LOG_0066:あなたは、私の影だった
「あの子は無事よ。刺し傷も深くなかった。命に別状はないわ。……あの整備士の娘、とんでもなく頑丈なようね」
イザベラは手元の端末から視線を外さずに淡々と答える。
「イザベラ局長、お願いします……ヴィンセントさんを治してください。貴女の権限なら、まだ間に合うはずです。彼は私を庇って……」
星奈は懇願した。
イザベラは『秩序の編纂局』の長だ。
この都市のエラーやバグを管理し、修復する最高権限者の一人。
権限を駆使してでも高度な医療や魔法で治せるかもしれない。
それが叶わないなら、自分の「救世主」の立場を使ってでも。
イザベラは無言のままヴィンセントの傍らに歩み寄ると、その妖艶な瞳を細め、片眼鏡越しに彼の身体をスキャンした。
数秒の沈黙。
それは、星奈にとって永遠にも等しい時間だった。
やがて、イザベラは静かに首を横に振った。
「……もう、駄目ね」「え……?」
「ただの物理的な欠損なら、私やシフォンの修復術式で繋ぎ止められたでしょう。けれど、この傷は『虚無』による消失よ。彼自身の根幹が、完全に喰い尽くされている。いや、それ以上に……」
イザベラは感情を排した声で、事実のみを告げた。
そして、彼女はレオンの方へと視線を向ける。
「対象レオン・ウェイン。重要規律違反、ならびに禁忌領域への不正アクセス、重要人物への傷害罪で拘束。……『深層牢獄』へ移送後、その脳内を全て洗いざらい解析するわ」
「はっ!」
検証官たちが、レオンの身体に特殊な魔導手錠――コードの詠唱を封じる封印具――を掛け、荒々しく立たせる。
「放せ! 僕は間違っていない! 僕はただ、この閉じた世界の壁を壊そうとしただけだ! お前たちこそ、偽りの空の下で飼いならされた家畜じゃないか!」
レオンが喚き散らすが、イザベラは冷ややかな一瞥をくれるだけだった。
「その『偽り』を維持するために、どれだけの血が流れてきたと思っているの? ……夢を見るのは勝手だけれど、その寝言は冷たい石の床で独り言ちていなさい」
連行されていくレオン。
その背中を見送ることさえできず、星奈はヴィンセントの亡骸に縋り付いて呆然としていた。
「……ステラ」
イザベラが、去り際に足を止めた。
彼女は振り返り、うなだれる星奈を見下ろす。
そこに哀れみや同情の色はない。
あるのは、同じ「組織の長」として対等に向き合う厳しさだけだった。
「顔を上げなさい。あなたはもう、ただの騎士でも、守られるだけのお姫様でもないのよ」
「…………」
「『救世主』であり『総監』でもあり、一軍を率いる将でもある。……自分の選択が招いた結果なら、その重さを背負って立ちなさい。それが、上に立つ者の義務よ」
突き放すような、しかし芯の通った言葉を残しイザベラは部下たちと共に研究室を後にした。
静寂が戻る。
広すぎる空間に、星奈と、動かないヴィンセントだけが残された。
思考が回らない。
悲しいのか、悔しいのか、それとも怒っているのか。
感情の処理さえ追いつかず、星奈はただ虚無の暗闇に沈んでいくような感覚に囚われていた。
(私が……彼を殺したの?)
