習用の剣。その切っ先は、真空を切り裂いたまま微塵も揺れていない。それは、長年の執念が生み出す「静止」だった。
「救世主ステラ様、だっけ。昨日の『獣』の討伐、噂になってるわよ。でも、映像の記録を見る限り、あんた自分の剣に置いていかれてたでしょ」
その言葉に、星奈の思考がピタリと停止した。
「……待って。今、なんて言ったの?」
「あんたの戦い方の話をしてるのよ。腰が引けてたって――」
「そうじゃなくて。その前よ。『映像の記録』って……何のこと?」
星奈の問いに、アネラスは不思議そうに眉を寄せた。彼女は修練場の隅に設置された、青く光るクリスタルの柱を指差した。
「何って、街の至る所にある『全知の鏡』に決まってるじゃない。この都で起きた事象は、すべて中層の記録庫に保存される。ギルドの戦士なら、自分の戦いを振り返って反省するのは常識よ。あんた、そんなことも知らずに戦ってたの?」
星奈の背筋に、冷たいものが走った。
(『全知の鏡』……。要するに、都市全域をカバーする高精細な監視カメラネットワークってこと? 魔法なんて言葉で誤魔化してるけど、それってただの――)
「……常時監視システム、じゃない」
「何よ、その難しい言い方。私たちは守られてるのよ。何かあっても、システムがすべて見ていてくださるんだから。安心でしょ?」
アネラスは屈託なく笑うが、星奈の解析ログはさらに深い階層の違和感を拾い上げていた。
【比較解析:自己能力『神の眼』 ⇔ 外部環境『全知の鏡』】
【結果:『全知の鏡』は表層の事象のみを記録。私の眼は、その背後の『構造』を暴く。似て非なるもの】
(私の能力に『神の眼』なんて名前をつけたのは、この監視システムの一部として私を定義するため? 昨日、一人きりの部屋で泣き明かしたあの姿も、どこかのサーバーにデータとして蓄積されているの?)
吐き気がするほどの徹底した管理社会。けれど、目の前のアネラスの言葉は、その冷徹なシステムを唯一「血の通ったもの」に変えていた。
「次は自分の腕で斬りなさいよ。じゃないと、すぐにその体に振り回されて死ぬわよ」
星奈は息を呑んだ。昨日賞賛してくれた人々は、記録された映像を見て「素晴らしい結果だ」と手放しに称賛した。だが、この女性だけは、映像の中に映る星奈の「未熟な同期」を正確に指摘してきたのだ。
「……私の動作、そんなにバラバラだった?」
「ええ、酷いものだったわ。形を教えるから、構えてみて」
アネラスは迷いなく模擬剣を構え、基本の「正眼の型」を見せた。
星奈は瞬時に、その動きを極限解析でデータ化した。足首の角度、大腿四頭筋の収縮率、重心移動のベクトル。
(……監視されているなら、利用してやるわ。この世界の『正解』を、全部盗んで自分のものにする)
星奈は、アネラスが十年以上の歳月をかけて練り上げたその「型」を、一度見ただけで完璧にトレースしてみせた。指先一つ、視線の高さ一つまで、寸分狂わぬ模倣。それはまるで、アネラスの残像をそのまま三次元にコピーしたかのような、精密な機械の動きだった。
「……はあ。理不尽ね、本当に」
アネラスは呆れたように肩をすくめた。だが、その瞳に侮蔑の色はない。
「形は完璧。でもね、中身が空っぽだわ。データだけじゃ埋まらない『何か』が欠けてる。……まあ、そこに『意志』が乗るようになれば、本物に近づくはずよ」
アネラスはそう言うと、首にかけていたタオルを無造作に星奈へ放り投げた。
受け取ったタオルは少し汗臭く、重かった。
(管理された、綺麗なだけの世界。……でも、この重みだけは、嘘じゃない気がする)
あんなに嫌いだったはずの、泥臭い「青春」のような熱。 星奈はタオルで額の汗を拭い、再び剣を握り直した。それは、システムのバグ取りではない。彼女がこの不気味な箱庭の中で、自分の足で立つための、初めての「デバッグ」だった。




