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LOG_0035:シフォン・ルナ・パルフェタムール

 意識の浮上は、まるで深い粘性のある沼の底から、ゆっくりと水面へ向かって這い上がるような感覚だった。


 まどろみの境界で、星奈は自分の呼吸音を聞いていた。規則正しく、静かなリズム。だがその奥底には、あの立方体を砕いた瞬間に流れ込んできた「数百年前の記憶」の残滓が、黒い澱のように沈んでいるのを感じる。


(……ここは……)


 重い瞼を押し上げると、目に飛び込んできたのは見慣れた無機質な天井ではなかった。柔らかく拡散された魔導灯の光と、清潔なリネンの匂い。そして、わずかに漂う薬草と消毒液の混じった香り。


「……気が付いたようね。おはよう、ステラちゃん」


 聞き慣れた、少し茶化すような、けれど安堵の混じった声。 視線を動かせば、ベッドの右側にシフォンの姿があった。彼女の隣には、同じ『秩序の編纂局オーダー・レギュレーター』の制服を着た、見知らぬ男が立っている。


「ステラさん。……いえ、救世主殿。無理に動かないでください。まだ貴女の精神は安定しきっていません」


 男が穏やかな、しかし規律を感じさせる声で制した。


 彼はロベルト・ルナール。シフォンの所属する部署の班長ユニット・リーダーであり、エリュマントスにおける「精神医学」と「論理記述の整合」を心得ている。つまりシフォンの部下になる。


「……私、は……」 「上層での元凶消去後、貴女は意識を失いました。……報告によれば、ハバルト殿が貴女を抱え、文字通り片腕一本でこのギルド医務室まで運んできたそうですよ。彼は今、アネラス殿やメイ殿と共に、団長への正式な任務報告に向かっています」


 ロベルトは手元の魔導端末を操作しながら、星奈のバイタルを確認していく。


 星奈の網膜には、自身の視界の端で赤く点滅していた『精神汚染デバフ』の警告が、ロベルトの手によって徐々に青い正常値へと書き換えられていく様子が映っていた。


「外傷はほぼ完治していますが、問題は『心の摩耗』です。あの規模のエラーに直接干渉した反動は、肉体よりも精神に深く刻まれる。……今、私が施した修復で、最悪の危機は脱しました。もっともシフォンさんの力添えあってのことですが」


「……ありがとうございます、ロベルトさん。シフォンも」


 星奈が掠れた声で礼を言うと、シフォンはいつものように肩をすくめた。


「お礼なんていいわよ。貴女に倒れられたら、私たちの仕事が激増するんですもの。……さあ、ロベルト。これ以上の長居は患者の負担になりますわ。局長への報告書、まだ半分も終わっていないでしょう?」


「……手厳しいですね。では救世主殿、安静に。何かあればすぐに呼んでください」


 ロベルトは礼儀正しく一礼し、シフォンと共に部屋を後にした。去り際、シフォンが一度だけ振り返り、悪戯っぽく、しかし慈しむような視線を星奈に投げたのを、彼女は見逃さなかった。


 バタン、と静かに扉が閉まる。  

 部屋の中に、完全な静寂が訪れる——はずだった。


「……ステラ様」


 ベッドの左側。そこには、最初からずっとそこにいたかのように、気配を消して座り込んでいた少年がいた。


 ノア。 彼は組んだ膝の上に手を置き、祈るような、あるいは何かを深く観察するような、言いようのない表情で星奈を見つめていた。その瞳は、心配に揺れているようにも、それともただ「救世主」という現象の再起動を待っていただけのようにも見えた。


 医務室に二人きり。シフォンたちが去った後の医務室は、シーツのこすれる音さえ響くほど静まり返っていた。 星奈は体を起こそうとしたが、鉛のような倦怠感に阻まれ、再び枕に沈んだ。白く無機質な天井を見つめていると、網膜の裏側にあの禍々しい光景が蘇る。


(……あの景色。あれは一体、何だったの?)


