LOG_0056:陰謀の幽霊
白亜の塔が整然と並ぶ上層とは対照的に、中層の裏路地は、複雑に絡み合う魔導パイプと、重なり合う建物の影が独特の層を成している。
星奈は、前方を歩くヴィンセントの背中を追っていた。
トレンチコートの裾を翻し慣れた足取りで迷路のような道を歩く彼の姿は、この無秩序な風景の一部のように馴染んでいる。
「……随分と複雑な場所ですね。ここも、私が把握している地図データ上では、単純な物流経路として処理されているはずですが」
「救世主様がいつも見てる地図は、『表』の綺麗な記述だけだ。人が生きてりゃ、システムが想定してねえ勝手な通り道や、記述の隙間なんていくらでもできる」
ヴィンセントはスキットルをポケットに放り込み一軒の古びた商館の裏手で足を止めた。
そこは、第一の被害者であるアルド・ベルクが倒れていた現場だった。
「さて。まずは情報の整理だ。……被害者は三名。商館員のアルド、魔導具店員のリナ、それに広場清掃員のハンス。年齢も立場もバラバラだが、殺され方は共通してる」
星奈は手元のデバイスに、記録された解析データを呼び出した。
「ええ。三名とも正面から心臓を一突き。抵抗した跡……防御創が一切ありません。アルドさんは商館の裏路地、リナさんは店からの帰り道、ハンスさんは深夜の清掃作業中……。すべて中層第四区から第七区、深夜の魔導灯の出力が下がる時間帯に集中しています」
「正面から一突きにして、抵抗の跡なし、か。相手が神業の剣客か、あるいは……」
「あるいは?」
「被害者が、殺される瞬間まで相手を『敵』だと認識していなかったか、だ」
ヴィンセントは地面に這いつくばるようにして、石畳の隙間を指でなぞった。
星奈もまた、その横で『神の眼』を起動させる。三年という月日を経て、星奈の解析能力は飛躍的に向上していた。
かつてはノイズとして切り捨てていた微細な魔力波形も、今では「意味のあるデータ」として脳内で数式化できる。
しかし、彼女が視たものは、やはり「無」だった。
「……やはり、何もありません。まるで最初から死体だけがそこに置かれたかのように、犯人の魔力ログも、移動の痕跡も、全知の鏡には記録されていない」
「だろうな。だが、『記述』が消えても『事実』は消えねえ。……おい、次は第6区の魔導具店の方へ行くぞ。リナって娘の現場だ。あそこは、ちょっとした『顔見知り』がいてな」
ヴィンセントに促され、星奈はさらに深い路地へと足を進める。
この三年間、救世主として、そして総監としてエリュマントスを守ってきた自負はあった。
しかし、ヴィンセントが歩くたびに現れる「知らないエリュマントス」の姿に、星奈は無意識に喉を鳴らした。
システムが把握しきれない、人々の体温と悪意が混ざり合う記述の死角。
星奈の『神の眼』が捉えられない真実を、ヴィンセントの「足」が手繰り寄せようとしていた。
中層第六区。魔導具店が軒を連ねるこのエリアは、常に微かな魔力の共鳴音が漂っている。第二の被害者、リナ・セインが殺害された現場付近へ着くと、ヴィンセントは周囲を警戒するように見回し、路地裏の影に座り込んでいた一人の痩せこけた男に近づいた。
「おい、三公。息してるか」
「……げっ、ヴィンセントの旦那。また厄介事の持ち込みっすか?」
三公と呼ばれた男は、ヴィンセントの姿を見るなり逃げようとしたが、その襟首を無造作に掴まれた。
「情報の買い取りだ。最近、この辺りで『足音のない影』を見たって噂、流れてるだろ。記述には残らねえ、だが確実に『居る』不自然なナニかだ」
「……旦那も人聞きが悪いな。……まあ、馴染みの客が言ってたっすよ。リナちゃんがやられる直前、誰もいないはずの路地から『冷たい風』が吹いてきたって。魔導灯の光が、そこだけ吸い込まれるみたいに暗くなったって話だ」
「冷たい風、ですか?」
星奈が傍らから問いかけると、三公は彼女の白磁の鎧と美貌に気圧され、縮こまって頷いた。
「へ、へい。システム(鏡)の方は『正常』の一点張りらしいっすが、現場近くの連中はみんな気味悪がって夜は表に出ねえ。ありゃ幽霊か、さもなきゃ……」
「……十分だ。これでも食って、少しはまともな情報を集めとけ」
ヴィンセントは銀貨を一枚放り投げ、男を解放した。
三公はそれを掴むと、脱兎のごとく暗がりに消えていった。
「人の目には映るノイズってわけだ。……さて、救世主様。アンタの『眼』でもっかいここを視てくれ。記述が『正常』だと言い張ってる場所をな」
「これは……血痕? いえ、あり得ません。私の眼には、その壁は新築のように清浄なデータとして表示されています」
