LOG_0059:逃亡者
「……腑には落ちる。理屈としては完璧だ。だがな、救世主様。そいつはなんの根拠もない、あんたの頭の中だけの理論だな」
ヴィンセントは、使い古されたスキットルの蓋を親指で弾き、残った酒を喉に流し込んだ。
隠れ家の薄暗い地下室。湿った空気の中に、安酒のツンとした香りと、星奈が展開したホログラムの青白い光が混ざり合っている。
星奈が導き出した、事件の背後に潜む「記述の改ざん」と、それによる「被害者の選別」という仮説。
それは、この都市の根幹を揺るがす恐ろしい推論だった。
「根拠はあります」
星奈は即座に返した。だが、その声は以前のような無機質なトーンではない。ヴィンセントの体調を気遣うような、微かな揺らぎが含まれていた。
「『神の眼』だろ? 分かってるさ。あんたが降臨して、どれだけのバグを叩き潰し、世界の傷口を縫い合わせてくれたか……。編纂局の落ちこぼれの俺だって、嫌というほど理解してる」
ヴィンセントは、空になったスキットルを乱暴にテーブルに置いた。
コン、という乾いた音が地下室に響く。
彼は椅子を軋ませて立ち上がり、星奈の正面に立った。
「だけどよ、俺はおまえさんと違うんだ。俺は魔法理論も魔力適性もゴミ同然の、ただの人間だ。現場の掃き溜めにへばりついている、ただの野郎なんだよ」
ヴィンセントの濁った瞳に、微かな、しかし熱を帯びた光が宿る。
「俺の信念は、この二つの眼で見たものだけを信じることだ。システムが吐き出す数字じゃねえ。被害者が最後に握りしめていた泥、犯人が残した靴の擦れ跡、死ぬ瞬間にその目に映っていたはずの絶望……。現場に転がっているそんな『生きた情報』を拾い上げて、泥を払って、真実にたどり着く。それが俺の正義だ」
彼は一歩、星奈に歩み寄る。
「あんたにはログが見えるんだろう。だが、俺らには見えない。見えないものを『信じろ』ってのは、俺にとっては神に祈るのと同じくらい空虚なんだ。俺たちが守るべきは『システム』じゃない。今、目の前で泥を啜って死んでいった『人間』なんだよ」
星奈は言葉を失い、黙り込んだ。 かつての彼女なら、「非効率な精神論だ」と切り捨てていただろう。あるいは、自分の視覚情報を共有できないもどかしさに苛立ちを覚えたかもしれない。
けれど、今の星奈は違う。
エリュマントスに降り立ち、多くの仲間たちと触れ合い、この街の呼吸を感じてきた。
人々が数式上の「個体」ではなく、温かな血の通った存在であることを十分に知ってしまった彼女にとって、ヴィンセントの言葉は鋭い棘となって胸に刺さった。
(私の見ているものは……正解かもしれない。でも、彼の言う「真実」には、私の計算式には入っていない重みがある……)
自分が「救世主」として世界のバグを取り除こうとする一方で、ヴィンセントはシステムの外側で、汚れ、傷つき、それでも「人間」の手触りを守ろうとしていた。
その圧倒的な覚悟の前に、自慢の解析能力がどこか上辺だけの、ひどく傲慢なものに思えてしまったのだ。
「……正直、あなたのその頑なな考え方には、危うさを感じるけれど」
星奈は視線を落とし、小さく吐息をついた。
それは怒りではなく、彼の背負うものの大きさを認めた敗北に近い譲歩だった。
「でも、今は言い合っている場合じゃないわね。現実、に人が死んでいる。そして、その『記述』が消されようとしている……それは、私にとっても耐えがたいことだわ」
「……ああ。救世主様も、ようやく話が分かるようになったな」
ヴィンセントがニヤリと笑った、その瞬間だった。
――ガシャッ、ガシャッ。
「まずいな......嗅ぎつけられたか」
ヴィンセントが瞬時に姿勢を低くし、腰の短銃に手をかける。
隠れ家の入り口へと続く階段の上から、金属が擦れ合う音が微かに響いた。
統制の取れた、重厚な鎧の足音。
エリュマントス騎士団、あるいは編纂局の捜索隊のものだ。
星奈も即座に『神の眼』を稼働させた。
扉の向こう側、厚い石
壁を透過して、数人の熱源と魔力波形が点滅している。
『......生命反応、二つキャッチ。間違いありません、この地下です』
階段の上から、若い隊員の緊張した声が聞こえてきた。
何らかの索敵魔法、あるいは魔導デバイスを使用しているようだ。
『おい、誰かいるのか! ギルド「聖典の守護者」だ! 抵抗は無意味だ、速やかに出てこい!』
「ヴィンセントさん、どうするつもりですか? 相手は身内、強行突破は最悪の選択肢ですよ」
星奈が小声で問いかける。だが、ヴィンセントは不敵な笑みを浮かべたまま、壁際に転がっていた空の木箱を指差した。
「いいか、救世主様。俺が合図したら、脇目も振らずに外へ駆け出せ。裏の搬出口まで二十メートル、あんたの脚なら五秒もかからないだろ?」
「何を......? あなたは……? 囮になるつもり……?」
「いいから黙ってろ。俺のやり方に『ケチ』をつけないって、約束したろう?」
ヴィンセントはそう言うと、手にした短銃の柄で、壁に設置された古い消火用の魔導パイプを思い切り殴りつけた。
――ガキィィィィィンッ!
