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LOG_0009:概念

「――まだね。形だけ。あんた、鏡の中に映った自分と戦ってるつもり?」


アネラスの鋭い声と共に、木剣が星奈の喉元でピタリと止まった。  


星奈は荒い呼吸を整えながら、自身の視界に展開された解析データをなぞる。


【自己診断:姿勢誤差 0.02%。出力ベクトル:最適。再現率:99.9%】


「……完璧なはずよ。重心の移動も、筋繊維の収縮タイミングも、全部あなたと同じ数値を再現したわ」


「数値、数値って。あんた、自分のことを精密機械か何かだと思ってるわけ?」


アネラスは呆れたように肩をすくめ、木剣を肩に担いだ。  

特訓が始まってから数日。星奈の生活は一変していた。朝起きればノアに迎えられ、午前中はギルドで座学としてこの世界の歴史を学び、午後は修練場でアネラスと泥にまみれる。  


不思議な感覚だった。  


これまでの人生、運動部からの勧誘を「筋肉を動かすための化学反応に時間を費やすのは非効率的」と切り捨て、冷めた目で見ていたはずの自分が、今は汗の匂いと筋肉の悲鳴に没頭している。

部屋に帰れば、用意された豪華な風呂に沈み、食事を詰め込み、泥のように眠る。  


かつてのように深夜までスマートフォンの暗い画面を見つめ、実家の冷えた空気を思い出して涙する余力すら、今の彼女には残っていなかった。  


たまにカシムが「調子はどうだ!」と豪快な笑い声を響かせに来たり、ノアが聖母のような微笑みでタオルを差し出しに来たりするが、この数日、救世主としての「出撃」は一度もなかった。  


(『獣』の出現は継続しているみたいだけど、今のところは他のギルドメンバーで対処できている……。つまり、私が必要なのは『通常業務』じゃなくて、システムに致命的な負荷がかかった時だけってことね)


そんな予備電源のような扱いに不満はない。むしろアネラスとの訓練の方が、彼女にとっては「研究」に近い知的興奮を伴っていた。


「ねえ、アネラス。運動方程式も重心移動のベクトルも一致しているなら、出力される破壊力は同一になるはずよ。なぜあなたは、私の剣を『人形』だなんて言うの?」


「理屈じゃないのよ。あんたの剣には、迷いがない代わりに『欲』がないの。……『何が何でも生きて帰る』とか、『あいつをぶっ飛ばして美味い酒を飲む』とか。そういう、理屈を飛び越えた泥臭い何かがね」


「物理現象に精神論を持ち込むなんて、非論理的だわ。」


反発しながらも、星奈はアネラスが放つ、あの解析ログでは読み取れない「重み」の正体を、喉に刺さった小骨のように気に病んでいた。


「……ねえ、今日はちょっと付き合いなさいよ」


訓練の帰り際、アネラスが星奈を呼び止めた。ノアがいつものように「ステラ様、お迎えに上がりました」と現れる前に、アネラスは星奈の腕を掴み、昇降機へと引きずり込んだ。


「アネラス? 部屋に戻ってメンテナンスしないと、明日の可動効率が――」


「たまには数字以外のものを見なさいって。いいから、大人しくしてなさい」


アネラスが操作盤の、今まで見たこともない「最下層」に近いボタンを押す。  

昇降機は、中層の煌びやかな明かりを離れ、深い闇へと沈んでいった。  

やがて重厚な金属音が響き、扉が開く。


そこに広がっていたのは、ノアが一度も見せようとしなかった、エリュマントスの「内臓」とも呼べる光景だった。


「……ここが、下層?」


上層のような白亜の塔も、中層のような整然とした商店街もない。  


錆びた鉄パイプが剥き出しになり、絶え間なく蒸気が噴き出し、頭上の巨大な歯車が重低音を響かせながら噛み合っている。


人々の服は汚れ、雑多な屋台からは焦げた肉の匂いと、大声での笑い声が混じり合って漂っていた。


「汚い場所でしょ。でも、ここが私の故郷。エリュマントスを支える『動力』と、それを守る『消耗品』たちが住む場所よ」


アネラスは慣れた足取りで、狭い路地を歩いていく。  

彼女は、自分が下層の孤児院で育ったこと、毎日配給されるわずかなパンのために、大人たちの間で泥まみれになって戦ってきたことを、淡々と語り始めた。


救世主様あんたみたいに空から降ってきたわけじゃない。私はね、自分の腕一本で、このクソみたいな暗闇から抜け出して、陽の光が当たる中層まで這い上がってやったのよ。ギルドに入ったのは、正義のためじゃない。もっとマシな飯を食って、もっと広いベッドで寝るため。……それが私の『意志』よ」


アネラスが立ち止まり、汚れたレンガの壁を指差す。そこには、幼い子供たちが石ころで描いた、下手くそな「太陽」の絵があった。


「ここはシステムに守られてるんじゃない。私たちが、システムを回すために泥を啜ってるの。でもね、不思議なことに、自分で掴み取ったパンは、上からもらうご馳走よりずっと美味いのよ」


