LOG_0031:騎士道
『指揮者』が霧散した後の広間には、耳の奥にこびりつくようなキーンという静寂だけが残っていた。
一行は這いずるようにして28階層の奥にある光の扉を抜け、29階層直前の中継広場――「セーフティーエリア」へと滑り込んだ。
そこは、これまでの歪んだ回廊とは一線を画す、清浄な空気に満ちた空間だった。
壁面には「バグ」の侵入を拒絶する古い聖刻印が整然と刻まれ、淡い琥珀色の光を放っている。
赤黒いノイズも、空間のねじれもここには届かない。
「……セーフ、ね」
星奈は無機質な石のベンチに身体を預けた。緊張の糸が切れた途端、右腕の火傷が脈動するように熱を持ち、鉛のような疲労が全身を支配する。
彼女は習慣的に『神の眼』を起動し、自身のバイタルログを展開した。
【個体名:ステラ(如月星奈)】
【Level:24(↑7)】
(……レベル24。17から一気に7つも上がった。獣たちや『竜』そしてあの『指揮者』との戦闘演算が、システムにこれほどの経験値として処理されたということかしら)
視線を横にずらし、仲間の数値もスキャンする。
アネラスは34から38。
メイは20から26。
ハバルトは45から46。
シフォンは40から42。
死線を越えるたび、この世界の住人たちもまた、その「記述」を強固なものに書き換えていく。
特にメイの上昇幅が大きいのは、キャリブレーターを通じた星奈との同調が影響しているのかもしれない。
「ステラちゃん、あまり周りばかり眺めていないで。今はこっちの『現実』を優先しなさいな」
シフォンが、手際よく星奈の右腕の包帯を解いた。
先ほど施した応急処置の上から、さらに高密度の魔導軟膏を塗り込んでいく。
ひんやりとした感覚が熱を奪い、痛みが引いていく。
シフォンの指先は驚くほど繊細で、その動きには一切の無駄がない。
だが、至近距離で見つめる彼女の瞳には、単なる仲間への労りや救世主への敬意とは異なる、熱を帯びた「執着」の色が混じっていた。
「……私の右腕に、何か異常でもある?」
星奈が問いかけると、シフォンは「いいえ」とだけ答え、妖艶に微笑んだ。
「ただ……貴女という存在が、あまりに美しく壊れていくのを見るのが、楽しくて仕方ないだけよ。けど壊れちゃダメ……さあ、終わり。次は食事ね」
情緒のかけらもないやり取りのあと、メイが重い足取りで全員に食料を配り始めた。
配られたのは、ノアが星奈に言われて買い込んでいた味気ないグレーの「携帯用乾燥肉」と、石のように硬い「硬質ビスケット」。
そして、魔力回復剤が混入された独特の苦味がある水だ。
ハバルトが作ってくれた温かいスープのような「料理」という概念はそこにはない。ただ生存を維持するための、純粋なエネルギーの摂取。
ガリッ、とビスケットを噛み砕く無機質な音だけが、静かな広場に響く。
星奈はビスケットを口に運びながら、その成分を分析していた。
(高密度の炭水化物と、防腐用の塩分……。味覚を刺激するグルタミン酸は最小限。効率的ではあるけれど、脳の幸福中枢を刺激するにはあまりに不足しているわね)
そんなドライな思考を巡らせていた星奈だったが、ふと、隣で小さく肩を震わせているメイが目に入った。
メイの持つビスケットは、恐怖による手の震えでカチカチと小さな音を立てていた。
「……怖かったわね」
星奈が短く、温度の低い言葉を投げかける。
メイはびくっとして顔を上げた。その瞳にはまだ涙が溜まっている。
「……うん。すっごく、怖かった。ステラちゃんが、あんな……機械みたいになっちゃうし、みんなが変な声に飲み込まれそうになるし……。私、もうダメかと思った」
メイは泣き笑いのような、複雑な表情で頷いた。
星奈の、人間離れした異質さに恐怖を感じながらも、その異質さによって命を救われたという事実を、彼女なりに懸命に消化しようとしている。
