LOG_0034:聖騎士長
異形が消滅した跡地。そこには、静寂だけが降り積もっていた。
先ほどまでの激闘が嘘のように凪いだ空間のただ中に、それは浮いていた。
一辺が五十センチメートルほどだろうか。
完璧な正立方体を形作った「それ」は、光を反射することなく、周囲の色彩を吸い込むような深い闇を湛えている。
「……何よ、これ。ただの魔石には見えないけど」
アネラスが剣を構えたまま、警戒を解かずに呟く。
メイもまた、愛用の工具を握りしめたまま、困惑したように立方体を見つめた。
「魔力反応はある……けど、何て言えばいいのかな。波形がぐちゃぐちゃなの。まるで、壊れたオルゴールが鳴り続けているみたいな不快なノイズ……」
二人の目には、それは「禍々しい文字、あるいは未知の魔術記述がびっしりと書き込まれた呪物」のように映っていた。立方体の表面をミミズが這うような蠢く線が埋め尽くしている。
「シフォンさん、データは?」
星奈の問いに、シフォンは手元のデバイスを操作しながら、冷や汗を拭った。
「採取中よ。先ほどの異形騎士の戦闘記録、そしてこの空間の歪み、この立方体の干渉指数……。言えるのは一つだけ。この上層で起きている全ての『バグ』の、ここが元凶であることは間違いなさそうね」
星奈は仲間たちの声を背に、一歩、また一歩とその「黒」へと近づいていく。
近づくにつれ、空気の粘度が上がる。皮膚を刺すような悪寒。この立方体は、守られていたのではない。おそらく異形騎士という「器」を使って、この世界を浸食しようとしていた「実体」そのものだ。
星奈はじっと立方体を見つめ、意識のギアを一段引き上げた。
(『神の眼』、出力を最大へ——)
視界が白濁し、世界が論理記述の層へと分解される。
アネラスやメイが見ていた「魔術的な文字」の正体が、星奈の網膜の上で、冷徹な真実へと翻訳されていく。
「……っ!?」
星奈は、息をすることさえ忘れた。それは魔術でも、この世界の古代文字でもなかった。黒く埋め尽くされた記述の狭間、重なり合い、潰れかかった文字の断片。そこに見えたのは、見慣れた、あまりにも見慣れた記号。
「Object……Memory_Alloc…… RuntimeError……」
英語、そして数字。この世界では「聖典の記述」として神秘化されているはずのコード。だが、そのさらに奥。暗黒のノイズに塗り潰される直前の、末端のログに刻まれていたのは——。
『システム再起動(Reboot)を確認。……如月……』
(……日本語……!?)
脳を直接殴られたような衝撃が星奈を襲う。なぜ。どうして。この世界に転生してきた「イレギュラー」は、自分一人だけのはずだ。この宇宙に、もはや自分の居場所はないと告げられたはずだ。だとしたら、なぜ前の世界の——日本のコードが、こんな歪んだ形でこの世界に存在している?
(私以外に、誰かがいるの? それとも、これは『神』の仕業? ……それとも、この世界そのものが……)
その時。記憶の底から、ある男の豪快な声が蘇った。ギルド本部の地下、水晶が粉々に砕け散ったあの時。副団長カシムが漏らした、冗談ともつかない呟き。
『「導きの水晶」がパンクするなんて、数百年前に聖騎士長が降臨して以来だぞ……』
——聖騎士長。もし、その人物も自分と同じように「あちら側」から来た存在だったとしたら? そして、その人物が残した「残骸」が、このバグの正体だとしたら?
