LOG_0054:バディ
編纂局のとあるエリア。
そこには『審問官』たちが居を構える独立したエリアがある。
重厚な石造りの廊下の両翼には、選び抜かれたエリートたちの名前が刻まれた執務室の扉が整然と並んでいた。
星奈は迷いのない足取りで進み、その一室の前で立ち止まる。
「……失礼するわ」
控えめに、しかし明確にドアを叩いた。
「どうぞ」
中から聞こえてきたのは、鈴を転がすような、どこか気怠げな甘い声。
扉を開けると、そこには特有の香香の香りと、膨大な資料に埋もれた空間が広がっていた。
「あら、ステラちゃんじゃない。総監様がわざわざこんな場所まで、一体どうしたのかしら?」
そこにいたのは、審問官――シフォン・ルナ・パルフェタムールだった。
机の上には魔導書籍や未解析のデバイス、そして飲みかけのハーブティーが散乱しているが、部屋の隅々には彼女らしい華やかな調度品が配され、不思議と女性らしい柔らかい空気が漂っている。
そして、乱雑な書類の山の中で、一つだけ特別な場所を与えられているものがあった。 ――『蒼穹の守護輪』。
かつて死線を共にした証であるその指輪を、星奈は今も肌身離さず左の指にはめているが、シフォンは「仕事の邪魔になるから」と、大切に専用のケースに入れて飾っていた。
シフォンは椅子に深く腰掛け、足を組み替える。
局長から再三注意されているはずの、独自にカスタマイズした制服は健在だった。意固地なまでに短くされたスカートから、白い太ももがチラリと覗く。
「局長にまた報告書を書かされますよ、その格好は」
星奈が少し困ったように言うと、シフォンはくすくすと肩を揺らした。
「ふふ、もう慣れっこだわ。それより……その顔、ただの挨拶に来たわけじゃなさそうね?」
「……はい。シフォンさん、中層で起きている連続盗難、そして新たに発生した殺人事件のことはご存知ですか?」
「ええ、もちろん。世界の記述が物理的に、かつ人為的に断ち切られている……救世主様でも頭を抱えるような、最高に悪趣味な『バグ』でしょう?」
シフォンの鋭い瞳が、星奈を見据える。星奈は頷き、本題を切り出した。
「協力をお願いしたいのです。察していらっしゃるとは思いますが、今回、私は総監室を出て前線で直接調査を行うことに決めました。システム越しでは見えない『悪意』のしっぽを掴むために」
「へえ、まあそうよね。あなたの『神の眼』こそが、この不条理を暴く唯一の鍵だもの」
「そこで、シフォンさんの直属の部下から、選りすぐりの人間を一人、私のチームに貸していただきたいのです」
「私の? 注文が厳しいわね……。で、どんなスキルの持ち主がお望みかしら?」
星奈はあらかじめ脳内で定義していた「今回の捜査に必要なピース」の条件を、シフォンに伝えた。
「……条件は三つあります」
星奈は指を一本ずつ立てながら、淡々と、しかし確かな意志を込めて告げた。
「まず第一に、物理的な『痕跡』のスペシャリストであること。ログが完全に消去されていても、現場に残されたわずかな残留魔力や物質的証拠を決して見逃さない……仕事に対する愚直さと徹底さが必要です」
「ふむふむ。機械や魔法に頼り切らない『地道な目』ね」
「次に、中層の裏路地やネットワークに精通していること。全知の鏡に映らない『死角』を熟知し、かつ現場で情報を引き出せる社交性と聞き込みの能力……つまり、現場主義者であること」
シフォンはハーブティーを一口すすり、「注文が多いわね」と唇を尖らせた。星奈は構わず三本目の指を立てる。
「最後に、極限状態でも『精神汚染』を受けない強靭なメンタル。秩序の編纂局として、あの凄惨な殺人現場でも冷静に観測を続けられるタフな精神力が不可欠です」
一気に言い終えた星奈を、シフォンは可笑しそうに眺めた後、ふっと表情を緩めた。
「……ステラちゃんは相変わらず厳しいわねぇ。お酒飲んでた時は、あんなにかわいかったのに」
「……っ、シフォンさん。今は仕事中ですよ。二日酔いの話はもう忘れてください」
