LOG_0058:アンディファインド
背後で、世界が剥がれ落ちる音がした。
第12住宅区の美しい並木道が、まるで劣化した映像データのように激しく明滅し、次の瞬間には吸い込まれるような漆黒の虚無へと消えていく。
物理的な破壊ではない。
そこにあるはずの「存在の記述」が、聖都のシステムによって根こそぎ抹消されたのだ。
『――警告。対象個体:ヴィンセント、ならびにステラ。エラーコード:0x000FF。一時的エラー個体として暫定認定。全方位、自動追跡プロトコルを開始します――』
星奈の視界に、血のように赤い警告ログが乱舞する。
同時に、聖都の静寂を切り裂くように、ギルド本部の巨大な警鐘が鳴り響いた。
それはかつての「獣」の襲来時にさえ聞かなかった、身内を狩るための特殊な冷徹な号令。
「……っ、そんな。私が、エラー個体……?」
中層のあちこちから、騎士団の重厚な鎧の足音と、編纂局の検証官たちが振るう魔導灯の光が迫ってくる。星奈たちが先ほどまで守るべき対象だったはずの人々が、今は「バグ」を排除する執行官として、彼女たちを追い詰めていた。
「救世主様……足、止まってんぞ……ッ!」
ヴィンセントが星奈の腕を強引に引き、居住タワーの非常階段からさらに奥、システムの記述が極端に薄い路地裏へと飛び込んだ。
辿り着いたのは中層の最底辺に位置する、打ち捨てられた古い下水管理室だった。 ここは数百年前の旧式の設備がそのまま放置されており、最新の『全知の鏡』の走査さえも、「非効率な旧データ」として切り捨てている場所だ。
下層とはまた一線の違う捨てられた場所だ。
重い鉄の扉を閉め、閂を下ろした瞬間。ヴィンセントが膝を突き、激しく咳き込んだ。
「ガハッ……! ゲホッ、ごほ……っ」
床に飛び散ったのは、どす黒い鮮血だった。
暗い室内で、彼の瞳はいまだに「禁忌の薬」の影響で禍々しい赤色に発光している。
残留思念を強制的に呼び起こす代償――それは魂の記述を自ら汚染し、肉体を内側から焼き切る狂気の沙汰だった。
「ヴィンセントさん! 待ってください、今バイタルを……!」
星奈が慌てて駆け寄るが、ヴィンセントはその手を荒っぽく振り払った。
「……触んな、お嬢ちゃん。……死にゃあしねえ。いつものことだ」
血を拭う彼の横顔を見て、星奈は息を呑んだ。
そこにあるのは、正義感でも使命感でもない。
目的のためなら自身の命さえ、あるいは人道や倫理さえも天秤にかける、冷徹なまでの執念だった。
この隠れ家も、かつて彼がとある犯罪者を追い詰める際、あえてシステムの死角を利用するために見つけ出した場所だという。
(この人は……最初から、この世界の『外側』で戦ってきたんだ)
星奈の胸に、形容しがたい感情が渦巻く。
23歳の女性として、現代日本という秩序ある社会で育ってきた彼女にとって、現在の状況はあまりにも耐えがたいものだった。
事件を追っていたはずが、気づけば自分たちがギルドを敵に回し、抹消されるべき「バグ」として追われている。
背徳感という刺激的な言葉では片付けられない。
もっと泥臭く、胃の奥が重くなるような強烈な「後ろめたさ」が彼女を苛んでいた。
「私は……ただ、正しいことをしようとしただけなのに」
「正しいこと、ね。……『鏡』に映るもんだけが正しいって信じてる間は、救世主様はまだお気楽なもんだったってことだ」
ヴィンセントはスキットルから酒精の強い酒を一口煽ると、痛みに歪む口元で、自嘲気味に笑った。
星奈は、湿った清潔な布でヴィンセントの額を拭った。
魔法を使えない彼女にできるのは、物理的な応急処置だけだ。
だが、ヴィンセントは依然として荒い呼吸を繰り返しながらも、わずかに開けた瞳で星奈を見据えた。
「……ケッ、そんな顔すんな。唯一の救いは、追われてるのが『救世主様』だってことだ。あいつらも、流石に自分のとこの神輿を本気でぶっ壊す度胸はねえ。強制捜査に踏み切るまでには、まだ時間が稼げるさ」
安堵させるような言葉とは裏腹に、彼の声は掠れている。
星奈は胸を締め付けられる思いで、その執念の背後にある孤独を感じていた。
(……考えなきゃ。彼が命を削って見せてくれた、あの影の正体を)