「ステラ!? 顔色が悪いわよ、下がりなさい!」
アネラスの鋭い声で、星奈は我に返った。思考が迷路に嵌まりかけていた。今は、考察に耽っている場合ではない。目の前の「これ」を止めなければ、自分たちも、そしてこの都市も、この黒いエラーに飲み込まれて消える。
「……いいえ、大丈夫。考えすぎね」
星奈は、自分自身に言い聞かせるように呟いた。震える指先を強く握り込み、白磁の籠手に気合を込める酷使し続けた脳細胞が、過熱して悲鳴を上げている。視界の端には、自身の精神汚染を示す警告が点滅していたが、彼女はそれを強引に非表示へとフリックした。
「元凶を叩く。……物理的に、そして論理的に」
星奈は構えた剣を、天高く掲げる。その刃には、彼女の演算から導き出された「消去命令」の光が、青白く宿っていた。
「上書きして消す。……跡形もなく!!」
叫びと共に、星奈は渾身の力で、その黒い立方体の中心へと剣を振り下ろした。
星奈の剣が黒い立方体の核を貫いた瞬間、世界から音が消えた。
直後、パキィィィィィィン! と、空間そのものが割れるような硬質な音が響き渡る。禍々しさを放っていた黒い物体は、耐えきれなくなったガラス細工のように、無数の光る破片となって離散していった。
それは凄まじい浄化の波動だった。立方体が消滅すると同時に、粘りついていたエラーの霧が晴れ、上層の街並みは呪縛から解き放たれたように本来の白亜の輝きを取り戻していく。
徘徊していた異形の獣たちも、戦う意志を失ったように次々と霧散していった。驚くべきことに、霧散した「獣」の一部は消えることなく、光の粒子に包まれながら、元の「上層の住民」の姿へと再構成されていく。
システムによって書き換えられていた存在記述が、本来の形へと修復されたのだ。
「……終わった、のね」
アネラスが剣を収め、眩しそうに空を仰いだ。シフォンやメイ、そして重傷を負いながらも立ち上がったハバルトも任務の達成を、そして世界が正常に戻ったことを確信していた。
はるか階下、ギルド「聖典の守護者」の本部。
上層の異変が沈静化していく様子を、窓際からじっと見つめる影があった。騎士団長、ジークフリートである。その隣に立つ副団長カシムが、安堵の溜息とともに口を開いた。
「やってくれましたな、救世主殿は。……まさに神業だ」 「ああ……。本当に、よくやった」
ジークフリートの声には、単なる指揮官としての称賛以上の、重い響きが含まれていた。
そして、そこからさらに離れた影の中。少年ノアが、一人佇んでいた。彼は仲間たちの勝利に歓喜することもなく、ただ無表情に、冷徹な観測者の瞳で、星奈たちのいる空を見つめ続けていた。
だが——。 歓喜に沸く仲間たちの中で、星奈一人だけは、全く別の次元にいた。
(……え……?)
立方体を砕いた刹那。『神の眼』が捉えたのは、爆散するデータログの断片が、彼女の意識に直接流れ込んでくる「強制的な記憶転送」だった。
目にも止まらない速さで、脳裏に光景が流れる。それは今のエリュマントスとは微妙に異なる、数百年前の景色。ギルドの広場にある「導きの水晶」に手をかける一人の青年。黒い髪、黒い瞳。間違いない、自分と同じ——日本人だ。
『お告げの通りだ……聖騎士様が降臨されたぞ!』
当時の副団長らしき人物が、涙を流して歓喜する。青年はやがて聖騎士として名声を上げ、この国の英雄となり、騎士団を統べる「聖騎士長」として崇められていく。その傍らには、常に影のような姿をした少年、あるいは少女のような何かが付き添っていた。
そして最後に見えたのは、彼が十数人の精鋭騎士を率いて、任務のために当時の「上層」へと赴く後ろ姿。そこで——景色はぷつりと、ノイズと共に途切れた。
(日本人……聖騎士長…?…。あの光景は、何? まるで、あの時の私と、同じ……)
心臓が早鐘を打つ。
冷たい汗が背中を伝った。
もし、あの聖騎士長も自分と同じ「転生者」だったとしたら。そして、あの禍々しいバグの塊が、彼の末路(なれの果て)だとしたら——。
「……ぁ……」 動悸が止まらない。酸素がうまく取り込めない。 周囲で「やったわね」「ステラちゃん、すごいよ!」とはしゃぐメイの声が、遠い水底の音のように聞こえる。
「……大丈夫? ステラ。顔色が真っ青よ」
異変に気づいたアネラスが、慌てて星奈の肩を抱いた。 その温もりさえ、今の星奈には現実味を欠いていた。
(……私は……、何に、させられようとして……)
思考が真っ白に塗りつぶされる。
星奈の細い身体から力が抜け、そのまま崩れ落ちるように意識は深い闇へと沈んでいった。




