LOG_0063:事象の上書き
メイは研究室の重厚な扉のロックを解除すると、そこから一歩も動かずに立ち止まった。 その瞳には、友人を危険な場所へ送り出す不安と、それでも彼女の「正義」を信じようとする強い意志が揺れている。
「ありがとう、メイ。……すぐに戻るわ」
「うん。外で見張りしてる。誰か来たら、スパナ落として合図するから!」
メイが気丈にサムズアップをするのを見届け、星奈はヴィンセントと共に、冷気漂うその部屋へと足を踏み入れた。
プシューッ……。
背後で扉が閉まると、そこは外界の騒音が完全に遮断された、死のような静寂に包まれていた。
「……誰もいねえな。もぬけの殻だ」
ヴィンセントが素早く室内をクリアリングし、短銃を下ろす。
そこは研究室というよりは、巨大なサーバー室のようだった。
壁一面を埋め尽くす魔導スクリーンには、複雑な波形が幾重にも走っており、中央には解体された数体の魔導アーマー
――いや、それとは明らかに構造の異なる「残骸」が鎮座している。
星奈はその残骸の一つに歩み寄り、息を呑んだ。
「これは……」
スクリーンに投影されていたのは、先日遭遇したあの「顔のない騎士」の設計図だった。
だが、それは通常の魔導工学で描かれたものではない。
「……ヴィンセントさん。これを見てください」
「あ? なんだ、ただの設計図じゃねえか。……いや、待てよ。文字が……読めねえ」
ヴィンセントが眉をひそめるのも無理はない。
そこに記されていたのは、エリュマントスで使用される共通言語でも、古代魔法語でもなかった。
『void update_entity(int target_id, float corruption_rate)』
『// System Override: Force Delete』
それは、星奈にとってあまりにも馴染み深く、そしてこの世界にあってはならない「プログラミング言語」と「英語」の羅列だった。
(……やっぱり。間違いなかった)
星奈は震える指先で、自身のこめかみに触れた。
長い黒髪が、モニターの青白い光を受けてさらりと揺れる。
かつての自分――理系大学生だった「如月星奈」としての記憶が、警鐘を鳴らしていた。
星奈の脳裏に鮮明に蘇る。
下層で回収した「チップ」。
その解析を、レオンに依頼した時のことだ。
「……これは、禁忌かもなあ」
あの時、レオンはチップを突き返してきた。
「この世界の我々が知る『魔導回路』の他に、何だ……理解不能な、よくわからない技術体系が組み込まれている。重層的に、複雑怪奇に、だ。……いや、これは『記述』そのものが違う」
彼は確かにそう言った。
恐怖に震えながら、チップを返却したのだ。
だが――今、目の前のモニターに映し出されているコードは、紛れもなくあのチップの断片だった。
(彼はチップを返した。でも……その「中身」までは捨てていなかったんだわ)
研究者としての好奇心が、未知への恐怖を上回ったのか。
あるいは「冒涜的」であるがゆえに、魅入られてしまったのか。
彼は手元に残した「メモ」を頼りに、月日をかけてこの異世界のコードを模倣し、再現しようとしたのだ。
「……ヴィンセントさん。彼は、自分が何を作っているのか理解していません」
「理解してない? 自分の研究だろ?」
「ええ。ですが、この術式の『根源』は、今の魔法理論では絶対に解明できない未知の言語で書かれています。レオンはそれを解読したんじゃない。意味もわからず、ただ形だけを書き写した『呪文』を唱えているだけなんです」
星奈は、モニター上の文字列を指差した。
(このコードのオリジナルを書いたのは、レオンじゃない。彼はただ、意味もわからず書き写した『呪文』を唱えているだけ。……これを書ける人間は、この世界の歴史上、一人しかいない)
かつてこの世界に降臨し、そして破滅したとされる先代の救世主。
聖騎士長、アルトリウス。
彼もまた、自分と同じく「向こう側の世界(日本)」から来た人間であり、何らかの方法でこの世界に「コード」を書き込んだのだ。
「今回の殺人事件で被害者が『消去』された現象。下層で発生した空間欠損。……全ては、彼が制御不能な『古代の遺物』を、無理やりこの世界のシステムに繋いだ結果の暴走です」
星奈は、作業台の上に散らばる膨大な手書きのメモ――レオンの筆跡で、必死にアルファベットを模写した紙束を見つめた。
(この世界の物理法則に対応していない、異世界たちの世界のプログラムを、無理やり実行しようとした結果の『バグ』。……レオンは、アルトリウスが残した『禁忌の遺産』を、ただの強力な魔法だと思って起動してしまった)
星奈はヴィンセントの方を向き、告げた。
「レオンは、その『遺物』がどれほど危険なものかを知らずに、ただ出力が高いだけの便利な魔法だと思って起動してしまったんです」
それを聞いたヴィンセントは、しばらく呆然としていたが、やがてポケットから煙草を取り出し、火もつけずに口にくわえた。
