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LOG_0046:ヴォイド

 すべての歪みの源流。たどり着いたその場所に、期待していたような「敵」はいなかった。そこにあったのは、巨大な「欠損」だ。


「……何よ、これ。冗談でしょう」


 星奈の口から、乾いた声が漏れた。

 眼前に広がるのは、直径十メートルはあろうかという巨大な「ヴォイド」。


 それは物質が存在しない空間というよりも、世界のキャンバスがそこだけ無慈悲に切り取られたような、絶対的な虚無だった。  


 穴の淵からは、煤のような黒いデジタルノイズが絶え間なく溢れ出し、周囲の鉄骨や蒸気を、音もなくその深淵へと吸い込んでいる。


「ステラ様、これ……計測不可能です! デバイスの演算がループして止まりません!」


 エレンの悲鳴に近い声。

 彼女の指は、激しく警告灯を点滅させる端末の上で凍りついている。

 数値化を旨とする編纂局のデバイスにとって、「定義そのものが存在しない領域」は処理の限界を超えていた。


「物理的な実体がないってのか……? ならば、これでどうだ」


 ジンが咄嗟に判断し、魔導銃の引き金を引いた。

 放たれた高密度の弾丸は、一直線にヴォイドへと吸い込まれていく。


 だが、着弾の衝撃音も、破壊の光光も生じない。

 弾丸はただ、座標を失ったかのように虚無の中へと消えていった。


 ジンの顔に驚愕の色が走る。


 その時、星奈は『神の眼』の出力を最大まで引き上げた。

 脳を焼くような情報負荷に耐えながら、視界を覆うノイズの波形を一枚ずつ剥ぎ取っていく。


「……待って。穴の淵……記述が残っているわ」


 星奈の眼には見えていた。

 ヴォイドの境界線上、黒い渦に呑み込まれかけながらも、激しく明滅し続ける不完全なデータの断片。


 それは、エリュマントスの住人として刻まれていた固有の識別符号。


「行方不明になった下層の住人たちよ……。みんな、あの中に囚われている。まだ完全に消失してはいないわ!」


「本当ですか!?  救い出せるのか、ステラ様!」


 カイが叫ぶ。

 だが、事態は対話を許さなかった。  

 ヴォイドの吸入力が、突如として指数関数的に増大したのだ。


「う、わあああっ!?」


 足元の巨大な鉄パイプがひしゃげ、一行の身体が前方へと強く引き寄せられる。


 テオが必死にアンカーを壁に叩き込み、全員をワイヤーで繋ぎ止めるが、その腕はミシミシと悲鳴を上げている。


(……この感覚。似ている)


 星奈の脳裏に、あの日の記憶がフラッシュバックした。

 現代日本の路地裏。見てはいけない「世界の断片」に触れ、物理法則を無視して消滅したあの瞬間。


 焦燥が、冷たい汗となって背中を伝う。


(ダメよ、如月星奈。落ち着きなさい……。解析して。この現象を感情で捉えちゃダメ。これは単なる、空間定義の『オーバーフロー』か、あるいは――)


 吸い込まれそうになる身体を聖剣で床に突き立て、星奈は必死に踏ん張った。  

 前世で培った「不変の法則」を信じる心と、この異世界を読み解く「救世主」としての眼。


 二つの視点を重ね合わせ、彼女は絶望的な欠損の中に攻略のための「変数」を見出そうと、その冷徹な瞳を一点に凝らした。


「私が活路を作る。……死ぬ気で付いてきて!」


 星奈は叫ぶと同時に、『神の眼』の出力を許容限界まで押し上げた。

 ただでさえ、吸引を耐えるべく剣を握る手にも出力を割いている。

 視界が白く爆ぜ、脳細胞が一つずつ焼き切れるような熱が頭蓋の中に充満する。


 こめかみを血管が激しく打ち、鼻の奥から鉄錆のような血の匂いがせり上がってきた。


 だが、意識の解像度は皮肉にも増していく。


(入力《吸い込み》エネルギーは正の無限大。なのに事象の地平(淵)の半径は十メートルで固定されている……。おかしいわ。質量保存の法則が死んでいるこの世界でも、この『均衡』には必ず計算式があるはず)