「……本当は、私の方がお姉さんなのに……」
メイがぽつりと呟いた。実年齢では星奈よりもわずかに年上であるはずのメイだが、今は守られる子供のように小さく見えた。
星奈はその呟きを聞き流し、再び硬いビスケットを咀嚼した。
理屈では説明できない「感情の揺らぎ」が、このセーフティーエリアの静寂の中で、確実にパーティーの密度を変えていた。
静寂を破るように、重厚な金属音が響いた。
「……ふぅッ」
ハバルトが、その石のように頑強な兜を脱ぎ、ベンチの横に置いた。
剥き出しになった整った美青年の彼の顔には、今までの戦闘の傷や疲労感が隠せていない。
だがその眼差しには、28階層で見せた取り乱した姿への「恥」と、深い自省の色が宿っていた。
「ステラ殿」
ハバルトの声は、低く、重い地響きのように広場に響いた。
彼は持っていたビスケットを一旦置き、星奈の方へ向き直ると、その巨体を折るようにして深く頭を下げた。
「すまない。騎士として、そしてこの隊の先達として……あまりにも不甲斐ない姿を晒した」
星奈は咀嚼を止め、無機質な瞳で彼を見つめた。
「謝罪の必要はありません。ハバルトさん。あれは人為的な魔導干渉によって、脳内の偏桃体が過剰に刺激された結果。生物学的な防衛反応を、個人の意志で制御するのは効率的ではないですから」
「……理屈ではそうかもしれん。だが、俺は救世主である君に背中を預けられていながら、過去の亡霊に怯え、あろうことか守るべきお前に救われた。……これは、エリュマントスの騎士として、騎士団で守護聖将を賜っていながら最大の汚点だ」
ハバルトは顔を上げ、自嘲気味に笑った。
しかし、その瞳の奥にある光までは死んでいない。彼は横に置いた大盾を引き寄せ、傷ついた表面を愛おしむように撫でた。
「お前の戦い方は、俺たちの知る『騎士』とはあまりにかけ離れている。冷たく、鋭く、まるで血の通わぬ機械のようだ。だが……」
ハバルトは一度言葉を切り、力強く立ち上がった。
その背中は、この五人の中で誰よりも大きく、そして凛々しい。
「君のその冷徹な論理がなければ、俺たちは今頃、あの呪われた旋律の一部になっていた。ステラ殿。俺はお前のその『異質さ』を、今は誇らしく思う。そして、恐ろしくも思う」
彼は再び兜を手に取り、ゆっくりと被り直した。
カチリ、と金属が噛み合う音が、彼の決意を象徴するように響く。
「君が論理で世界を救うというのなら、俺はその論理が壊れぬよう、この命を賭して盾となろう。次こそは、お前の『心』に塵一つ通させん。任務を成功させよう」
騎士としての誇りを取り戻したハバルトの言葉には、揺るぎない重みがあった。
感情を排除して最適解を導き出す星奈にとって、彼の「命を賭す」という非論理的な誓いは、計算式には含まれない未知の変数だった。
「……はい、成功させましょう。絶対に」
星奈は視線を逸らし、残りのビスケットを口に放り込んだ。
冷淡な返事。だが、その胸の奥で、数値化できない微かな温まりが生じているのを、彼女の演算機能はエラーとして検出していた。
「あはは、ハバルトさん格好いい! ……あ、ビスケット、こっちにまだありますよ」
メイがわざとらしくも明るい声を出し、沈んでいた空気がわずかに緩む。
アネラスは言葉を発せず、黙々と剣の刃こぼれを研石で直していた。
その鋭い視線は、既に29階層の先、この「バグ」の根源へと向けられている。
「さて、栄養補給と回復は十分ね」
星奈が立ち上がり、自身の装備を点検する。
29階層へと続く巨大な螺旋階段が、闇の奥で手招きするように口を開けていた。
「行きましょう。……次は、どんなエラーが待っているのかしら」
救世主の声が響き、一行は再び歩み出す。
第28階層を越えた彼らの絆は、もはや単なる協力関係ではなく、一つの「意志」へと昇華されようとしていた。




