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「――全員、その場から動かないで」
星奈の鋭い制止の声が、静寂を切り裂いた。
一行が足を踏み入れた「第零号廃棄路」の先――そこは、もはやエリュマントスという都市の定義すら怪しい、悪夢のような光景が広がっていた。
かつての工場の残骸だろうか。巨大な歯車が中空に固定され、折れ曲がった鉄骨が重力を無視して螺旋を描いている。
光の屈折は一定ではなく、数歩進むごとに視界が歪み、遠くにあるはずの壁が目前に迫り、床にあるはずの影が天井に伸びる。
「重力値、不規則。……光学的ノイズ、増大中」
星奈の『神の眼』は、視界の端で激しいエラーアラートを吐き出し続けていた。ここには「正しい座標」という概念が存在しない。
プログラムで言えば、メモリ上に確保されていない「NULL領域」に無理やりデータが書き込まれているような、破綻した世界。
「……嫌な空気だ。肺の奥が、油と鉄の錆びた匂いで焦げ付く」
ジン・カグラが魔導銃を構え、影の動き一つ見逃さない鋭い視線で周囲を掃射する。
下層を出発してから、休憩も食事も一度として取っていない。
だが、一行に疲労の色はなかった。
むしろ、生存本能を極限まで逆なでするこの異様な空気感が、彼らの神経を研ぎ澄ませていた。
不意に、歪んだ鉄骨の影から「それ」が現れた。
全身が溶けた鉛のような液体で構成され、顔のあるべき場所に幾何学的な「穴」が空いた獣。星奈は即座に解析を開始する。
【個体名:NULL・シェイプ】
【Level:28~33】
「数は十体。突出した個体はいないわ。――カイ、前衛を! リアナは座標を固定して撃ち抜いて!」
「了解っす!」
カイ・ハルフォードが跳躍した。
本来なら放物線を描くはずの跳躍が、空間の歪みによって横方向へとスライドする。
一瞬の戸惑いを見せた。
だが、彼はその「不自然さ」すら利用し、空中で身を捻って長槍を突き出した。
「散れッ!」
槍先が獣の一体を貫くと同時に、リアナが杖を高く掲げる。
「フォトン・ストライク! 歪みの向こう側へ……届け!」
彼女の放つ魔法の光は、空間の折れ曲がりに沿ってジグザグに進み、カイが弾き飛ばした敵を正確に蒸発させていく。
「ふむ、この領域の干渉波は……これならどうだ」
テオ・バニスターが腰のポーチから、銀色に輝く円盤状の道具を取り出した。
それはメイが使っていたものよりも洗練され、複雑な魔導回路が刻まれた特注品だ。
テオがスイッチを入れると、円盤からグリッド状の光が展開され、一時的に周囲数メートルの重力を「正常化」させる。
「ステラ様、今だ! 空間の座標を固定したぜ!」
「助かるわ、テオ。――ジン、左翼を片付けて!」
「……了解」
ジンの放つ魔導銃の弾丸が、テオが作った「安定領域」を通って最短距離で敵の核を貫く。
星奈は後方でデバイスを叩き続けるエレンの前に立ち、迫りくる影を新調した聖剣で一閃した。
(軽い……。それでいて、事象への干渉力が以前の比じゃない)
剣を振るうたび、白銀の軌跡がノイズを切り裂き、汚染された記述を強制終了させていく。
星奈は指示を飛ばしながら、同時に自身の『神の眼』を用いて「空間の再定義」を試みていた。
「エレン、手元のログを確認して。……私の『眼』には、この先の断絶点が四次元的なねじれを起こしているように見えるわ。通常のベクトルでは進めないはずよ」
「はい! ……ステラ様、おっしゃる通りです! デバイスの計算が追いつきません。座標『0,0,0』の定義が消失しています。この先は、データの底が抜けています……!」
エレンが青ざめた顔で報告する。彼女の持つ端末では数値化できない「虚無」がそこにあるのだ。
星奈は「神の眼」の出力の向上に集中する。
「……計算不能なら、物理的に橋を架けるまでよ。あそこに見える『浮遊している鉄骨』。あれはデータ上、まだこの階層の属性を維持しているわ。あの上を飛び移れば、向こう側の安定領域へ渡れる」
星奈は聖剣を構え、空中に浮く鉄骨の「繋ぎ目」に見える赤いノイズの塊を正確に斬りつけた。バグを切り捨てられた鉄骨が、物理法則を取り戻したようにその場に固定される。
