LOG_0060:身を切る決断
エリュマントスを垂直に貫く「秩序」の階梯において、ここほどその名が形骸化した場所はないだろう。
二人が非常口から逃げ込み、入り組んだ裏路地を抜けた先に広がっていたのは、黄金の夕暮れを拒絶するようなどぎつい魔導灯の光が明滅する街だった。
「……ここも、中層だというの?」
星奈は思わず絶句した。
白亜の街並みはどこにもない。
そこにあるのは、無秩序に増築を繰り返した雑居ビル、剥き出しの配管、そして視覚情報を汚染するほどに乱立する汚い店の看板だった。
酒、煙草、そして違法な魔力供給……。
エリュマントスの美しき「記述」がここではノイズとなり、泥のように濁っている。
「上層の一部の連中はここを『掃き溜め』と呼ぶが、俺らに言わせりゃここがこの街の本音だよ。なに、こんだけ広い街だ、こう言う場所がないのがおかしい。救世主様、あんたの眩しい鎧はここでは目立ちすぎる。少し大人しくしてな」
ヴィンセントは慣れた足取りで、不快な熱気がこもる路地裏の奥へと突き進む。
一軒の、一際ひどく傾いた建物の前で彼は足を止めた。看板も出ていない、厚い鉄板を継ぎ接ぎしたような扉。
ヴィンセントはそれを、親の仇でも殴るような勢いで乱暴に叩いた。
――ドンドンドンドンドォォンッ!!
「おい、開けろ! 寝てる時間じゃねえだろ!」
しばらくの沈黙の後、内側から重苦しい閂を外す音がした。
扉がわずかに開くと、中から吐き気を催すほど濃密なタバコの煙と、鼻を突く安酒の匂いが溢れ出してきた。
「……なんだよ、ヴィンセントさんか。勘弁してくれよ、今はなーんも悪いことしちゃいねえ。真っ当な商売の最中だ」
現れた男は、明らかに「裏」の空気を纏っていた。
顔に刻まれた傷跡、不敵な薄笑い。ギルドの人間たちとは根本的に異なる、弱肉強食の倫理で生きる者の目だ。
「わかってる。ガサ入れじゃねえ、ちょっと場所を借りたいだけだ。それと、少し『耳』を貸せ」
「場所ぉ? 嫌ですよ、うちはただの飲み屋だ。あんたみたいな物騒な――」
男の言葉が止まった。
彼の視線が、ヴィンセントの背後に立つ星奈へと向けられたからだ。
清廉な白磁の鎧は、この淀んだ街において、あまりにも異質で、場違いなほどに神々しすぎた。
「……は? おいおい、冗談だろ。……隣にいるの、もしかして、本物の『救世主』様じゃねえのか?」
男の顔からみるみる血の気が引き、即座に扉を閉じようとする。
「待ちやがれ!」
ヴィンセントが瞬時にその隙間にブーツの先を突っ込み、力任せに扉を押し止めた。
「悪いが、急いでるんだ。大人しく通せ」
「バカ言え! 救世主様なんて連れ込まれたら、俺の商売はおしまいだ! 浄化だかデバッグだか知らねえが、ギルドの『正義』をここに持ち込むんじゃねえよ!」
「四の五の言うな! こいつは今、あんたが恐れてる編纂局からも追われてるんだよ!」
「知るかよ! 離せ、このデカブツ……ッ!」
男が全体重をかけて扉を閉めようとした、その時だった。
ヴィンセントの表情から余裕が消え、冷徹な「狩人」の顔に変わった。
彼は迷うことなく、腰の短銃を抜き放ち、その銃口を男の眉間に突きつけた。
「……話を聞けと言ったはずだ。これはお願いじゃねえ、命令だ」
カチリ、という撃鉄の乾いた音が、湿った廊下に響く。
星奈は息を呑んだ。
(!? まさか、武器も持たない一般人にまで……!)
