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LOG_0006:パッチ適用完了

 啖呵は切った。物理学専攻としての矜持が、口だけは威勢のいい言葉を吐かせた。


 けれど、握りしめた剣の柄は、手のひらのかいた冷や汗で滑りそうだった。心臓の鼓動はBPM150を超え、肺は酸欠を訴えるように熱い。 怖い。死ぬかもしれない。そんな、数式では到底処理しきれない原始的な恐怖が、二十歳の如月星奈の全身を支配していた。


「ステラ様、自分を信じてください!」


 背後から、ノアの澄んだ声が響く。


「その瞳には、僕たちには見えない『正解』が見えているはずですから。あなたは選ばれた救世主、この世界の理そのものなのです」


「勝手なこと……言わないでよ……っ!」


 叫ぶのと同時に、獣が再び動いた。今度は黒い触手が鞭のようにしなり、星奈の視界を覆い尽くす。 ――来る。


 死を予感した瞬間、彼女の意識は奇妙な「分離」を起こした。パニックに陥り、涙目になりながら「嫌だ」と叫んでいる情動的な自分と。それとは別に、極めて冷徹な精度で、迫り来る触手の角度、速度、そして空気の振動から「最適な回避座標」を割り出し続ける演算装置としての自分。


 殺意という、人生で初めて直面する明確な悪意。星奈はそれを「意識」することなく、ただ体が勝手に描く軌道に身を任せた。触手が鼻先を掠め、背後の地面を爆破する。泥を撥ね上げながら転がるように身をかわし、彼女は無理やり思考を「解析」のモードへと固定した。


(落ち着け……。死の恐怖はただの生体反応。パニックは脳の処理能力を落とすノイズでしかない。観測しろ。あのバケモノにも、必ず『計算の合う場所』があるはずよ)


 視界を埋め尽くす赤いエラーログ。そのノイズの海の中で、星奈の瞳はある一点を捉えた。うねる黒い肉塊の表面、不自然に空間が歪み、一瞬だけ内部の構造が剥き出しになる「座標のズレ」。


 それは生物的な急所などではない。この世界の「レンダリング」が追いついていないかのような、システム上の欠陥。プログラム上の、最も脆弱な処理ポイントだ。


【警告:対象座標に構造的欠陥を確認】

【ガイド:修正プログラム(一撃)の注入を推奨】


 網膜に、一本の光のラインが描かれた。  

 獣の歪な肉体へと吸い込まれるように伸びる、絶対的な正解のベクトル。


「……そこね」


 星奈は、暴れる肉体の出力を制御するのをやめた。身体能力に振り回されるのではなく、その巨大なエネルギーの奔流を、解析ログが示す一点へと集約させる。

     

 彼女は、ただ真っ直ぐに剣を突き出した。フェンシングのような華麗なフォームでも、騎士のような重厚な一撃でもない。ただ、計算された座標へ、最短距離で「質量」を叩き込む。


 ――それは、棒切れを突き出すような、不器用で無機質な「刺突」だった。


「当たれ……っ!」


 目をつむりたくなる衝動を、解析ログへの執着でねじ伏せる。  

 剣先が、獣の肉体に生じた「座標のズレ」――その中心部へと吸い込まれた。


 手応えは、なかった。まるで空気に刃を突き立てたような、手応えの不在。  


 けれど、次の瞬間に起きたのは、如月星奈が知る物理法則の範疇を超えた「情報の崩壊」だった。


 ――ドォォォォォォォン!!


「きゃあぁぁっ!?」


 耳を劈く爆音と共に、目の前の異形が内側から弾け飛んだ。血が飛び散るのではない。黒い泥のような質量が、激しい光のノイズを放ちながら、粉微塵に分解されていく。その際に発生した凄まじい衝撃波が、円状に広がった。周囲の巨木が、まるでマッチ棒のようにバキバキと音を立ててなぎ倒され、足元の土壌が数メートルにわたって削り取られる。


 星奈の体も、その反動で後方へと吹き飛ばされた。  

 数メートル後方の地面に背中から叩きつけられ、泥まみれになりながら転がる。


「いたたた……。な、なによ今の……出力設定、絶対におかしいでしょ……」


 肺から空気が追い出され、喘ぐように呼吸を整える。腕は痺れ、全身の筋肉が熱い。剣をただ突き出しただけだ。なのに、今の威力は大型の爆弾を至近距離で起爆させたのに等しい。


(怖い……。あんなの、まともに食らってたら、私だって……)


 二十歳の女子大生としての恐怖が、遅れて波のように押し寄せる。手がガタガタと震え、握っていた剣を落としてしまいそうになる。だが、視界の端には、そんな彼女の情緒を無視するかのように、無機質な文字列が浮かび上がっていた。


【対象:獣。完全消滅を確認】

【ステータス:領域の整合性修復(パッチ適用完了)】

【事後処理:完了】


「パッチ、適用……?本当に、バグ取りでもさせたつもりなの?」


 不気味だった。人を殺したような罪悪感も、怪物を倒したという達成感もない。  


 ただ「不具合を消去した」という事務的な完了報告だけが、網膜に残っている。


「ステラ様! ご無事ですか!」


 ノアが駆け寄り、彼女の体を支えた。その顔には心底からの安堵が浮かんでいるが、星奈は彼の手を借りて立ち上がりながら、周囲を見渡した。


「……ねえ、カシムさんたちは? ギルドのみんなは、どこにいるの?」


 緊急の伝令があったはずだ。

 副団長であるカシムや、他の騎士たちが援護に来ていてもおかしくない。それなのに、この崩壊した荒野にいるのは、星奈とノアの二人だけだった。


「副団長様たちは、他の地点に現れた『獣』の対応に当たっています。ここは、ステラ様に任せても大丈夫だと……神様の信託がありましたから」


「信託って、そんな曖昧な……。普通、新人に単独でこんなバケモノを相手にさせる?人手不足なのかしら」


 星奈は泥を払いながら、遠くそびえるエリュマントスの城壁を仰ぎ見た。    

 自分を「救世主」と呼び、持ち上げ、そして解析不能な怪物に平然と一人で立ち向かわせるこの世界の仕組み。勝ててしまったという事実への安堵よりも、自分が「この世界の便利なツール」として組み込まれていくことへの、得体の知れない寒気が背筋を走った。


「……帰りましょう。もう、計算が合わないことだらけで頭がパンクしそう」


「ええ。戻ってゆっくり休みましょう。あなたは今日、最高の結果を出したのですから」


 ノアの微笑みは、黄金の夕日に照らされてどこまでも美しかった。  

 如月星奈は、震える手で剣を鞘に収め、一歩一歩、自分を「デバッガー」として受け入れた都へと戻っていく。


 その足跡の先には、なぎ倒された木々と、不自然に削り取られた大地だけが、異物のように取り残されていた。

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