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LOG_0002:聖都エリュマントス

 世界は、数式でできている。


 再現性。保存則。収束する誤差。


 すべては合理的に説明され、

 矛盾は排除される。


 だが。


 なぜ、それが維持されている。


 どれほど精緻な体系も、

 いずれ破綻するはずだ。


 それでもなお——

 世界は、崩れない。


 まるで、何かに“固定”されているかのように。


 ……


 その揺らぎを、観測した者がいる。

 それを、人はまだ知らない。


 ——バグ、と呼ばれる現象を。


 ✴︎


 意識の浮上は、まるで深い水の底から水面へと弾き出されるような唐突で暴力的な感覚だった。


 耳の奥で鳴り響いていた、あの不快な「空間の軋み」はもう聞こえない。


 代わりに、鼓膜を震わせたのは、どこまでも穏やかで、それでいてどこか現実味を欠いた微かな「音」だった。


 遠くで流れる噴水の音。

 風が石造りの街並みを吹き抜ける音。

 そして、自分の心臓がドクンと、以前よりも遥かに力強く拍動する音。


「……っ」


 星奈は目を開けた。

 瞬間に飛び込んできたのは、網膜を焼くような黄金の光だ。  


 大学の帰り道に見た薄暗い路地裏とは対極にある光景。

 見上げる空には、沈むことを忘れたかのように巨大な夕日が居座り、世界を濃密な琥珀色に染め上げている。


 だが、視覚が捉えた風景以上に、彼女の脳を揺さぶったのは「情報の濁流」だった。


(……何、これ)


 視界の端。意識を集中させようとするたびに、半透明の光の幾何学模様が、物理的な実体を持って浮かび上がる。それは彼女が知るどのコンピュータ言語とも異なるが、驚くほど直感的に理解できてしまう「情報の羅列」だった。


 ――環境:聖都エリュマントス。

 ――物理定数:固定。座標安定。

 ――大気組成:生命維持に最適。魔素濃度:高。


「な……にを、言って」


 言葉を発しようとして、自分の「声」の響きに驚愕した。僅かに低く、それでいて鈴の音のように透き通ったその響きは、明らかに二十年生きてきた如月星奈のものではない。


 慌てて自分の手を見る。かつて、研究室でキーボードを叩いていた、華奢で少しだけ指先の荒れた大学生の手ではなかった。


 白磁のように滑らかで、一切の欠点がない肌。

 しかしその指先や掌には重厚な剣を握り、数多の戦場を潜り抜けてきた者にしか宿らない鍛え抜かれた「機能美」が備わっている。


 視線を下げれば、身に纏っているのは見慣れたパーカーやデニムではない。


 鈍い銀光を放つ繊細な装飾の甲冑と、美しい刺繍が施された騎士服だ。


「夢、じゃない。脳内物質の異常分泌による幻覚……? いや、意識の解像度が計算に合わない。なにこれ、なに…」


 星奈は荒い呼吸を整えようと、自分の胸元を強く押さえた。指先に触れる冷たい金属の感触が、これがVRでも幻覚でもないことを冷酷に伝えてくる。脳が処理できる情報量を遥かに超えている。


 もしこれが夢なら、私の脳はいつからこんなに高精細なレンダリングができるようになったというのか。


(解析。……対象、私。解析しなさい。今の状況を、すべて。お願いだから、わかる言葉で説明して……!)


 祈るような、あるいは縋るような思考に呼応し、網膜に文字列が展開される。


【個体識別:ステラ】

【加護:神の眼(極限解析・鑑定)】


「ステラ……? 何よそれ、知らない。私の名前は、如月、星奈……っ」


 自分の名前を口にしようとして、喉の奥がキュッと締め付けられた。 二十年間使い古してきたはずの自分の名前が、今のこの完璧な肉体には「適合しないラベル」であるかのような、奇妙な拒絶反応。混乱を鎮めるために立ち上がろうとした彼女は、自分の脚に込めたわずかな力が、周囲の物理法則を粉砕する光景を目の当たりにする。


 ――バキッ!


