LOG_0052:23歳の夜
中層広場に面した老舗の酒場『黄金の林檎亭』は、爆発的な活気に包まれていた。 天井からは収穫を祝う麦の穂と、魔導灯を仕込んだ琥珀色のガラス細工が吊るされ、人々の談笑が地鳴りのように響いている。
「それにしても、凄い盛り上がりね。二年見てきたけれど、この街の人はこんなに元気だったかしら」
星奈は、運ばれてきたばかりの白ワインに口をつけ、目を細めた。
救世主ステラとして、あるいは編纂局の総監として見るエリュマントスは、常に「秩序の波形」としてのデータだった。
だが今、目の前に広がるのは、汗と酒の匂い、そして理屈ではない「生」のエネルギーだ。
「えー? すっかり私たちにとってはいつもの事だと思ってたけど、ステラちゃんはまだ慣れない?」
メイがジョッキを片手に首を傾げる。
彼女のテーブルの上には、既に空になった数本の瓶が転がっていた。
「あまり……その、元の世界でもイベント事というものを意識してこなかったから。祝祭という概念が、まだどこか客観的な事象として映ってしまうのね」
「まあ、そんな気はしていたけどね。あんた、放っておいたら年末も引きこもって数式解いてそうだし」
アネラスが愉快そうに笑いながら、厚切り肉のローストを口に運ぶ。
そんな会話を横目に、給仕係のように甲斐甲斐しく料理を並べているのはノアだ。
彼は酒こそ飲まないが、星奈が少しでもグラスを空ければ、絶妙なタイミングで次の飲み物を勧めてくる。
「ステラ様、次はこちらの果実酒を。度数は低いですが、香りがとても良いですよ」
「ありがとう、ノア」
ふと、星奈は手元のグラスを見つめ、思考を飛ばした。
(……二十三歳、か。現代の日本だったら、今頃は大学を卒業して新卒の社会人一年目。同僚や大学の友人と、こうして忘年会を楽しんでいたりしたのかしら)
あり得たかもしれない未来。
だが、今の自分には想像もつかない。
あちらの世界での自分は、いつも独りだった。
物理定数に囲まれ、他者との温度差に怯えていた。
「あ、ステラ様。また難しい顔してる」
リアナが心配そうに覗き込んでくる。二年前、あどけなかった少女騎士は、今や上級騎士として、星奈の心の機微を察するほどに成長していた。
「あ……ごめんなさい。少し考え事を」
「今日はそういうの禁止! 仕事も理屈も全部、そのグラスの中に沈めてきなさい!」
アネラスが強引に星奈のグラスに自分のそれをぶつける。
澄んだ音が響き、星奈の口元に自然と笑みがこぼれた。
酒が進むにつれ、話題は自然と周囲の近況へと移っていく。
執行官ハバルト・アイアンメイスが、先日ギルドから発令された『特定災害指定獣』の単独退治に成功し、次期副団長の有力候補としてカシムに名前を挙げられたこと。
あるいは、最近入ってきた新人騎士たちが、執行官候補のアネラスを見て「銀閃の女神様だ」と騒いでいるという笑い話。
「女神だなんて、笑わせないでよね。あの子たちの訓練、明日から三倍にしてやるわ」
「アネラスさん、それは八つ当たりですよぉ」
メイが酔っ払った手つきで、リアナの頬をつつく。
星奈もまた、アルコールの力か、あるいはこの場の空気に当てられたのか、いつになく饒舌になっていた。
「編纂局も大変なのよ? 局長が持ってくる案件、どれも物理法則を無視したようなエラーばっかりで。この前なんて、記録上は『存在しないはずの階層』の税収ログが紛れ込んでいたの……。ねえ、シフォンさんも見てるだけで手伝ってくれないし!」
普段の冷静な総監の姿はどこへやら、頬を赤らめて仕事の愚痴をこぼす星奈に、仲間たちは腹を抱えて笑った。
