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LOG_0003:転生の理由

 白亜の石畳を踏みしめる感触は、驚くほど確かだった。ノアの後に続いて歩き出した星奈は、絶えず周囲を「観測」し続けていた。視界の端で更新され続けるログ、風に乗ってくる花の香り、そして隣を歩く少年の体温。


「……ねえ、ノアくん」 「はい、何でしょう。ステラ様」


 ノアは歩調を緩め、慈しむような笑みを浮かべて振り返る。そのあまりにも整った毒気のない表情が、星奈にはかえって「計算が合いすぎている」ようで落ち着かなかった。彼女は一度立ち止まり、頭の中にある疑問のリストから、もっとも基礎的な変数を提示した。


「ノアっていうのは、どこの国の名前? あなたの出身は? ……アメリカ、あるいは北欧系?」


 ノアは不思議そうに小首を傾げた。「あめりか? ほくおう? すみません、僕の知識不足かもしれませんが、このエリュマントスにそのような地名は存在しません。僕はここで生まれ、ここで育ち、神様に仕える者としてあなたをお待ちしていた……ただのノアですよ」


「……存在しない?」


 星奈の眉がピクリと動く。知識不足。その一言で片付けるには、彼の反応はあまりに自然だった。


 演技をしている風でも、隠しごとをしている風でもない。ただ「太陽は東から昇る」と述べるのと同じ平熱さで、彼は自分の世界に「日本」も「地球」も存在しないことを告げている。


「待って。じゃあ、私の言語はどうなっているの? 私は日本語を話しているはずなのに、あなたはそれを理解し、私はあなたの言葉を母国語として認識している。言語野における翻訳プロセスの欠落……脳内に直接概念が流し込まれているというの?」


「ふふ、難しいことは分かりませんが、それは神様の慈悲でしょう。救世主であるあなたと、導き手である僕。二人の心が通じ合わないなんて、そんな悲しいことは神様が許しませんから」


「……精神論はいいわ。今は論理的な説明が欲しいの」


 星奈はこめかみを指先で押さえた。全くもって理解が追いつかない。意味がわからない。自分が路地裏で「バグ」を見たこと。この強靭な肉体に作り変えられたこと。そして、この「エリュマントス」という場所。彼女には、物事を理解するまで質問を止められず、納得いくまで考え続けるという、理系徒特有の――そして、時には周囲から疎まれるほどの――執着心があった。


「いい? もう一度整理させて。ここは『聖都エリュマントス』。そして私は『救世主』としてここに呼ばれた。ここまではあなたの主張ね。でも、なぜ私が? 救世って、具体的に何を救うの? この街はこんなに平和そうに見えるのに」


 ノアは街の中央にそびえ立つ、ひときわ巨大な大聖堂を指差した。黄金の夕映えを反射し、神々しく輝くその建物。


「この世界は、神様が描いた完璧な秩序の上に成り立っています。けれど、その完璧な美しさを妬み、外側から壊そうとする『汚れ』があるんです。僕たちはそれを『獣』と呼んでいます」


「獣……」


「はい。その汚れは、この街の住人では太刀打ちできません。だから、神様は遠き星の向こうから、強き魂と明晰な知恵を持つあなたを招き、その力をお貸しいただいたのです。あなたがここに来たのは、この美しい夢……いえ、この平和な世界を、未来へ繋ぐためなんですよ」


「……いい? 全然話が見えないんだけど」


 星奈はノアの言葉を遮るように手を挙げた。「未来へ繋ぐ」だの「神様の導き」だの、曖昧な修飾語ばかりが並ぶ説明に、彼女の論理回路が猛烈な拒絶反応を示している。


「まず、その『神様』って何? 宇宙を創生した超知性体か何か? それともこの世界の統治AI的な存在? 私たちを『見守ってくれている』なんていう主観的な評価じゃなくて、その存在の定義を聞いているの」


「神様は……神様ですよ。この世界の理そのものであり、僕たちに安らぎを与えてくれる慈愛の源です。それ以上の説明なんて、僕のような末端の存在には恐れ多くてできません」


 ノアは困ったように微笑む。その顔は「一たす一は?」と聞かれて「愛ですよ」と答えられた時のような、どうしようもない脱力感を星奈に与えた。


「……はあ、いいわ。次。その『獣』って何? ライオンとかクマの大型個体? それとも既存の生物学では分類不可能な多細胞生物? 私に戦えって言うなら、敵の標本データくらい提示してほしいんだけど」


「よく分かりませんが、多分、あなたが知っている獣とは違うと思います。それはただの汚れ……そう、この美しい夢に混じった『澱み』のようなものですから」


「『澱み』? 物体じゃないの? ……もういいわ。最大の問題は、なんで『私』なのよ。見ての通り、私はしがない大学生。格闘技の経験もなければ、誰かを守るような高潔な精神も持ち合わせていない。戦力として私をピックアップしたアルゴリズムを教えて。それから――」


 星奈はそこで言葉を切り、ノアの瞳を真っ直ぐに見つめた。一番重要な、根源的な問い。


「私は、いつ元の場所に帰れるの? 私の生活や、研究や、家族が向こうにあるの。任務を完遂すれば、元の座標に転送してもらえるっていう契約でいいのかしら」


 ノアは一瞬だけ、黄金の夕映えを瞳に反射させて黙り込んだ。


 そして、星奈の不安を優しく溶かすような、柔らかな声音で答える。


「それは、全て導きです。あなたがここに来たことも、救世主として選ばれたことも。そして、いつかあなたが『帰るべき場所』に辿り着くことも……。神様だけが、その答えをお持ちです」


「……つまり、『分からない』ってことね」


「今の僕には。けれど、ギルドへ行けば、あなたが戦うための理由と、帰るための『力』を養う術が見つかるはずです。信じてください、ステラ様。僕はあなたの味方です」


(嘘は言っていない。けれど、何一つ答えていない)


 星奈は内心で毒づいた。ノアの回答は、徹底して「確信」を避けている。彼自身が本当に何も知らないのか、あるいは彼女をこの世界に馴染ませるために意図的に情報を遮断しているのか。今の彼女には判断がつかない。


 けれど、一つだけ確かなことがある。

 今の自分には、この少年に着いていく以外の選択肢がないということだ。自分の足で立とうとすれば地面を砕き、視界には不可解なログが流れ続ける。この「異常な自分」という変数を制御するためには、一旦この世界のシステムに身を置くしかない。


「……いいわ。これ以上あなたを問い詰めても、メモリの無駄遣いみたいね。そのギルドへ案内して。そこで納得のいくまでログを解析させてもらうから」


「はい。その意気です、ステラ様」


 ノアは嬉しそうに頷き、再び歩き出す。星奈はその後ろ姿を追いながら、無意識に左手で右腕の甲冑を触った。ひんやりとした金属の感触。 彼女がかつて愛した、論理的で孤独な「如月星奈」としての世界は、もう指先をすり抜けて消えようとしていた。


「着きましたよ。ここが『聖典の守護者レキシコン・ガーディアン』の本部です」

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