「私の足場に続いて。座標がズレる前に、一気に駆け抜けるわよ」
星奈は魔法でも特殊能力でもなく、「世界の壊れ方を見極め、物理的に利用する」という方法で、混沌とした世界に道を作っていく。
リアナたちは、その無機質で合理的な判断の鮮やかさに、ただ息を呑むしかなかった。
これぞ「神の眼」がもたらす力であり、彼女が「救世主」たる所以だ。
「……すごい。魔法じゃないのに、道が繋がっていくなんて」
「感心している暇はないわ。……今の戦いで確信したわ。ここは単なる自然発生的なバグじゃない。意図的に『捨てられた』……あるいは『隔離された』何かが、この奥で呼吸している」
一行は、星奈が足場を固定しながら切り拓く「物理的な最短経路」を進む。
一歩、また一歩と深淵へ近づくにつれ、背後の景色は歪みの中に溶けて消え、もはや戻るべき道すら観測できなくなっていた。
「ステラ様、レオナール様との通信が……完全に途絶しました。本部とのリンク、消失。……私たちは、孤立しました」
エレンの震える声が、轟々とのたうつ蒸気の音に吸い込まれていく。
星奈は前方に広がる、巨大な「心臓」のように脈動する漆黒のゲートを見つめた。
「……構わないわ。通信が届かないなら、私たちがこの世界の最新の『記録』になればいいだけのことよ」
漆黒のゲートを潜り抜けた先、そこは物理法則が死に絶えた「記述の墓場」だった。
視界は絶えずノイズに蝕まれ、遠近感が消失している。
普通の人間なら平衡感覚を失い発狂しかねない光景だが、星奈は静かに瞼を閉じ、一度深く呼吸した。
(大丈夫。上層の時とは、経験値が違う。……私が冷静に見極めれば、どんな無秩序の中にも必ず定数は見つかる)
星奈は『神の眼』の解像度を安定させ、ゆっくりと目を開ける。
網膜に映る世界は、数多のエラーコードの奔流だ。
彼女はその中から、実体を持つ「物理オブジェクト」の輪郭だけを抽出していく。
「私が先導するわ。……テオ、あそこの湾曲しているパイプ群。あそこは空間の『重力勾配』が極端に急になっている。あなたが回路をバイパスさせて、構造的に安定させて。そうすれば道ができる」
「本領発揮だ。承知。空間ごと繋ぎ止めてやるぜ」
テオが魔導工具を振るい、剥き出しのパイプに特殊な固定ボルトを打ち込む。
彼が構造を補強するたび、グラついていた景色が星奈の予見通りに「実体」として固まっていく。
(下層用の資材を用意しておいてよかったぜ)
だが、異変を排除しようとするのは空間だけではなかった。
歪んだ闇から、再び『NULL・シェイプ』の群れが這い出してくる。
「散開! 救世主様には指一本触れさせん!」
ジンの号令が響く。
彼は星奈に意識を向けている獣の急所を、正確無比な狙撃で射抜いていく。
「カイ、右から来るぞ! 動きを止めろ!」
「わかってるっす! ――よっと!」
カイが槍を旋回させ、獣を弾き飛ばす。ジンの的確な援護射撃により、敵のヘイトは星奈から逸らされ、彼女は解析に専念することができた。
後方からはリアナの詠唱が響く。
「『プロテクション』! ……ステラ様、足元のノイズは私が浄化で抑え込みます!」
リアナの魔法が、星奈の周囲に「正常な空間」のバリアを張る。
仲間のバックアップを得て、星奈の思考速度はさらに加速した。
(この空間の歪み……周期的な正弦波を描いているわね。なら、次の空間の収縮が起きるタイミングは……3.14秒後。そこを起点にベクトルを計算すれば――)
星奈は現代日本で学んだ物理学と数学の知識を、この異世界の「記述」という変数に代入していく。
彼女にとって、この悪夢のような空間はもはや解くべき「難解な数式」でしかなかった。
「……見えたわ。このノイズの源流、そしてこの空間の最奥へのルート」
星奈は迷いなく、闇の中に架かった「計算上の安全圏」を駆け抜けた。
鉄骨を蹴り、次元の隙間を跳び越え、彼女の白磁の鎧が閃光となって深淵を切り裂いていく。
やがて、一行はたどり着いた。
すべての歪みが渦巻き、巨大な負のエネルギーが凝縮された場所。
そこには、これまで見てきたどの獣とも違う、あまりにも異質な「何か」が鎮座していた。




