LOG_0032:Hero_Protocol
第28階層のセーフティーエリアを後にし、一行は29階層へと続く螺旋階段を上っていた。
一段上るごとに、空気が変質していく。
それは魔力の高まりというよりも、もっと生理的な嫌悪感を伴う「歪み」だった。
「……くっ、耳鳴りが酷いな」
先頭を行くハバルトが、不快そうに顔を歪めた。
金属の擦れる音が、本来の響きから微妙に外れた高周波を帯びて反響している。
アネラスもまた、自身の愛剣の重さを何度も確かめるように柄を握り直していた。
「階段の勾配は変わっていないはずなのに、一歩ごとに足にかかる重力がバラバラだわ。ステラ、この先はどうなっているの?」
星奈は答えなかった。
正確には、答えられなかった。
彼女の『神の眼』が捉えている光景は、もはや言語化できる範疇を超え始めていたからだ。
「……視覚情報の演算が追いつかない。みんな、足元に気をつけて。そこにある『床』の記述が、さっきから数ミリ単位でブレ続けている」
ようやく辿り着いた第29階層の巨大な扉。
かつては精緻な彫刻が施されていたであろうその門は、今や見る影もなかった。
彫られた天使の翼は引き千切れたように空間に固定され、扉の表面は熱に浮かされたように不規則に波打っている。
ハバルトが盾を構え、重厚な扉を押し開けた。
「——っ!?」
広がる光景に、全員が息を呑んだ。
そこは、これまで見てきた白亜の聖域の成れの果てだった。
回廊の壁は垂直を保てず、ある場所では鋭角に折れ曲がり、ある場所では鏡のように透けて向こう側の闇を映し出している。
天井から吊るされていたはずの魔導灯は、コードを無視して虚空に静止し、床からは意味を成さない文字の破片のような石造物が、タケノコのように突き出していた。
「なんだ、この場所は。空気が、肌を刺すように不快だ……」
ハバルトの声が、不自然なエコーを伴って響く。
魔導師であるシフォンは、手にした観測計の針が狂ったように回転しているのを見て、唇を噛んだ。
「私の魔導観測計が振り切れているわ。……これ、魔力の密度じゃない。もっと、根源的な何かが……そう、世界の理そのものが、断末魔の叫びを上げているみたい……」
星奈の視界は、さらに深刻だった。
視界の端から端まで、警告を示す赤い文字列が滝のように流れ落ち、網膜を焼き切らんばかりに明滅している。
$ Error: Object reference not set to an instance of an object. $ Critical: System.StackOverflowException in 'Hero_Protocol_v0.4' $ Warning: Memory Leak detected. Active process: [Unknown_Entity_01]
(……何、これ。今までのバグとは質が違う)
星奈はこめかみに走る鋭い痛みを感じながら、流れるログを強引にフィルタリングしていく。
これまでの「獣」や「地形のバグ」は、まだシステムの許容範囲内でのエラーだった。
だが、この29階層を支配しているのは、もっと暴力的で、破滅的な「崩壊」だ。
まるで、無理やり整合性を無視して拡張され続けた巨大なプログラムが、割り当てられたメモリを使い果たし、自分自身を形作るコードさえも食い破って肥大化しているような——。
(この世界の基底言語が、私の知るオブジェクト指向の記述に近い。それは分かっていた。でも、この『Hero_Protocol』って何? 誰が、何のために、こんな不安定な上書きを……)
その時、空間の裂け目に一瞬、ノイズに混じって異質な文字列が浮かび上がった。
それは、この世界の聖典文字でも、論理的なエラーコードでもない。
// 助けて 帰りたい もう 出力が 止まらない
日本語。
彼女がかつて生きていた世界で、唯一馴染みのあった言語。
ソースコードの片隅に、プログラマが絶望を吐き出すように残したコメントアウト。
しかし、今の星奈にそれを読み解く心の余裕はなかった。
次々と背後から押し寄せる「スタックオーバーフロー」の警告と、眼前の空間が崩落する物理的な脅威。
彼女の演算リソースの9割は、今この瞬間、自分たちの足元の「存在」を確定させ、虚無へ落下するのを防ぐためのデバッグに割かれていた。
「ステラ、来るわよ!」
アネラスの鋭い叫びが、思考の海に沈んでいた星奈を現実へと引き戻した。
回廊の奥、空間が最も激しく「ズレ」ている場所から、それは現れた。
一見すれば、それは巨大な鎧の騎士に見えたかもしれない。
だが、その輪郭は常にボケており、残像が幾重にも重なって見える。
鎧の隙間からは、肉体ではなく、ドロドロとした黒い液体のような「エラーの澱み」が溢れ出し、周囲の壁や床を接触するそばから消滅させていく。
「解析……っ!」
星奈が『神の眼』を限界まで見開く。
しかし、返ってきた結果は、彼女の予測を裏切るものだった。
【対象:非正規プロセス(異形騎士)】
【Level:???】
【Status:Active / Resource Leaking】
【攻撃力:測定不能】
【耐久値:測定不能(領域未定義)】
「……嘘でしょ」