 見えた。ヴォイドの淵を高速で周回する、割り切れない循環小数のノイズ。  

 この空間を定義する数式が、解の出ない無限ループに陥っている。

 その「終わらない計算」の摩擦熱こそが、このヴォイドを維持するエネルギー源だ。


「テオ!  あの穴の周囲に、外向きの力を叩きつけて! あの淵の回転を、一瞬だけでいいから止めるの!」


「無茶を!  ……だが、やるしかないか!  下層の特注の予備資材、全基直列接続! 反転磁場、展開ッ!」


 テオが即興で組み上げた魔導円盤が、ヴォイドの吸い込みと逆方向の磁場を放射した。空間が軋み、凄まじい斥力が一行を押し戻す。


 その一瞬の空白を、星奈は見逃さない。


「エレン、リアナ!  理屈を説明する暇はない。あの淵で明滅している光を、死守して! それをこちらの現実に繋ぎ止めるの!」


「はい……っ!  記述固定、強行出力リセット!」


「『プロテクション』!  魂よ、ここに留まって!」


 エレンが端末を叩き、リアナが聖なる光で住人たちのログを包み込む。


 ヴォイドに呑まれかけていた光の断片が、かろうじて現実の側に踏みとどまる。


「ジン! カイ!  飛び散る破片を全部落として! 私をあの淵の『一点』まで通して!」


「……了解しました。一発も通さん」


「よ、よし! やってやる」


 ジンの放つ弾丸が、カイの振るう槍が、空間の収縮で加速し、星奈を狙う瓦礫を次々と粉砕していく。


 星奈は聖剣を正眼に構えた。

 標的は穴の中心ではない。

 円周上の、わずか一画素ピクセルにも満たない「計算の矛盾点」。


(ゼロで割るような、あり得ない数式……。ここで強制終了シャットダウンさせる!)


「計算を終わらせるわ。……この世界の解は、そこにはない!」


 星奈は地を蹴った。

 自らヴォイドの淵へと飛び込み、特異点へと聖剣を叩き込む。白銀の刃が循環小数の螺旋を物理的に断ち切った。


 ――瞬間、世界から音が消えた。


 ヴォイドが内側から裏返るように崩壊し、圧縮されていたエネルギーが光となって爆散する。


 次の瞬間、漆黒の深淵から無数の光の粒子が弾け飛んだ。


 それは「神の眼」にしか見えないログの断片ではなく、確かな実体を持った「人」の形となって、周囲の床へと投げ出される。


「……あ、あ……」

「ここは……?」


 床に転がったのは、行方不明になっていた下層の住民たちだった。 誰もが憔悴しきり、何が起きたのか分からぬ様子で呆然としている。

 だが、エレンが素早くデバイスでスキャンし、顔を上げた。


「ステラ様!  住民全員の生存を確認しました!  みんな無事です!」


「よかった……っ」


 リアナが安堵のあまり膝をつきながらも、急ぎ住民たちの元へ駆け寄って回復魔法を唱え始める。テオやカイもまた、衰弱した老人を抱き起こし、力強く頷いた。


 衝撃が収まり、星奈は一人、荒い呼吸を整えながら膝をついた。

 口角から一筋の血が伝う。脳の過熱オーバーヒートによる代償は小さくない。


 ヴォイドが消滅した跡には、もはや何もなかった。

 歪みも、ノイズも、重力の狂いも。

 ただの冷たい、静止した空間が残されている。


 だが、星奈の『眼』は、住民たちが排出された中心部にポツンと落ちている、あまりにも場違いな「モノ」を捉えていた。


「……これ、は?」


 星奈が震える指でそれを拾い上げる。

 それは、この世界にあるはずのない精密な緑色の基板――制御ユニット(チップ)だった。


 熱で焼き切れているが、その微細な回路のパターンは、現代日本で見たことのあるような電子技術を彷彿とさせる。


(人為的な、切り取り……?  誰かがこのデバイスで、故意に空間を消したの?)


 背筋に冷たいものが走る。

 もしこれが、かつての「救世主」や、この世界の根幹に関わる勢力の仕業だとしたら。


「ステラ様!  早く戻りましょう、皆を安全な場所へ!」


 ジンの呼びかけに、星奈はハッと我に返った。

 彼女は無意識のうちに、そのチップを手のひらの中に隠し、鎧の隙間に滑り込ませた。

 救われた住民たちの泣き声と、仲間たちの歓喜。

 その喧騒の中で、星奈だけが拭い去れない「世界の違和感」を握りしめていた。

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