そんな彼女たちの姿を、ノアは一歩引いた場所から眩しそうに見守っている。
(ステラ様もすっかり、エリュマントスの一人の人間。こんなに楽しそうな姿を見られるなんて……。あの時、彼女の案内人になれて、本当に良かった)
星奈は心から笑っていた。
数式では証明できない、この世界の温かさ。
救世主としての責任も、真実への渇望も、今夜だけはこの喧騒の奥へと溶けていった。
賑やかな店内で、どれほどの時間が経っただろうか。
不意に、地響きのような重低音が街全体を揺らした。
談笑していた客たちが一斉に顔を上げ、窓の外を指差す。
「あ、始まったみたいよ!」
アネラスの声に促され、一行はグラスを置いて店から外へと飛び出した。
エリュマントスの夜空を彩ったのは、見たこともないほど巨大で、精緻な魔導の花火だった。
白亜の塔を背景に、極彩色の光が幾重にも重なり、火花が結晶のように砕けては消えていく。その数は、現代日本の隅田川をも凌駕するほどの圧倒的な密度だった。
「……綺麗」
星奈は思わず言葉を失い、その光景に見入っていた。
かつては「火薬の燃焼反応と発色剤のスペクトル」と《《つまらない思考》》でしか考えなかったであろう現象が、今はただ、胸を打つ純粋な感動として押し寄せてくる。
この街で二年間積み上げてきた時間が、彼女の感性を確実に変えていた。
「お、明けたわねぇ。ついにステラの降臨、三年目突入よ!」
「おめでとうございます、皆様」
アネラスが伸びをし、リアナが居住まいを正して礼儀正しく新年の挨拶をする。 しかし、その静謐な空気も束の間だった。
「よおぉし! てことで、新年一発目の酒を飲むわよぉ!」
豪語したのはメイだ。
いつの間にかジョッキを両手に抱え、既に臨戦態勢である。
「賛成です! 景気良く行きましょう!」
「あはは、あんたたち本当によく飲むわね」
リアナが拳を突き出し、アネラスが呆れながらも笑う。
その勢いのまま、星奈はメイにがっしりと腕を掴まれた。
「ちょっと、ステラちゃん? もちろん付き合ってくれるわよねぇ? まさか『救世主様』がお酒に弱いとか、そんな情けないことないわよねぇ~?」
完全に酔いが回っているメイが、ニヤニヤと笑いながら星奈の柔らかな頬をぐいーっと引っ張る。
「む、むぅ……メイ、離して。痛いわ」
「あら、逃げるの? 敵なしのデバッガー様でも、アルコールという名のバグには勝てないのかしら?」
煽るようなメイの言葉に、星奈の額にピキリと青筋が浮かんだ。
普段なら「論理的な挑発には乗らない」と一蹴するところだが、今の彼女は少し、いや、かなり「出来上がって」いた。
「……言わせておけば。いいわ、救世主を舐めないことね」
星奈はメイの手を振り払うと、凛とした足取り(実際には少しふらついている)でカウンターへと向かった。
「マスター、この店で一番度数の強い蒸留酒を。……いえ、それを四つ。あと、チェイサーはいりません!」
「ちょっ、ステラ様!?」
ノアが慌てて止めようとするが、星奈は「ノアは黙ってて!」と珍しく語気を強めて制した。
「エリュマントスの秩序を守る総監が、たかが数%の分子化合物に屈するはずがないでしょう? 全力で解析してあげるわ!」
「あはは! そう来なくっちゃ! さすがステラ総監!」
「行けー! ステラ様ー!」
運ばれてきた火のように熱い液体を、星奈は一気に煽る。
喉が焼けるような感覚。
だが、仲間たちの歓声と拍手が、心地よく脳を揺らした。
「よし! 次!」
「私たちも続けえー!!」