星奈はヴィンセントの傍らに座り込み、意識を内側へと向けた。脳裏の「神の眼」のキャッシュメモリに残された、あの「不定形の蠢き」の残影をサルベージする。
視認した瞬間に精神をオーバーヒートさせたあの異質さ。理学部物理学科出身の星奈は、それを既存の「魔法」や「バグ」としてではなく、一つの数理モデルとして解体し始めた。
(あれは、記述を『書き換えて』いるんじゃない……。そもそも、このエリュマントスというシステムが『定義できない』存在なんだわ)
彼女の思考は、ファンタジーの理法を突き抜け、量子力学や高次元幾何学の領域へと踏み込んでいく。
この世界の全ての事象は、聖都のシステムによって「記述」として認識されることで成立している。
しかし、あの影はシステムが処理できる次元を超えた、いわば「高次元の属性」を持っていた。
(人間の目には見えても、システムにとっては『理解不能』。だから『全知の鏡』は、それを観測エラーとして自動的にフィルタリング……つまり、無視してしまっているんだわ。透明人間じゃなくて、システムにとっての『存在しないもの』)
そして導き出される結論。
(あの騎士の鎧は……擬態だわ。システムに『これは騎士という記述である』と誤認させるための、偽装コードに過ぎない。でも、そんなことが許されるの?)
かつて、この世界の法則に挑んだアルトリウスが最後に失敗したように、システムを欺き続けることは容易ではない。整合性を尊ぶこの世界において、これほど巨大な「矛盾」は、いつか必ず致命的な揺り戻しを引き起こすはずだ。
(これも、きっとすぐに強制的なシステム修正によって消される……。その前に、この偽装を剥いで、正体を捕まえないと!)
星奈の瞳に、後ろめたさを凌駕する「観測者」としての冷徹な意志が宿る。
「ヴィンセントさん……休みながら聞いてください。あの『影』の正体……その尻尾を掴む方法が、一つだけあります」
隠れ家の外で鳴り響く追跡者の足音を遠くに聞きながら、星奈は震える手で自身の「神の眼」を、かつてないほど深い階層へと接続し始めた。
視界を埋め尽くす膨大な文字列を、物理演算のように仕分け、最適化していく。
「まず、条件を整理します。犯人はこの街の回路、通信、魔導接合――つまりシステムの深部に精通している。記述を書き換え、自身の存在を『ノイズ』として処理できるほどの技術屋である可能性が極めて高い」
星奈は脳裏に、これまでに見た「影」の不可解な挙動を並べた。
「そして、この世界の住人が共通して持つ『全知の鏡』への盲信……つまり神への信仰心が、その人物には欠落している。記述こそが真実だと思い込んでいる人間には、あんな大胆なシステム介入は不可能です。彼は、この世界の理が絶対ではないと知っている」
「……理の外、だと? 救世主様がそれを言うのかよ」 ヴィンセントが痛みをこらえながら自嘲気味に問い返す。星奈は答えず、自身の記憶の奥底に沈めていた「確信」を反芻した。
(……思い出した。この感覚、初めてじゃない。下層でヴォイドを消滅させた時に拾った、あのチップを解析した時の激痛。理解を拒絶するような不快なノイズ……)
あの時、チップの深層に触れた瞬間に感じた、脳を鋭い爪で掻きむしるような拒絶反応。
先代の救世主アルトリウスの残影が放っていたものと、今回の「影」が放つノイズは、本質的に同じ周波数を持っている。
ヴィンセントに話しても理解不能だろう。だが、星奈の中でパズルのピースは嵌まっていた。
(あの『影』が放っていたノイズは、システムの盲点を突くための防壁コード。犯人はアルトリウスが残したような、この世界の禁忌に触れる技術を使いこなしている……!)
星奈は、自身の『神の眼』に映るエラーログの残骸を見つめた。
「ヴィンセントさん。あの『影』が騎士の鎧を着ていたのは、システムに『これは騎士である』と誤認させていただけ。ですが、そんな大規模な偽装、いつまでも続くはずがありません。アルトリウスが……いえ、どんなに優れた技術でも、必ず揺り戻しが来る」
システムが矛盾を検知し、強制的に「存在の抹消」を実行する前に。
「手遅れになる前に、捕まえないといけない。彼が次に狙う、システムの『最も脆弱な場所』で」