星奈は、言葉を失ってその光景を見渡した。解析ログが告げる。


【環境:衛生環境不良。経済指数:低。しかし、対象個体の活性度は……計測不能】


ノアの語る「完璧な循環」の裏側。そこには、数式には現れない「生きたい」という強烈なエネルギーが渦巻いていた。すべてを与えられ、管理されるだけの幸福。  


それは、如月星奈が感じていた「箱庭への恐怖」そのものだ。


(……私は、バグを取り除いてこの世界を『守る』と言った。でも、それはノアの言う『完璧な仕様書』を守ることじゃない)


アネラスのような、理不尽に抗い、自分の足で立ち上がろうとする「不確定要素」。


それこそが、物理学が愛する「生命のカオス」であり、今の彼女が最も守りたいと感じる「現実」だった。


「アネラス。……私、あなたの剣の正体が、少しだけわかった気がするわ」


「そう? なら、明日はもう少しマシな手応えを期待してるわよ」


アネラスの不敵な笑み。星奈の中で、これまで「救世主」という役割への義務感で繋ぎ止めていた心が、初めて自発的な「熱」を帯びて同期し始めていた。


下層の熱気と喧騒を後にし、星奈とアネラスは再び昇降機へと乗り込んだ。  


次第に遠ざかっていく地下の灯火を眺めながら、二人は言葉を交わさない。けれど、数日前までの「観測者と被写体」のような距離感は、そこにはなかった。  


やがて中層のギルドロビーで降りた際、アネラスがぶっきらぼうに手を挙げた。


「じゃあね。あんた、あんまり数字ばっかり追いかけてると、本当に機械になっちゃうわよ」


「……善処するわ。また明日、アネラス」


別れ際、星奈は少しだけ口角を上げた。その背中を見送ってからしばらく、ロビーの柱の影から、待機していたノアが音もなく滑り出すように現れた。その整った顔には、珍しく「そわそわ」とした、計算外の事態に直面したような微かな揺らぎがあった。


「――探しましたよ、ステラ様。訓練が終わったはずの時刻を過ぎても、あなたの生体反応が予測地点になかったので」


「ごめんなさい、ちょっとアネラスに付き合って下層まで行っていたの」


正直に答えると、ノアは困ったように眉を下げ、申し訳なさそうに視線を落とした。


「……下層、ですか。別に、あそこを隠したかったわけではないのです。ただ、神に選ばれた救世主様にお見せするには、あまりに無秩序で、清潔さに欠ける場所ですから。不快な思いをさせてしまったのではないかと……」


星奈は、フッと鼻で笑った。  

本音かどうかさて置いて。ノアの懸念は、彼女にとっては見当違いも甚だしかった。


「ショックを受けると思った? 残念だけど、私のいた世界だって似たようなものよ。表向きは安全で平等な国に見えても、その実、経済格差なんて山積みだった。私立に通えない子もいれば、学費が払えなくて進学を諦める子だっていたわ。そんな光景、見慣れてる」


星奈の瞳が、静かにノアを射抜く。


「むしろ、神様が私のすべてを知っていて、この街が完璧に管理されているなら、あんな場所を隠す必要なんてないはずじゃない? 誤差エラーも含めてのシステムなんでしょう?」


ノアは一瞬だけ、言葉に詰まったような沈黙を見せた。だが、すぐにいつもの完璧な微笑みを取り繕う。 「……おっしゃる通りです。ステラ様は、私たちが思うよりもずっと、世界の真理に近い場所におられるのですね」


これ以上の追及は無意味だと悟り、星奈は溜息をついた。今の彼女には、議論を戦わせるよりも、悲鳴を上げている筋肉を休ませることの方が優先順位が高い。


「もういいわ、帰りましょう。お腹も空いたし、体中が痛いの」


「ええ、お供します」


二人で静かな廊下を歩く道中、星奈はふと思い出した疑問を口にした。


「ねえ、ノアくん。そういえば気になっていたんだけど『レベル』っていう概念。これって一体、何を基準に算出されているの? 私の解析ログは数値を拾っているけど、この世界の人はどうやってそれを認識しているの?」


「『レベル』は、魂がこの世界の理にどれだけ深く干渉できるかを示す階梯です。自身の内に蓄積された経験。すなわち強さと、神より授かった加護の総量……それを私たちは、教会にある『鑑定の儀』や、自身の内なる感覚で把握します。ステラ様のように、一目で他者のレベルを数値化できる力こそ、まさに『神の眼』の権能そのものなのですよ。この世界の他の誰もが、その数値の存在すら知らないのです」


(なるほど。他人のステータスが可視化されているのは、私の特権ってわけね……)


部屋の前でノアと別れ、星奈は独りになった。

日替わりで用意される食事。最初は不気味でしかなかったその「最適化されたメニュー」にも、最近は舌が馴染んできている。

服を脱ぎ捨て、バスルームへと向かう。

温かいシャワーが、訓練で凝り固まった筋肉を解きほぐしていく。

 

湯気の中に浮かぶ自分の体を見つめながら、星奈はふと思った。    

あんなに帰りたかった日本。

あんなに拒絶していたこの世界。  

けれど今、アネラスから放り投げられたタオルの重みや、下層で見た泥臭い活気、そして少しずつ「自分のもの」になりつつあるこの肉体の感覚が、彼女の拒絶反応を和らげていた。


(受け入れるしかないのよね。……少しずつだけど、この世界の『変数』を理解し始めてる)


彼女はゆっくりと目を閉じる。

システムの歯車としてではなく、一人の解析者として。

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