LOG_0007:お母さん
巨大な石造りの城門をくぐった瞬間、星奈を待っていたのは暴力的なまでの歓喜だった。
「救世主ステラ様、万歳!」
「見たか、あの雷鳴のような一撃を!『獣』を一瞬で消し飛ばしたぞ!」
並び立つ騎士たちが剣の柄を叩き、民衆が花を投げる。泥にまみれ、鎧の隙間に砂が入り込み、精神的に削りきられた星奈にとって、その熱狂は鼓膜を震わせる「過剰な彩度のノイズ」でしかなかった。
(……何なの、この温度差。私は今、理由もわからずバケモノを殺して、心臓が止まるほど驚いて、へとへとなんだけど)
困惑する彼女の肩を、巨大な掌がガシリと掴んだ。カシム・アルヴァだ。彼は一点の曇りもない、太陽のような笑顔を浮かべていた。
「ハッハッハ!初陣でこれほどの戦果を上げるとは!さすがは神に選ばれし救世主、ステラ殿だ!」
「……カシムさん。戦果と言えるかどうか。……出力設定を完全に見誤って、周辺の地形を大幅に損壊させました。あれでは二次被害の予測が立ちません。反省点だらけです」
初陣で一人で行かせておいて、などといった愚痴はグッと堪えて冷静に報告をした。
星奈は、理系徒としての誠実さを持って「計算ミス」を報告した。だが、カシムはその言葉を豪快な笑い飛ばす。
「気にするな!『獣』をこの世界からデリートした、その結果こそが全てだ。微々たる地形の変化など、勝利の勲章に過ぎんよ!」
(……デリート?バグが消えれば、周辺の保存データが吹っ飛んでも構わないっていうの?そんなの、技術者としては最悪の仕事だわ……)
プロセスや論理を無視し、結果という数値だけを全肯定する彼の姿勢。そこに、星奈は得体の知れない危うさを感じた。しかし、抗弁する気力も湧かない。
「……とにかく、疲れました。あと、労働に対する報酬――給料はいただけますか?無一文だと、この街の経済システムを観測することすらできないので」
「もちろんだとも!君には特別最高ランクの支給を約束しよう」
渡された革袋には、見たこともない意匠の金貨が詰まっていた。ずっしりと重い。
まだ、あのアスファルトの冷たい感触が足の裏に残っている気がする。けれど、世界は着実に、彼女を「救世主」という役割の中に埋め込んでいく。
「さあ、ステラ様。お疲れでしょう、用意されたお部屋へ」
ノアに連れられ、たどり着いた「寄宿舎」は、星奈の予想を遥かに超えていた。
それは学生寮などではない。貴族の館のような豪奢な一室だ。ふかふかの絨毯、曇り一つない銀食器。そして何より彼女を驚かせたのは、その調度品だった。
「……何、これ」
壁紙の色、ベッドカバーの質感、本棚の配置。 すべてが、彼女がかつて日本で「いつか一人暮らしをするなら、こういうシンプルで落ち着いたトーンがいい」と、誰にも言わずに脳内だけでシミュレートしていた理想のデザインだった。
「……ノアくん。私の趣味、誰かから聞いた? なぜこの部屋の配色が、私の最もリラックスできる波長だと知っているの?」
ノアは、聖母のような穏やかな微笑みを崩さない。
「神様は、あなたが何に安らぎを感じるか、すべてご存知ですから。ステラ様が心地よく過ごせること。それがこの世界の『願い』なのです」
(……プライバシーの概念がないのか、それとも思考ログまでスキャンされているのか。どちらにせよ、気持ち悪い)
ノアが去り、一人きりになった部屋で、星奈は用意されていた豪華なディナーを口に運んだ。
【対象:香草焼き。栄養バランス:完璧。満足度:高】
解析ログが非の打ち所がない評価を下す。
味覚は確かに「美味しい」と叫んでいる。最高級の肉、絶妙な塩加減、完璧な温度。
なのに、どうしても飲み込みにくい。喉の奥に、見えない異物が詰まっているような感覚。脳が、この完璧な栄養摂取を「異物」として拒絶している。
「……おかしいわね。計算は合ってるはずなのに」