ヴィンセントが叩きつけた短銃の衝撃が、魔導パイプの接合部を粉砕した。
その瞬間、高圧で圧縮されていた消火用の冷却魔力ガスと、老朽化した配管に溜まっていた熱い蒸気が、凄まじい轟音とともに噴出した。
「な、なんだ!? 爆発か!?」
「くそ、前が見えん! 散開しろ、魔力遮断膜を展開!」
階段の上からなだれ込んできた捜索隊の怒号が、白い闇の中に霧散する。
地下室は一瞬にして視界ゼロの混濁に包まれた。
「……今だ! 行けッ!」
ヴィンセントの短く鋭い声が飛ぶ。
星奈は視界を『神の眼』の熱源探知に切り替え、霧の中を矢のように突き進んだ。
入口の扉付近、混乱する捜索隊の隙間。
ヴィンセントは巨体を低く沈め、先頭に立っていた若い騎士の懐に飛び込むと、その分厚い胸当てを渾身の力で突き飛ばした。
「どきやがれ! 新米!」 「ぐわぁっ!?」
重厚な鎧を纏った騎士が、まるで紙屑のように後方の仲間を巻き込んで転倒する。 そのわずかな空白を縫うようにして、星奈とヴィンセントは霧の奥へと駆け出した。
背後から、咳き込む声と罵倒が追いかけてくる。
「まて……げほっ! おえっ! 逃がすな、追え!」
その声を聞いた瞬間、星奈の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛んだ。
自分たちは今、「殺人事件」を解決すべく奔走している。
それなのに、今は身内であるはずの騎士団を欺きまるで逃亡犯のように暗い通路を走っている。
この違和感。
この背徳感。
今の彼女には重くのしかかっていた。
(私は、何を……。間違ったことは、していないはずなのに)
迷いが足取りを鈍らせかける。
そのとき、隣を走るヴィンセントが、前を見たまま吐き捨てるように言った。
「今はそんな顔するな。理屈じゃねえんだ、とにかく走るしかねえ」
「……っ。はい」
星奈は唇を噛み、思考を無理やり前方に固定した。
地下の湿った冷気が、肺の奥まで入り込む。
二人は迷路のような地下回廊を駆け抜け、埃を被った非常用の裏搬出口へとたどり着いた。
重い鉄扉をこじ開けると、そこはエリュマントス中層の、複雑に入り組んだ路地裏の片隅だった。
黄金の夕暮れはここには届かず、冷たい石造りの影だけが伸びてる。
「ヴィンセントさん……あてはあるんですか? 私たちの記述が追われている以上、通常のギルド施設はどこも使えません」
星奈が問いかけると、ヴィンセントは短銃を腰に収め、乱れた息を整えながら不敵な笑みを浮かべた。その眼は、これから向かう場所の険しさを物語っている。
「ある。だが、そこに行くには……少しばかり、力づくで行くしかねえ場所だ」
「力づく……?」
「ああ。編纂局の綺麗なシステムじゃあ手が届かねえ、この街の『どん底』だ」
ヴィンセントはそう言うと、さらに深く、地下へと続く薄暗い階段を指差した。




