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LOG_0050:時間を頂戴

 工廠区の喧騒を離れ、自室に戻った星奈を待っていたのは静寂という名の重圧だった。


 机の上に置かれた、小さなチップ。

 レオンが「捨てた方がいい」とまで言ったそれは、ランプの淡い光を浴びて、無機質な輝きを放っている。


(捨てられるわけないでしょう。これが、この世界の『記述』の外側にあるものだとしたら……)


 星奈は椅子に深く腰掛け、大きく息を吐いた。

 理系女子大生としての彼女の理性が、「未知」を放置することを許さない。

 たとえそれが、この世界の神が『不必要』として切り捨てた残滓だとしても。


(解析——『神の眼』。……極限解析オーバークロック


 意識のスイッチを切り替える。


 視界が急速に情報の海へと沈んでいく。  

 通常、この世界の物質は整然とした「魔導回路」のログとして読み解ける。


 だが、このチップだけは違う。

 ノイズの断崖、記述の空白、そして物理法則を無視したデータの圧縮。


 星奈は、レオンが「破損している」と断じた箇所に、あえて自分の意識を深くダイブさせた。


 欠落したパズルを、彼女自身の演算能力で補完し、強引に「再生」を試みる。


(視える……。記述が、繋がっていく……!)


 その瞬間、砂嵐のようなノイズの奥底から、明瞭な「音」が脳裏に響いた。


『——聞こえるか。これを……拾った、後継者に……告ぐ』


 星奈の身体が、電流を流されたように強張る。  

 それは、この世界に存在するはずのない言語——「日本語」だった。  


 先代、アルトリウス・ヴァン・ブラッドレイ。伝説の聖騎士が遺した、真実の断片。


『この世界は、完成された楽園ではない。……エリュマントスは、ただの「■■■」に過ぎない。神が見せているのは「■■■■」の残影だ。救世主の役割とは——』


「……っ!?」


 核心に触れようとした瞬間、視界が真っ白に弾けた。


『神の眼』を通じて、脳髄に直接叩き込まれるような凄まじい衝撃。


 それは電撃というよりも、世界の理そのものが「侵入者」を排除しようとする、絶対的な拒絶の波動だった。


「あ、……あああああッ!!」


 あまりの激痛に、星奈は椅子から転げ落ち頭を抱えて蹲った。

 視界の端でエラーログが赤く点滅し、意識が遠のきかける。


「ステラ様!?」


 扉が勢いよく開き、ノアが飛び込んできた。


「ステラ様! しっかりしてください! 何があったのですか!?」


 ノアの必死な声が遠くで響く。

 星奈は荒い呼吸を繰り返しながら、震える手で机の上のチップを掴み取った。

 剥き出しの恐怖が、彼女の冷徹な理性を塗りつぶしていく。


「……大丈夫。なんでも、ないわ……」


 強引に言葉を絞り出し、星奈はノアの制止を振り払うようにしてチップを机の引き出しの奥深くに放り込んだ。


 鍵をかける指先が、まだ止まらない。


「本当に、大丈夫……少し、疲れただけ」


 顔を上げた星奈の瞳には、隠しきれない動揺が色が濃く残っていた。  


 ノアはそれ以上踏み込むことはせず、ただ膝をついたまま縋るような視線を彼女に向けていた。


 その穏やかな瞳の奥に、言葉にできないほどの深い懸念と、何かを察したような光を宿して。


 どれほどの時間が経っただろうか。

 脳を焼くような激痛がようやく落ち着き、星奈はふらつく足取りで部屋を出た。


 ノアの心配そうな視線を「大丈夫だから」と突き放してしまった罪悪感が、重い澱のように胸に溜まっている。


 火照った頭を冷やすために向かったのは、中層の外縁に位置する展望デッキだった。


 エリュマントス特有の「黄金の夕暮れ」が、白亜の街並みを美しく染め上げている。


 先ほど聞いた先代の言葉——『ただの残影』という不穏な響きが嘘のように、人々の営みは穏やかで、記述ログの波形も一定のリズムを刻んでいた。


「……何よ。幽霊でも見たような顔しちゃって」


 不意に背後からかけられた声に、星奈は肩を揺らした。  


 振り返ると、そこには腰に『銀閃』の剣を下げたアネラスが、呆れたように腕を組んで立っていた。


「アネラス。……任務帰り?」


「いや、これからよ。それよりあんた、顔色が最悪よ。理系女の限界ってやつ? 悪いこと言わないから、ちょっと身体動かしなさい。ちょうど今から、西門の外に湧いた『獣』の掃討に行くところなの。あんたも来なさい、救世主様」


「……ええ、そうね。少し、思考を止めたいわ」


 強引に腕を引かれ、星奈は転移ゲートへと向かう。


 西門の外、結晶化した大樹が並ぶ草原。

 現れたのは、レベル30前後のバグ混じりの獣数体。


 今の星奈とアネラスの敵ではない。

 アネラスが銀色の閃光となって獣を切り裂き、星奈はその隙を突いて『神の眼』で捉えた核を、正確に突き穿っていく。


「いいキレじゃない。さっきまでの死にそうな顔はどこへ行ったのかしら」


 最後の一体を仕留め、剣を納めながらアネラスが笑う。  

 その屈託のない笑顔を見つめながら、星奈の胸の奥で鋭い葛藤が渦巻いた。


(この世界が、もし先代の言う通り『ただの残影』だとしたら。……私が今直しているこの『記述』に、何の意味があるの?)


 システム上のエラーを修正し、この世界の平穏を維持するのが「救世主」の役割だ。


 だが、もし維持しているもの自体が偽物だとしたら。

 隣で「次はパフェでも食べて帰りましょう」と呑気に笑うアネラスの存在すら、書き換えられたデータの一部に過ぎないのではないか。


 そんな悍ましい疑念が、星奈の心を切り裂こうとする。


「……ねえ、アネラス」


「何? 改まって」


「あなたは、この世界が……明日、突然消えてしまうかもしれないって思ったら、どうする?」


 アネラスは一瞬、きょとんとした顔をしたが、すぐに鼻で笑った。


「何言ってるの。そんなこと考えたって、今日振るう剣の重さは変わらないわよ。あんたが救世主としてここにいて、私が騎士として隣にいる。私にはその『事実』だけで十分。それ以上の理屈が必要?」


 ——理屈、ではない。事実。今、ここに生きているという手触り。


(……そうね。私は観測者じゃない。この世界で生きる、一人の人間なんだわ)


 禁忌のチップに記された「真のシステム」への疑念。  

「救世主」として世界を正しく保たなければならないという義務感。  


 そして、アネラスのような大切な仲間を失いたくないという、極めて人間的な湿り気を帯びた感情。


 星奈は、白磁の籠手に包まれた自分の手をじっと見つめた。  

 答えはまだ出ない。

 けれど、あの真っ黒な引き出しの奥に隠した「真実」の断片と向き合い続ける覚悟だけは、この夕闇の中で静かに固まりつつあった。


「……行こう。パフェ、奢ってあげるわ」


「あら、珍しい! 気が変わらないうちに急ぐわよ!」


 駆け出すアネラスの背中を追いながら、星奈は胸の内でそっと呟いた。


 ——ごめんなさい。もう少しだけ、私に時間を頂戴。



>>Phase 1 Complete

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