その横で、ノアだけが「やれやれ……」と天を仰ぎ、明日絶対に訪れるであろうステラの二日酔いに備えて、回復魔法の記述を脳内で整理し始めるのだった。
翌朝、星奈の意識を浮上させたのは、カーテンの隙間から差し込む無慈悲なまでの陽光と、脳髄を直接金槌で叩かれているような激しい頭痛だった。
「……う、あ……」
喉が、砂漠の砂を飲み込んだように乾ききっている。
星奈は重い体を引きずり出そうとして、自分の肌を撫でる空気の寒さにようやく気がついた。
寝台の傍らに、純白の騎士服は脱ぎ捨てられている。
今の自分は、薄い下着一枚のあられもない姿で、シーツの海に溺れるようにして眠っていたらしい。
かつての日本で、数理モデルの構築に没頭して徹夜した時でさえ、ここまで「人間」を放棄した姿にはならなかったはずだ。
「ステラ様、起きてください。もうお昼を回っていますよ」
聞き慣れた穏やかな声。
扉をノックして入ってきたノアは、ベッドの上で崩れ落ちている星奈の惨状を見ても、眉一つ動かさなかった。
「……ノア……頭が、割れる……」
「やっぱり、こうなると思いましたよ。あんな強い蒸留酒を四杯も、チェイサーなしで一気に煽るなんて」
ノアは「やれやれ」といった溜息を隠そうともせず、星奈の額にそっと手をかざした。
彼の掌から溢れ出す光は、ギルドの魔導士たちが使う「魔力を編む」術式とは根本的に異なる。
それは世界の記述そのものに干渉し、乱れた位相を強制的に整えるような、神聖で柔らかな熱だった。
「うう……痛い。ありがとう、ノア……助かるわ……」
「痛みは和らげますが、毒素が抜けるまでは気持ち悪さは消えませんからね。はい、お召し物を持ってきました。風邪を引いてしまいますよ」
ノアが差し出したギルドの制服を、星奈は震える手で受け取る。
治癒魔法のおかげで激痛は引いたものの、胃のあたりには依然として、鉛を流し込まれたような重苦しさと、奇妙な胃酸の逆流感が居座り続けている。
これが「二日酔い」という名の生物学的バグ。
実は、星奈がこの世界でアルコールに敗北したのは、これが初めてではなかった。
転属祝いでは、シフォンの「治癒の妙薬よ」という甘い言葉に騙されて度数四十超えの美酒を飲まされ、沈没した。
そして総監昇進祝いの夜。あれはもはや惨劇だった。
局長のイザベラと副団長カシムという、エリュマントスでも指折りの「酒豪」たちに囲まれ、緊張からペース配分を間違えた結果、最終的には自分がどのような数式で世界を記述したかさえ覚えていない。
シフォンに至っては、酔った星奈が「万有引力の法則がいかに美しいか」を熱弁する動画を魔導端末に記録していたはずだ。
「……ねえ、ノア。お酒が強くなる魔法とか、あるいは血中のアルコール濃度を瞬時に分解する試薬とか……この世界にはないのかしら」
フラフラと壁を伝いながら、なんとか袖を通した星奈が、縋るような視線を向ける。
「ステラ様。あるわけないでしょう? そんな都合の良いものがあれば、騎士団の訓練所は今頃酒場になっていますよ」
ノアの冷静なツッコミが、今の星奈には何よりの毒薬だった。
「せめて、肝臓の代謝機能を恒常的にブーストするパッチ(修正プログラム)があれば……。昨夜の私は、完全に判断を誤ったわ。メイの挑発という非論理的な変数に、感情というエラーで返答してしまった……あれ、私何言ってるのかな……ダメだ。気持ち悪い……」
「それを世間では『《《楽しかった》》』って言うんですよ。……ほら、お水です。ゆっくり飲んでください」
情けない声を出す二十三歳の「救世主」に、十代の「案内人」が甲斐甲斐しく水を飲ませる。
窓の外には、新しい一年の光が満ちていた。