(私が弱かったから。私が迷ったから。私が……)
自分を責める言葉だけが、壊れたレコードのように脳内を無限にループする。
その時だった。
重厚な金属音が、静寂を破って近づいてきた。
極めて重く、それでいて安定した足音。
星奈の視界の端に、見覚えのある巨大な鋼鉄の脚甲が映り込む。
彼女が顔を上げる気力もないまま固まっていると、その人物は何も言わず、星奈の震える肩に、分厚いガントレットに覆われた大きな手を置いた。
温かかった。
冷たい金属越しであるはずなのに、その掌からは岩のように揺るがない体温と意志が伝わってくる。
「……見事だった、ステラ殿」
低く、腹の底に響くような声。
以前と変わらない、実直さを絵に描いたような響き。
かつて上層任務で、共に死線を潜り抜けた『騎士団』の執行官、ハバルト・アイアンメイスだった。
彼は「久しぶりだ」とも、「大丈夫か」とも言わなかった。
ただ、その場に片膝をつき、星奈と目線の高さを合わせると兜の奥から真っ直ぐに彼女を見据えた。
「……ハバル、ト……さん……」
「胸を張れ。貴公が守り、彼が繋いだ命だ」
ハバルトは視線を、星奈の腕の中にあるヴィンセントへと移した。
そして、炭化してボロボロになったヴィンセントの左手が、未だ何かを掴むように固く握りしめられているのを見て、静かに目を細めた。
「……『執念』か。我ら騎士は『誓い』に殉ずるが……この男は、己が信じた『正義』に殉じたようだな」
ハバルトの声には、同業者への畏敬の念が滲んでいた。
彼は知っているのだ。
かつてこの男が、今の自分たちと同じように、この街の秩序を守るために奔走した「番人」であったことを。
「所属も、纏う鎧も違う。だが、守るべきもののために命を燃やし、その身一つで悪を封じた生き様……」
ハバルトの手が、星奈の肩を強く、熱く握りしめる。
それは、崩れ落ちそうな彼女の魂を、物理的に支えるかのような力強さだった。
「その魂の在り方は、我ら騎士がいずれ迎えるべき、誉れ高き最期そのものだ。……彼を、誇ってやってくれ」
その言葉が、凍りついていた星奈の心に熱を与えた。
ヴィンセントは、無駄死にではない。
彼は「犠牲」になったのではない。
一人の「秩序の守護者」として、最後までその職務(生き様)を全うしたのだ。
「……はい……っ」
星奈の瞳から、堪えていた涙が溢れ出した。
ハバルトは、彼女が泣き止むまで、その巨大な盾のように、傍らで沈黙を守り続けた。
数日後。
ギルド本部、『秩序の編纂局』局長室。
重厚なオーク材の扉の向こう、深紅の絨毯が敷き詰められた執務室は、静まり返っていた。
デスクの奥には、いつものように書類の山と格闘しているイザベラの姿があり、その傍らのソファにはシフォンが座っていた。
だが、今日のシフォンには、いつものような人を食ったような笑みも、気怠げな雰囲気もない。ただ静かに、紅茶のカップを見つめている。
「……入りなさい」
許可を得て、星奈は部屋に入った。
先日の戦闘で傷ついた体は、治癒術式で癒えている。
だが、心に空いた穴は塞がらないまま、彼女は二人の前に立った。
「今回の件、報告書は読ませてもらったわ」
イザベラは手元の書類を置き、片眼鏡の位置を直しながら星奈を見据えた。
「『全知の鏡』による指名手配という逆境の中で、連続窃盗および殺人事件の真犯人を特定し、確保。さらには、都市の根幹を揺るがしかねないレオン・ウェインの暴走を食い止めた。……見事よ、ステラ総監。貴女の功績は、ギルドの歴史に残るものだわ」
労いの言葉。
それは、本来なら飛び上がるほど名誉なことだったはずだ。
あの厳しいイザベラが、手放しで認めたのだから。
しかし、星奈は俯いたまま、首を横に振った。
「……違います。全部、ヴィンセントさんのおかげです」
星奈の声は震えていた。
握りしめた拳が、悔しさで白くなる。
「私は……この『救世主』、そして編纂局の『総監』という立場にいながら、現場のことを何も分かっていませんでした。中層の路地裏にあんな場所があることも、そこで生きる人々の苦しみも。……正義とは何なのかさえ、この世界に来て三年も経つのに、理解できていなかった」
星奈は顔を上げ、訴えかけるようにイザベラを見た。
その瞳は潤んでいるが、そこにあるのは悲しみよりも、自分自身への激しい憤りだった。