 黒い立方体を砕いた瞬間に流れ込んできた、数百年前の断片。自分と同じ、日本人の姿をした「聖騎士長」の栄光と、その後の不穏な気配。 冷静に考えれば、数百年という年月が経っているのだ。普通の人間なら、とうの昔に寿命でこの世を去っているはず。あの記憶は、ただの古いログの残骸に過ぎない——。


(そう、何も難しく考える必要はない。あれは「記録の集合体」が引き起こした一時的なバグ。あの異形騎士だって、過去のデータが実体化しただけかもしれない)


 自分に言い聞かせようとするが、胸の奥のざわつきは収まらない。あの真っ黒に塗りつぶされた記述の奥底、ノイズに混じって確かに視認した「日本語」と「英語」のコード。あれが、単なる偶然の産物だとは思えなかった。


(……だめね。私一人がここで思考を巡らせても、答えは出ない。この世界の人間は誰も、あの記述の意味を理解できないのだから)


 星奈はふと、隣でじっと自分を見つめているノアに視線を向けた。 神の案内人である彼なら、何かを知っているのではないか。 星奈は迷いを断ち切るように、意識の奥で『鑑定・解析(神の眼)』のスイッチを静かにスライドさせた。


(最低ね、私は……。疑うような真似をして)


 相手が嘘を吐けば、ログの整合性が崩れるはずだ。自分の心の醜さを自覚しながらも、星奈はあえて無機質なトーンで問いかけた。


「……ねえ、ノア。少し聞いてもいい?」 「はい、ステラ様。僕に答えられることなら、何でも」 「……この世界に、かつて私以外にも『救世主』……あるいは『聖騎士』と呼ばれた人がいたという話、聞いたことはある?」


 ノアは少しだけ意外そうに目を見開いたが、すぐにいつもの穏やかな表情に戻り、ゆっくりと頷いた。


「はい。ステラ様が降臨される遥か昔……それこそ数百年も前に、神のお告げによって異空より『聖騎士』様が降り立ったという伝承はあります。当時の人々は、今のステラ様と同じように、その方を救世主として崇めたそうです」 「……その人は、その後どうなったの?」


 星奈の視界に、ノアの発言内容と世界の整合性を示すログが走る。  

 ノアは困ったように眉を下げた。


「それが……正確なところは分からないのです。歴史書によって記述がバラバラで。『エリュマントスの平和のために名誉ある戦死を遂げた』と記すものもあれば、『病で倒れた』、あるいは『使命を終えてどこかへ旅立った』とする伝承もあります。どれも憶測の域を出ない、古い神話のようなお話です」


 網膜に映るログは、正常な青色のままだった。 彼は嘘を吐いていない。少なくとも、彼が知っている知識の範囲においては真実だ。


「……そう。変なこと聞いて、ごめんなさい」 星奈は、自分の中の猜疑心がノアを傷つけたような気がして、申し訳なさに胸が痛んだ。 彼女はベッドから細い手を伸ばし、少年の柔らかい亜麻色の髪をそっと撫でた。


「ありがとう、ノア。……疑ったわけじゃないのよ。ただ、少し不安だっただけ」 「ステラ様……。無理もありません。あんな恐ろしい『バグ』に触れたのですから。今はただ、お休みになってください」


 ノアは嬉しそうに目を細め、甘えるように星奈の手のひらに頭を預けた。


 ふと、星奈の視界の端でシステムメッセージが更新された。


【個体名:ステラ・エーデルワイス(如月星奈)】 【Level:24 → 27】


「……上がってる」レベル27。  

 それは、上層での死闘によって得られた純粋な「経験値」の結果なのだろうか。それとも、この世界の真理の断片——見てはいけないはずの「裏側」に触れてしまったことに対する、一種のアウェアネス報酬なのだろうか。


 今の星奈には、そのどちらであるかを知る術はなかった。ただ、自分の力が増すたびに、この美しきエリュマントスの空の下に潜む「何か」が、確実に彼女の存在を捉え始めていることだけは、直感的に理解していた。

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