頬を微かに赤らめて反論する星奈に、シフォンは「わかってるわよ」と艶然と笑い、空中にホログラムのデバイスを展開した。
そこには編纂局の膨大な組織図と、審問官直属の構成員たちの人事データが流れるように映し出される。
「……愚直、社交性、そして鋼のメンタルね」
シフォンの指先が細かく動き、膨大なリストが絞り込まれていく。彼女の瞳は、いつの間にか遊びの気配を消し、上級検証官――あるいは『審問官』としての鋭利な光を宿していた。
沈黙が数分続いた。
デバイスから放たれる青白い光が、散らかった資料を照らし出す。
やがて、シフォンの指がピタリと止まった。
「――この男はどうかしら?」
シフォンがデバイスをくるりと反転させ、星奈の方へ向けた。
そこに表示されていたのは、一人の青年の顔写真と、編纂局内でも異色の経歴を持つプロフィールのログだった。
「私の直属の中でも、一番の『問題児』であり、一番の『仕事人』。……条件には、これ以上なく合致するはずよ」
映し出されたその顔を、星奈の『神の眼』が静かに解析し始めた。
「ヴィンセント・グレイ。編纂局内での二つ名は『猟犬』。ステラちゃんが言った三つの条件……特に『現場主義』と『タフな精神』に関しては、私の部下で彼の右に出る者はいないわ」
「ヴィンセント・グレイ……。あれ?」
星奈は流れるログの数値に、奇妙な違和感を覚えて眉をひそめた。
「シフォンさん。この方、ギルドに籍を置いてからもう十年以上経っていますよね? それなのに、役職がまだ検証官のまま……。データにエラーがあるのでしょうか?」
星奈自身、この世界に来てから三年という月日を経て、編纂局の「総監」という重責を担う立場にある。
たとえそれが特例の「救世主」であっても、十年在籍していれば通常なら上級検証官や、シフォンのような審問官への道が開かれているはずだ。
「ふふ、エラーじゃないわよ。彼はね、上からの昇格打診をすべて頑なに断り続けてきたの。とうとう呆れられて、今の役職で据え置かれているわ。……けれど実績だけ見れば、審問官を三回は襲名できるほどよ。何より私よりも歴で言えば先輩。まあ、その倍くらいトラブルも起こしているけれど」
「実績はあるけれど、昇格を拒み、トラブルも多い……。合理的な判断とは思えませんね」
「そうかしら? 彼はただ、組織の椅子に座るより、地べたを這い回る方が性に合っているだけ。ステラちゃん、さっき言ったでしょう? 『現場によく出る現場主義者』がいいって」
シフォンは楽しげにハーブティーを飲み干すと、手元のデバイスで短く命令を打ち込んだ。
「さて。私のとっておきの『猟犬』、今すぐ総監室へ向かうように手配したわ。……ああ、でも気を付けてね。彼、相手が誰だろうとこれっぽっちも敬語を使わないし、愛想も最悪だから」
「……構いません。必要なのは礼儀ではなく、この事態を打開する能力ですから」
星奈はシフォンに一礼し、自室である総監室へと戻った。
静かな部屋で、先ほど提示されたヴィンセントの経歴を改めて反芻する。
システムを信じず、泥の中の真実を追う男。
規律を重んじる編纂局の中で、あえて現場に留まり続ける異分子。
(私が理論と解析なら、彼は直感と執念……。パズルとしては、悪くない組み合わせかもしれない)
自室の椅子に深く腰掛け、星奈が目を閉じて思考を巡らせていた、その時だった。
――ガチャリ。
ノックという概念をどこかに置き忘れてきたような、不躾な音が静寂を破る。
扉が開くと同時に、冬の冷たい空気と、微かな煙草の香りが部屋に流れ込んできた。
「……アンタが新しい『総監様』か。シフォンから、面白いデバッグ(仕事)があるって聞いたんだが」
そこには、整えられていない無精髭に、眠そうな三白眼を湛えた男が立っていた。
高貴な編纂局の制服は見る影もなく着崩され、その上からボロボロのトレンチコートを羽織っている。
ヴィンセント・グレイ。
聖都の記述から弾かれた「悪意」を追うための、最初の駒が星奈の前に現れた。