「これが『物理的な矛盾』ってやつだ。記述を上書きして証拠を消したつもりだろうが、こびりついた汚れまでは消せなかったらしい。救世主様、アンタの眼が『白』と言っても、俺の鼻はここから『鉄の匂い』を嗅ぎ取ってるぜ」
星奈は戦慄した。
全知の鏡という完璧なシステムが、物理的な実在に敗北している。
理系的な思考からすれば、データこそが真実であり、感覚こそが不確かなはず。
しかし今、ヴィンセントの指し示す「汚れ」こそが、唯一の真実を語っていた。
「……私の負けですね。記述を盲信しすぎていました」
「反省は後だ。行くぜ、最後は広場清掃員のハンスの現場だ。……あそこは他と違って開けた場所だ。隠れる場所もねえところで、どうやって『影』が消えたのか、拝みに行こうじゃねえか」
ヴィンセントの背中が、一段と険しさを増す。
星奈はその背を追いながら、未知の「悪意」がすぐ側に潜んでいるような寒気を感じていた。
最後に二人が向かったのは、中層第七区にある「昇降機広場」だった。
ここは上層への物資運搬の拠点であり、深夜でも清掃や点検の者が行き交う、比較的開けた場所だ。第三の被害者、ハンスはこの広場の隅、巨大な歯車の影で息絶えていた。
「ここは前の二箇所と違って、死角が極端に少ない。隠密行動をするには不向きな場所だぜ」
ヴィンセントはそう言いながら、広場の中央に立ち、周囲の構造をじっくりと観察した。星奈もまた、『神の眼』の走査範囲を広げる。しかし、三度目の正直とはいかない。やはり記述上、この広場の過去二十四時間は「清浄そのもの」であり、殺人が起きた痕跡すら存在しなかった。
「……ヴィンセントさん。ここでもシステムは沈黙しています。ハンスさんがここで作業をしていたというログさえ、不自然に削り取られている。ですが、先ほどの飛沫のような『物理的な矛盾』も見当たりません」
「……いや、あるぜ。救世主様、足元をよく見てな」
ヴィンセントがしゃがみ込み、広場の石畳を指先で弾いた。
そこには、清掃員が使う「魔導洗浄液」のボトルが転がっていた。
中身は空だが、ノズルからはまだ微かに液体が滴っている。
「ハンスって爺さんは、仕事熱心だったらしいな。死ぬ直前まで、この石畳を磨いてた跡がある。……だが、見てみな。この液体の『跳ね方』だ」
ヴィンセントが指し示したのは、洗浄液が床に広がった紋様だった。本来なら円形に広がるはずの飛沫が、ある一点を境に、まるで見えない「壁」に遮られたかのように直線的に途切れている。
「何かが……ここに立っていた? でも、私の解析ではここには障害物も、高エネルギー体も存在しません」
「ああ、データの上ではな。だが現実に洗浄液は『ナニか』にぶつかって止まった。……救世主様、アンタの眼で、視覚情報としての『解析』じゃなく、空間の『整合性』だけを抽出して計算してみな。数式の辻褄が合わねえ場所が、一箇所だけあるはずだ」
星奈はハッとして、解析のアルゴリズムを切り替えた。
物体の有無を見るのではなく、空間を構成する「記述の密度」の微細なムラを逆算する。物理学で言うところの、目に見えない天体の存在を周囲の重力異常から割り出す手法。
そして、星奈の視界に「それ」が浮かび上がった。
「――っ!?」
星奈の喉が、恐怖で凍りついた。記述が『正常』だと主張しているその空間の真ん中に、バグの赤色でも、秩序の青色でもない――どす黒い「虚無の穴」のような影が、人の形をして立っていたのだ。
それは、システムが「存在しない」と定義しているからこそ、誰の眼にも映らず、誰の記述にも残らない。だが、確かにそこに「在る」もの。
「なにか視えたか。……それがホシの正体だ。記述を書き換えてるんじゃねえ。記述そのものから『存在を剥離』させてやがる」
「そんな……。全知の鏡の管理下で、そんなことが可能なのは……」
「ああ。エリュマントスの深層コードを弄れる権限を持った、俺たち側の人間……あるいは、システムそのものを知破している『上』の奴らだ」
星奈が見た「見えてはいけない影」。それは単なる殺人鬼の正体ではなく、この聖都エリュマントスの根幹を揺るがす、巨大な陰謀の糸口だった。
「……ヴィンセントさん。この影の輪郭、私、解析できます。記述がないなら、周囲の記述との『境界線』から、犯人の座標を特定できるはずです」
星奈の瞳に、理系特有の冷徹な闘志が戻る。ヴィンセントは不敵に笑い、魔導ナックルをガチリと鳴らした。
「ハッ、ようやくバディらしくなってきたじゃねえか。……追い詰めようぜ、その『幽霊』を」