「『神の眼』なんて大層な力を持っていても、肝心なことは何も見えていなかった。私の判断が遅れたせいで……私の未熟さのせいで、優秀な方を失ってしまいました。上に立つ者が判断を誤れば、現場が血を流す。……それを一番理解していなければならなかったのに」
言葉が溢れ出る。
それは、星奈がこの数日間、ずっと一人で抱え続けてきた澱だった。
「イザベラ局長、そしてシフォンさん。……どうして私なんですか? どうして私のような未熟な人間を、総監なんて重責に推薦し、任命したのですか? 私には……その資格なんてない」
室内に沈黙が落ちた。
イザベラは静かに席を立ち、窓際へと歩み寄った。
眼下に広がるエリュマントスの街並み。
白亜の塔が立ち並び、整然とした秩序が保たれている美しい都市。
「……この街は『完璧』すぎるのよ」
イザベラが独り言のように呟いた。
「私たちの仕事は「秩序を保つこと」。バグを取り除き、エラーを修正し、この世界を『正常』に保つこと。決してこのエリュマントスに住む何万、何十万という市民には見えない様に……。知られないようにね……。けれど、完璧な秩序は時に冷酷で、小さな歪みや痛みを切り捨ててしまう。私たちはシステムの一部になりすぎたの」
彼女は振り返り、その妖艶かつ鋭い瞳で星奈を射抜いた。
「私たちが貴女に求めたのは、完璧な管理者としての能力ではないわ。……その『迷い』よ」
「迷い……ですか?」
「そう。痛みを知り、自分の無力さに打ちひしがれ、それでも足掻こうとする『人間くささ』。……貴女は、データや効率だけで物事を切り捨てない。今回のヴィンセントの件もそう。普通の検証官なら、彼をただの『元犯罪者』として切り捨てていたでしょう」
イザベラはゆっくりと星奈の前に歩み寄り、その肩に手を置いた。
「貴女が彼を信じ、彼と共に走ったからこそ、見えた真実がある。……ステラ、貴女はその『未熟さ』を恥じる必要はないわ。その痛みこそが、この冷たいシステムに必要な『体温』なのよ」
本音かは分からない。
組織の長としての、重く、温かい言葉。
それは星奈が抱えていた自己否定を、静かに溶かしていくようだった。
星奈は唇を噛み締め、それからゆっくりと視線をシフォンへと向けた。
ヴィンセントは、今回の事件の調査にあたり、星奈が条件を抽出しシフォンに推薦をしてもらった人物だ。
「……シフォンさん。……申し訳ありませんでした」
星奈は深々と頭を下げた。
「貴女の大切な部下を……守ることができませんでした」
謝罪の言葉と共に、涙が零れ落ちそうになる。
だが、次の瞬間。
ふわり、と甘い香りが星奈を包み込んだ。
「……馬鹿ねぇ、救世主様は」
顔を上げると、いつの間にか目の前に来ていたシフォンが、優しく星奈の頭を撫でていた。
いつもの揶揄うような口調ではない。
まるで妹をあやすような、慈愛に満ちた声だった。
「謝る必要なんてないわ。……あいつ、最後はきっと笑っていたんでしょう?」
「……え?」
「ヴィンセントのことよ。あんな不器用で、組織のルールからはみ出してばかりの馬鹿な男だったけど……自分の信じたもののために命を燃やすのが、あいつの夢だったのよ」
シフォンの指先が、星奈の涙を優しく拭う。
「貴女が彼を『信じた』。彼にとって、それ以上の救いなんてなかったはずよ。……ありがとう、ステラちゃん。あいつの最期を、無意味なものにしないでくれて」
「っ……!」
星奈は奥歯を強く噛み締め、必死に嗚咽を飲み込んだ。
ここで泣いてはいけない。
彼らが託してくれた思いを、涙で流してしまってはいけない。
(私は、背負う)
ヴィンセントの死も、自分の未熟さも、この街の光と闇も。
全てを背負って、それでも前に進む。
それが、生き残った者の、そして『総監』としての。
なによりも『救世主』としての責任なのだから
窓の外では、今日も変わらない「黄金の夕暮れ」が街を染めている。
だが、その景色は星奈にとって、今までとは少し違って見えた。
ただ美しいだけではない。
多くの人々の想いと、犠牲の上に成り立つ、尊くも儚い輝きとして。
星奈は涙を拭い、二人に一礼すると、毅然とした足取りで部屋を後にした。
その背中は、部屋に入ってきた時よりも、少しだけ大きく見えた。
この世界が本当にシステムによって管理され尽くしているのであれば。
この都市において、死者の扱いは簡素だ。
魂は循環し、肉体は遠い未来に還元される。
それが「理」だ。
だが、遺された者の心には、形ある「区切り」が必要だった。