星奈は、実家の自分の部屋を思い出した。深夜、レポートに追われながら、キッチンの片隅でこっそり作った、あの安っぽいインスタントラーメン。グラム単位でわざわざ塩分を測り、「こんなの身体に悪いわね」と独り言を言いながら啜った、不味いけれど確かな「自分の味」。あの不完全で、適当で、けれど自分が選び取った日常の方が、今のこの完璧な食事よりも、ずっと「正解」に近い気がして。
「……お母さん」
呟いた声が、豪奢な部屋に空虚に響いた。
食事を終えた星奈は強張っていた肩を落とし、重い甲冑を一つずつ外していった。
あの規格外の出力を叩き出した剣も、今はただの冷たい鉄の塊として机に置く。
用意されていた部屋着は、滑らかなシルクのような手触りだった。それを身に纏いながら、星奈はふと、実家のクローゼットに放り込んであった、首元の伸びたTシャツや使い古したスウェットを思い出した。あんなに色気のない服が、今はダイヤモンドよりも価値があるものに思えてならない。
所在なく部屋の中を歩き回る。ふと本棚が目に入り、一冊の厚い本を手に取った。
「……これ、言語はどうなってるの」
開いたページには、この街の歴史や風土が記されていた。文字の形状は見たこともないはずなのに、意味だけが脳内に直接流れ込んでくる。内容は多岐にわたっていたが、驚くべきことに、その論理構成や記述のスタイルは、彼女が大学の図書館で好んで読んでいた学術書と酷似していた。 現代日本の名残は、一文字たりとも存在しない。それなのに、自分の好みに「調整」されている。その徹底したおもてなしが、かえって彼女の不安を煽った。
星奈はふと思い立ち、鎧の脇に置いてあった小さなポーチを探った。路地裏で「バグ」に遭遇した際、反射的に握りしめていたもの。
――スマートフォン。
この世界で唯一、彼女が「如月星奈」であったことを証明する現代の欠片。
画面は真っ暗なままだった。何度もサイドボタンを押し、液晶を叩いてみるが、文明の利器は沈黙を貫いている。物理定数が異なり、電気という概念さえ怪しいこの世界では、それはただのガラスと金属の板に過ぎなかった。
「……嘘でしょ。バックアップ、取ってないデータもたくさんあったのに」
黒い画面に、虚ろな顔をした自分が映る。この薄いデバイスの中には、母からの「遅くなるなら連絡しなさい」という小言のLINEも、ゼミの仲間との味気ないやり取りも、すべてが詰まっていた。 それが起動しない。その事実は、彼女が日本という座標から、そして「如月星奈」という連続性から決定的に切り離されたことを、どんな解析ログよりも残酷に突きつけていた。
星奈は、吸い込まれるように巨大なベッドに体を預けた。
天蓋のついた豪奢なベッドは、沈み込むような柔らかさで彼女を迎え入れる。
「っ……あ……」
喉の奥から、熱い塊がせり上がってきた。理系女子としての冷徹な分析。とりあえず救世主としての凛とした振る舞い。未知の能力への適応。それまで「如月星奈」を形保つために、ギリギリのところで張り詰めていた精神の綱が、一人になった瞬間に音を立てて千切れた。
「嫌だ……。帰りた、い……っ」
涙がどっと溢れ出し、枕を濡らした。二十歳の、ただの大学生。明日も大学へ行き、不味い学食を食べ、レポートの数値が合わないと嘆くはずだった日常。それが、なぜこんな「正解しかない世界」で、バケモノを殺して賞賛されなければならないのか。
声にならない慟哭が、静かな部屋に溶けていく。かつての孤独は、自分の意志で選んだものだった。けれど、この世界での孤独は、全人類に囲まれながら、誰一人として自分の「真実」を見てくれないという、絶望的な断絶だった。本当の「孤独」
――その時。
扉のすぐ外、廊下の暗がりに、人影があった。ノアは、扉に手をかけることもなく、ただ静かにそこに立っていた。壁越しに漏れ聞こえる、少女の悲痛な泣き声。 彼はそれを、憐れむでもなく、困惑するでもなく。 ただ、高性能な機械が作動音を確認するかのような、穏やかで空虚な表情で見守っていた。
「ごめんなさい…けど…それでいいですよ、ステラ様。存分に、古い自分を洗い流してください」
彼の呟きは、誰にも届かない。