星奈の頬を、冷たい汗が伝う。
数値化できない。
それはつまり、この世界の「ルール」で測れる存在ではないということだ。
「みんな、下がって! そいつには近づかないで!」
星奈の警告と同時に、異形がその右腕を振り上げた。
そこには剣も斧もない。
ただ、空間そのものを無理やり引き伸ばしたような「鋭いバグの塊」が握られていた。
「させるかあッ!」
ハバルトが咆哮と共に前に出る。
騎士団の誇り、そして「守護聖将」としての意地。 彼が大盾を構え、その異形の巨躯を真正面から受け止めようとした。
だが——。
金属と、何かが「バグる」音が重なり合う。
ハバルトの頑強な盾が、異形の攻撃に触れた瞬間、テクスチャが剥がれ落ちるようにその色彩を失った。
そして、透明なグリッド線だけを残して、ハバルトの腕ごと「透過」し始めたのだ。
「なっ……盾が、消える……!?」
「ハバルトさん!!」
星奈の絶叫が、ノイズまみれの回廊に響き渡った。 論理が軋み、現実が崩壊していく。
ここから先は、もはや「異世界」ですらなかった。
それは、誰かの「美しき夢」が、醜悪な悪夢へと反転したゴミ溜め——。
「……ぐ、あああああッ!」
ハバルトの咆哮が、ノイズの混じった空間に空虚に響いた。
彼が命よりも大切に扱ってきた、エリュマントス騎士団の誇りである大盾。
それが、異形騎士の振り下ろした「バグの塊」に触れた瞬間、まるで水面に投げ込まれた石のように、輪郭がドロリと歪んだ。
「盾が……透過している? バカな、我が守護の理が機能していないというのか!」
ハバルトにとって、それは世界の崩壊に等しかった。
長年の鍛錬と信仰によって積み上げてきた「守る」という概念が、目の前の怪物には一切通用しない。盾を素通りした衝撃波が直接ハバルトの肉体を叩き、守護聖将の巨躯が、木の葉のように後方の壁へと叩きつけられる。
「ハバルト先輩! ……このっ、化け物がぁ!」
アネラスが銀閃の剣を抜き放ち、目にも止らぬ速さで異形の背後に回り込んだ。
彼女が積み上げてきた「不撓」の剣技。
しかし、その必殺の一撃が異形の首筋を捉える直前、信じがたい事象が起きた。
「え……?」
アネラスの剣先が、異形の皮膚に触れる寸前で「消えた」。
次の瞬間、彼女の剣は異形の背後ではなく、数メートル離れた虚空から突き出していた。
座標移動。空間の記述そのものがねじ曲がっているため、物理的な距離や方向が意味をなしていないのだ。
(ダメだ……アネラスもハバルトさんも、この世界のルールで戦いすぎている)
星奈の『神の眼』には、残酷な対比が映っていた。 アネラスの傍らには【Level: 38】、ハバルトには【Level: 46】。
彼らは間違いなくこの世界でも中堅〜強い部類に入るだろう。
だが、眼前の異形騎士の頭上には、レベルという概念さえ喪失した【Error: Level Undefined】という無機質な文字列が踊っている。
計算が合わない。
土俵が違う。
この絶望を「数値」として理解できているのは、この場に星奈一人しかいない。
「あはっ……! 素晴らしいわ、これよ、これこそが私が求めていた『未知』!」
そんな異常事態の中で、シフォンだけが狂気的な笑みを浮かべていた。
彼女は自身の魔導観測計の針が折れんばかりに回転するのを、恍惚とした表情で見つめている。
「見て、救世主様! この個体、存在自体がシステムの『オーバーフロー』を起こしているわ! 存在確率が確定していないのよ。素敵……世界が、理が壊れていく音が聞こえるわ!」
シフォンの狂乱を無視し、星奈はあえて感情を完全に遮断した。
恐怖も、仲間の安否に対する焦燥も、すべては演算のノイズでしかない。
彼女は脳内のリソースを100%、目の前の事象の「デバッグ」へと注ぎ込む。
(物理攻撃が透過し、座標がズレる……。これは、この個体がこの階層の『物理エンジン』から切り離されているから。独自のプロトコルで動いている、制御不能の外部プロセス……)
その時、異形騎士が再び咆哮を上げた。
「オオオオオオオ……」という地響きのような音。
だが、思考を極限まで加速させていた星奈の耳には、それが別の「音」としてフィルタリングされて届いた。
『……ォ……して……だ……し……て……』
(……え?)
それは、数多のノイズを重ね合わせた多重録音のような、不気味な重奏。
しかし、その基底にある音節は、この世界の言語ではない。
星奈の記憶の深層にある、母国語——。
(今、日本語?……なんて言ったの?)
その「異質な意思」を感じ取った瞬間、星奈の背筋に冷たい震えが走った。
「……ステラ殿、危ない!」
ハバルトの叫びが響く。
異形騎士が、その崩れゆく右腕を、今度は星奈に向けて振り上げた。
座標は既に固定されている。
だが、星奈の瞳には、先ほどまでの困惑はなかった。
ただ一点。
そのノイズまみれの巨躯の中心で、激しく明滅する「記述の核」を捉えていた。
(……理屈は分かったわ。これ、生物じゃない)
星奈は白磁の籠手を固く握りしめる。
「アネラス、ハバルトさん! 私が座標を一時的に固定する。……一撃だけ、貴方たちの攻撃が届く隙を作るわ!」
救世主の声が、崩壊しかけた29階層に、冷徹な一筋の光として響き渡った