 凄まじい音と共に、足元の石畳が爆ぜた。


「嘘、でしょ……。なんで、なんで?」


 かつて女子校で、高身長ゆえにバスケ部やバレー部から執拗に勧誘された際も、「重力加速度とボールの軌道を計算するのは得意だけど、自分の体をその通りに動かす出力系に欠陥があるから」と全くもって本当に女子高生かと疑われる様な可愛げのカケラもない言葉を並び連ねて断り続けてきたのだ。


 それなのに、今の自分はどうだ。

 ただ「立とう」としただけで、大地の耐久値を上回る筋出力を叩き出してしまった。


「待って。今の、物理的にどう説明がつくの? 私の体重が急増したわけじゃない。なら、接地面に対する瞬間的な荷重が――って、そんな計算してる場合じゃない。どうしよう、壊しちゃった」


 砕けた石畳を見つめ、星奈は青ざめた。理系女子大生としての冷静な分析回路が、二十歳の少女としての「やらかしてしまった」という焦燥感に塗りつぶされていく。


 パニックを抑えようと周囲を見渡すと、そこには見惚れるほどに美しい、黄金に染まった世界が広がっていた。


「綺麗……なんて、言ってる余裕ないし。誰かいないの? いや、いたとしても、この状況をどう説明すれば――」


「ええ、現実ですよ。それも、神様が用意した、最高に美しい現実です」


 背後からかけられた、穏やかな少年の声。  

 星奈は跳ね上がるように振り返った。その際も、肉体は彼女の意思を超えた「騎士としての最適解」で動く。腰の剣に手をかけ、鋭い視線で音の主を射抜く。


「……っ、誰?」


「おっと。……怖い顔をしないでください。僕はあなたの敵じゃありません」


 そこに立っていたのは、一人の少年だった。十代半ばだろうか。亜麻色の髪を夕風に揺らし、こちらを気遣うような、ひどく優しい瞳で見つめている。その服装はこの街の雰囲気に合った簡素ながらも品のあるもので、星奈がさっきまでいた「現代日本」の要素はどこにもない。


(解析。対象、目の前の――)


 無意識に能力を向けた星奈だったが、返ってきたログはひどく曖昧なものだった。


【対象:ノア】

【種別:???】

【属性:献身・案内人】


「ノア……くん?」


「はい。ステラ様。あなたのパートナーとして、ずっとこの時を待っていました」


 少年――ノアは、星奈が破壊した石畳を気にする素振りも見せず、丁寧に一礼した。 その所作には、二十歳の女子大生がこれまでの人生で一度も向けられたことのないような、絶対的な敬意と「親愛」がこもっている。


「ステラ様。ここは聖都エリュマントス。あなたが救い、あなたが愛するための、美しき夢の続きです」


「救う? 愛する……? 意味がわからないわ。私はただ、路地裏で妙な隙間を見つけて、それで……」


 説明しようとして、星奈は言葉を失った。「現代日本」という言葉を出した瞬間、胸の奥で言いようのない虚脱感が広がったのだ。


 ノアの瞳は、まるで迷子をなだめる母親のように温かく、同時にどこか「逃げ道を塞ぐ」ような静かな強さがあった。


「混乱するのは無理もありません。あなたのこれまでの記憶は、古い世界のノイズのようなものですから。まずは、落ち着ける場所へ行きましょう。ギルドの仲間も、あなたを歓迎する準備ができています」


 ノアが差し出してきた手。  

 その指先は驚くほど白く、繊細で、どこか作り物のような完璧さを備えている。


 星奈は、理系的な直感で理解していた。  

 この少年の笑顔も、この美しい街も、そして自分のこの「騎士としての肉体」も。 すべてが、あまりにも都合よく、美しすぎる。


 けれど、今の彼女にはその違和感を突き詰めるための材料がなかった。  

 それに何より、差し出された手の温もりが、孤独だった「如月星奈」の心に、数式では解けない安らぎを、ほんの少しだけ与えてしまったのだ。


「……ギルド、って。そこで、何が起きているのか教えてくれるの?」


「ええ、もちろん。あなたがこの世界で、どれほど価値のある存在なのかも、含めて」


 星奈は躊躇いながらも、その手を取った。  

 黄金の夕暮れの下、一人の少女と一人の少年が歩き出す。

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