「ヴィンセントさん! やめて、彼は抵抗しているだけよ!」
星奈が思わず叫び、彼の腕を掴もうとする。
だが、ヴィンセントの腕は岩のように動かない。
銃口を向けられた男は、引き攣った笑みを浮かべ、ゆっくりと両手を上げた。
「……へっ。……相変わらず、無茶苦茶な野郎だ」
男は忌々しそうに舌打ちをし、扉を大きく開け放った。
「入れよ。……ただし、中で何を見ても、俺をしょっ引かないって約束しろよ、救世主様」
ヴィンセントは銃を収め、困惑する星奈を一瞥もせずに暗い店内へと足を踏み入れた。
一歩足を踏み入れると、そこには「清潔な秩序」とは真逆の停滞が満ちていた。
エリュマントスでは、世界は夜を終えて朝になろうとしているはずだ。
だが、窓一つないこの店内には、どろりとした夜がまだ居座っている。
安煙草の紫煙が幾層にも重なり、鼻を突く安酒の匂いが、救世主としての清廉な感覚を麻痺させていく。
店内の客たちは、朝日を避ける吸血鬼のように、薄暗い影の中でグラスを傾けていた。ヴィンセントは慣れた仕草で、端の剥げかけた丸テーブルの椅子を引く。
「……酒だ。一番安くて、一番喉が焼けるやつを」
カウンターの男にぶっきらぼうに命じると、彼はドカ座りして星奈を見た。
「さて、救世主様。……こんなドブ川みたいな場所まで逃げ延びて、ようやく一息だ。犯人の目星はついているのか?」
星奈は白磁の籠手をテーブルに置き、その冷たさを指先に感じながら、これまで頭の中で整理してきた数式と矛盾点を手繰り寄せた。
「……改めて思い返しましたが、今の段階では、あくまで私の推測でしかありません。けれど、状況証拠から導き出される可能性が、一箇所だけあります」
「時間がないんだ。もったいつけるな」
「……ギルド本部の地下深層にある『工廠区』です」
ヴィンセントがグラスを受け取る手が、一瞬だけ止まった。
工廠区。
それはエリュマントスの華やかな外見を支える「裏方」の最前線だ。
煤と油にまみれ、魔導剤の刺激臭が鼻を突き、常に試作回路の爆発音や、巨大な歯車が噛み合う不協和音が鳴り響くこの街の「内臓」とも呼べる場所。
「なるほどな。救世主様の推測通りなら、確かにそこの連中なら編纂局の目を盗んで『記述』をいじる隙はいくらでもある。……あの『顔のない騎士』を物理的に組み上げる技術も、あそこなら揃ってやがる」
「……でも」
星奈は俯き、膝の上で拳を握りしめた。
物理法則のように明快な答え。
それが出ているはずなのに、胸の奥にある「如月星奈」としての感情が、その答えを拒絶しようとしていた。
「……どうか、間違いであってほしいとも、思っています」
「間違い? 推理に自信がねえのか?」
「いいえ。……ギルドの人間。私に武器を、鎧を、……居場所をくれた仲間たちを疑うことになるから。もし犯人があの中にいるのだとしたら、私は……」
言葉が震えた。理系女子大生として、かつて周囲から「冷めている」と評された彼女の中にある、自分でも驚くほどの熱い拒絶感。
ヴィンセントは運ばれてきた琥珀色の液体を一気に煽り、喉を焼く熱さに目を細めた。そして、銃を抜く時よりもずっと静かな動作で、グラスをコト、と置いた。
「……いいか、救世主様。編纂局の人間が『身内』を疑う時に一番大事なことはなんだと思う?」
星奈が顔を上げると、ヴィンセントの双眸が、鋭くもどこか穏やかな光を湛えて彼女を捉えていた。
「冷徹な証拠集めか……それとも、裏切られた時の覚悟か?」
「いいや、逆だ。……『間違いであってほしい』と最後まで願い続けることだ」
ヴィンセントは、星奈の震える手元を視線で指した。
「そいつを信じてるからこそ、疑いも生まれる。最初からゴミだと思ってりゃ、疑いじゃなくただの確認だ。あんたが苦しんでるのは、あんたがちゃんとその『仲間』ってやつを、データじゃなく生身の人間として見てきた証拠だよ」
彼は少しだけ口角を上げ、自嘲気味に笑った。
「俺らの役割ってのは、最悪の真実を暴くのが仕事だが……心のどっかじゃ、いつも自分の推理が外れるのを祈ってるもんさ。……あんたのその『間違いであってほしい』って気持ちは、捨てなくていい」
「ヴィンセントさん……」
「その代わり、祈るなら現場へ行ってからだ。真実ってのは、この酒と同じで、喉が焼けるほど苦いもんだがな」
ヴィンセントの言葉は、冷たい数式に血を通わせるような、無骨な優しさに満ちていた。