「……つまりだ。奴は、核兵器の発射ボタンを、部屋の明かりのスイッチだと思って押し続けてたってことかい?」
「……ええ。その喩えが、一番近いです」
「笑えねえ冗談だ。……無知ってのは、時として最大の罪だな」
ヴィンセントが吐き捨てるように言った、その時だった。
「――素晴らしい推理だ。……まさか、そこまで読み解かれるとは思わなかったよ」
背後の暗がりから、静かな拍手の音が響いた。
「……レオン」
星奈が振り返ると、暗闇の中から白衣を纏った痩身の男が、ゆらりと姿を現した。
ボサボサの黒髪に、瓶底のような分厚い眼鏡。
その奥にある瞳は、かつて星奈が興味を抱いた「純粋な探究心」ではなく、何かに取り憑かれたような濁った光を宿していた。
「素晴らしいよ、ステラ様。……いや、今は『救世主』と呼ぶべきかな。三年前に僕が匙を投げたあのチップの断片から、よくぞここまで真相に辿り着いた」
レオンは独り言のように呟きながら、ゆっくりと歩み寄ってくる。
その右手には、まだ新しい赤黒い液体が滴る手術用のメスのようなナイフが握られていた。
「おい、待ちやがれ!」
ヴィンセントが即座に銃口を向けるが、レオンは意に介さない。
星奈の視線は、彼が今しがた出てきた扉の向こう――廊下の暗がりに釘付けになっていた。
「……メイは? 彼女は外で見張りをしてたはずよ。誰か来たら、スパナを落とすって……」
「ああ、あの騒がしい整備士か。彼女なら、少し静かにしてもらったよ」
レオンは無造作に扉の閉鎖スイッチを押した。
重厚な金属扉がスライドして閉まるその直前。
隙間から漏れた光が、廊下に横たわる小柄な影を照らし出した。
愛用の巨大なスパナが、主の手を離れて床に転がっている。
「メイッ!!」
星奈が叫び、扉に駆け寄る。
だが、無慈悲な駆動音と共に扉は密閉され、電子ロックがかかった。
「……貴様ッ!!」
ヴィンセントの瞳に激しい怒りの炎が宿る。
彼は邪魔な作業着の上着をかなぐり捨て、下に着ていた戦闘用のベストとホルスターを露わにした。
星奈もまた、大きすぎるツナギの前をはだけさせ、白磁の籠手を展開して構える。
「……彼女に何をしたの」
星奈の声は、地を這うように低く、冷たかった。
だが、レオンはまるで面白い実験結果を見たかのように、ケケケ、と不気味な笑い声を上げた。
「何をした? ……ただの『ノイズ除去』だよ。偉大なる実験の最中に、外野がうるさくてね」
彼は血の滴るナイフを指揮棒のように振り回し、恍惚とした表情で演説を始めた。
「君も覚えているだろう、ステラ様? ……僕たちが初めて会った日のことを。僕は君に言ったはずだ。魔法とは『精霊への祈り』などという曖昧なものではなく、世界のサーバーに対する『事象の上書き』であると!」
星奈の脳裏に、かつての記憶がフラッシュバックする。
まだこの世界に来て間もない頃、ギルドのテラスで彼と交わした会話。
彼は星奈の存在を「未知のコード」と呼び、解体・解析しようと迫ってきた。
あの時、星奈は彼に対し、自分と同じ「論理」で会話ができる唯一の理解者としての可能性を感じていたのだ。
(……あの時の彼は、純粋だった。ただ真理を知りたがっていただけ。でも今は……)
「今回の事件……連続する『消失』。そして、その前段階としての部品窃盗。……全て君がやったことなのね?」
星奈の問いに、レオンは両手を広げる。
「肯定も否定もしないがね。ただ、僕は『最適化』を行なっただけだ。……この世界のエラー耐性をテストするために、少しばかり負荷をかけた。盗まれた部品も、消えた人々も、全ては偉大なる『顔のない騎士』を完成させるための素材になったのさ」
「……素材だと? 人間を、ただのデータみたいに扱いやがって」
ヴィンセントが吐き捨てるが、レオンは心底不思議そうに首をかしげた。
「おや、何を怒っているんだい? ……君たち『記述』で構成された存在にとって、死とは単なる『ログの消失』に過ぎない。バックアップのないデータを削除したところで、それはシステム全体の健全化に寄与する『デバッグ作業』だろう?」
「そのために、罪もない一般の人を殺したって言うの?」
「誰でも良かったんだ。《《治験》》にギルドの人間を試すわけにはいかないだろう? 僕は仲間思いだからね。それに彼らは新しい次元へ触れることができたんだ。喜ばしいことだと君ならわかるだろう?? ステラ様」
その言葉には、一片の倫理観も、人間としての情動も存在しなかった。
あるのは、狂気的なまでの「合理性」のみ。
彼は完全に、人を人として認識していない。
「……レオン。あなたはもう、学者じゃない。ただのバグよ」
星奈は悲しみと決別を込め、そう告げた。
「おやおや、手厳しい。……だが、君なら理解してくれると思っていたよ。この『禁忌のコード』が持つ美しさを。……さあ、見せてあげよう。僕がじっくりと培養した、最高傑作を!」
レオンが背後のコンソールを操作すると、部屋の中央に鎮座していた「残骸」たちが、不気味な駆動音と共に起き上がり始めた。