彼女は懐から、鈍い銀色に光る容器を取り出した。
彼が生前、任務の合間や終わりの一杯として愛用していた携帯用の酒瓶――『スキットル』だ。
表面は無数の傷で曇り、使い込まれた革巻きの部分はすり減っている。
蓋を開けると、彼が好んでいた強い蒸留酒の香りが、微かに鼻を掠めた。
短い付き合いだったが、時間以上にたくさんのことを教えてもらった。
「……ゆっくり休んでください」
星奈はスキットルを傾け、石碑の前に琥珀色の液体を僅かに注ぐと、その容器をそっと置いた。
合わせる手のひらに、冷たい風が触れる。
返事はもうない。
けれど、彼が最期に見せたあの安らかな表情だけが、星奈の心に焼き付いていた。
*
その足で、星奈は本部地下にある『特別収監区画』へと向かった。
厳重な魔導結界と、物理的な拘束具によって縛り付けられた独房。
その分厚い強化ガラスの向こうに、レオン・ウェインはいた。
彼は、星奈が来たことにすら気づいていなかった。
虚ろな目を宙に彷徨わせ、ブツブツと数式や術式を呟き続けている。
時折、何かに取り憑かれたように顔を歪め、次の実験のプランを喚き散らすその姿は、完全に狂気に侵されていた。
「レオン……」
星奈の呼びかけも、彼には届かない。
ただ、自らの頭の中にある「完璧な世界」の構築だけを、壊れたレコードのように繰り返している。
その哀れな姿を見つめながら、星奈はふと、寒気にも似た感覚を覚えた。
ガラスの向こうにいるのは、レオンではない。
――あれは、かつての『私』だ。
(私も……こうなっていたかもしれない)
記憶が、現代日本での日々にフラッシュバックする。
国立大学の理学部キャンパス。黒板に羅列される数式。
感情に乏しく、あらゆる事象を物理法則と確率論だけで処理しようとしていた自分。
「星奈って、冷めてるよね」 友人たちの言葉が蘇る。
けれど、当時の彼女にとって、それは侮蔑ではなく事実だった。
不確定でノイズだらけの感情よりも、答えが一つに定まる数式の世界の方が、どれほど心地よかったか。
その孤独を探究の心地よさと思い込み、むしろ誇りにしてさえいた。
(でも、本当は気づいていた。……それが、とても危ういことだって)
一歩間違えれば、人としての形を失い、論理だけの怪物になってしまう。
その境界線上に、かつての自分は立っていたのだ。
この異世界に来て、三年。
星奈の中で、決定的に変わったものがある。
それは『人間性』だ。
数式では記述できない「想い」。
計算では導き出せない「選択」。
合理的ではないと切り捨てていたはずの「感情」こそが、この世界を、そして人々を繋ぎ止めているのだと、彼女は知った。
神の眼ですら解析不能な『人の心』という変数が、未来を創るのだ。
「……私ね、転属願いを出した時、本当は迷っていたの」
星奈は、誰に聞かせるでもなく、静かに独り言ちた。
「『基盤の修復局』……あそこは、私の好きなこと、性分には一番合っていたから」
バルタザール総理が統括する、裏側を支える職人たちの局。
とことん謎を究明し、システムのバグを修正する仕事。
インフラを支え改善し、時には戦う人間たちの為に武器に魔道具まで作り上げる。職人という枠に収まらない、とことん理屈を追い詰めて問題を解決させる。
それは、理系女子大生だった彼女にとって、ある意味で理想郷とも言える場所だったはずだ。
「でも、選ばなかった。……いいえ、選べなかった」
ガラスに映る自分の顔を見つめる。
「怖かったのよ。もしあそこで、世界の真理だけに没頭してしまったら……私はいつか、貴方のようになってしまう気がして」
目の前のレオンのように、人の痛みが分からない、ただの「処理装置」になってしまう未来。 それが怖くて、彼女は人の命を預かる道を選んだのかもしれない。
痛みを知るために。
人として生きるために。
「さようなら、レオン。……貴方は、私の影だった」
星奈は踵を返した。
もう、迷いはない。
背後で響く狂気じみた数式の詠唱は、重厚な扉が閉まると同時に、完全に遮断された。
地下通路の薄暗がりの向こう、地上へと続く階段から微かに「黄金の夕暮れ」の光が差し込んでいる。
星奈はその光を見据え、一歩一歩、力強く階段を登り始めた。
その背中は、「冷めた理系女子」のものだけではない。
痛みも、悲しみも、全てを背負って歩む
一人の『人間』としての強さを帯びていた。




