LOG_0023:コード・エグゼキューター
外縁回廊は、白亜の円柱が並ぶ静謐な場所だった。
しかし、その静寂は「平穏」ではなく、まるで嵐の前の真空状態のような、不気味な圧迫感を孕んでいる。
「……ここも、長くは持たないわね」
柱に背を預けていたシフォンが、手元のデバイスから視線を上げずに呟いた。 星奈が『神の眼』を凝らせば、安全だと思われた回廊の境界線に、陽炎のような歪みが揺らめいているのが見えた。上層のバグは、もはや「獣」という形を成す前の段階で、空間そのものを侵食し始めている。
「ゆらゆらと、嫌な気配がする……。あっちからも、こっちからも」
アネラスが鋭く剣を抜き放ち、回廊の角を見据えた。 霧の奥から、低級の、しかし確実にこの世界の記述を削り取る小型の獣が二体、音もなく滑り出してきた。
「アネラス、二点同時に来るわ! 右は高度を狙ってる!」 「分かってる、一瞬で終わらせる!」
アネラスの『銀閃』が閃く。Lv.34の練度は伊達ではなく、小型の個体であれば星奈の詳細なガイドを待たずとも、その剣筋は正確に核を捉えた。二体の獣はノイズを撒き散らしながら離散する。
だが、一体倒すごとに、周囲の霧はより濃く、より「重く」変質していく。
「キリがないわね。倒せば倒すほど、エリア全体の『汚染密度』が上がっている。……ステラ様、少し顔色が悪いわよ。こちらへ」
シフォンが手招きする。星奈は自覚していた。上層に足を踏み入れてから、絶え間なく流れ込んでくるエラーログの奔流に、脳の演算リソースが削り取られ、精神的な摩耗――「概念損傷」が始まっていることを。
「シフォン、私はまだ戦えるわ」 「ダメよ。貴女の『眼』はこの世界の根幹に繋がりすぎている。バグを視るということは、毒を直接飲み込んでいるのと同じなの。……じっとしていて」
シフォンが星奈の額にそっと手を当てる。 次の瞬間、星奈の視界を覆っていた赤色の警告ログが、柔らかな琥珀色の光に包まれて沈静化していった。
「これは……?」 「『秩序の編纂局』の専門技術よ。肉体の傷を治す魔法とは違う、精神汚染や概念損傷――いわば、貴女の『魂の記述』に入り込んだノイズを直接洗浄するの」
シフォンの表情は、いつもの不敵な笑みが消え、編纂局の専門官としての真剣なものに変わっていた。 星奈の意識が急速にクリアになっていく。ノイズに汚染され、ひび割れかけていた自己のアイデンティティが、パズルのピースが戻るように修復されていく感覚。
「ふぅ……。とりあえず、これでしばらくは持つはずよ。お礼は後でたっぷり払ってもらうからね」
シフォンがいつもの調子に戻ってウィンクする。メイも隣で「よかった……。ステラちゃんの顔、さっきまで真っ白だったんだよ」と、心配そうにその手を握りしめた。
精神の安定を取り戻した星奈は、回廊の隙間から遥か遠くを睨んだ。 霧の向こうに、天を突くようにそびえ立つ『聖歌隊の塔』。
ここからでも分かる。あの塔こそが、この狂ったシンフォニーの指揮者だ。あの中心部へ辿り着き、根本から書き換えを行わない限り、ハバルトが命を懸けて守ったこの避難も、一時的な延命に過ぎない。
(……あそこに行かないと。あの中で、この世界の誰かが、悲鳴を上げている気がする)
星奈の中で、「デバッガー」としての義務感を超えた、切実な予感が高まっていた。
「……ハバルトさんを待っていられないかもしれない。塔へ行きましょう。一刻も早く、あの脈動を止めないと」
星奈の言葉に、アネラスが不安げに、しかし決意を秘めた目で頷いた。
一同は意を決して外縁回廊を飛び出した。目指すは、歪んだ霧の向こうにそびえ立つ『聖歌隊の塔』。
道中、バグの密度はさらに増し、空間の至る所からノイズを纏った獣が這り出してくる。
「道を空けなさい……!」
先陣を切ったのは星奈だった。白磁の籠手で剣を握り締め、解析ログが示す「敵の出現予測座標」へ迷いなく踏み込む。その後を、アネラスが銀色の閃光となって追随した。
「ステラ、右は任せて!」 「ええ、アネラスはそのまま直進して。残りのノイズは私がデバッグする!」
二人の剣筋が交差する。星奈の論理的な太刀筋と、アネラスの練達した騎士の技。
レベルの差を星奈の「予測」が埋め、二人は流れるような連携で獣の群れを切り裂いていく。
「後ろは任せておきなよ! 特製『魔導煙幕』、投下っ!」
後方からメイが叫び、腰のポーチから異形のフラスコを投げつける。それはバルカの工房で彼女が夜通し改造し、対上層用に調整した支援兵器だった。 炸裂したフラスコから、魔力を帯びた高密度の煙が広がる。バグの記述を一時的に「中和」し、獣たちの動きを鈍らせるその煙幕は、一行に安全な進路を確保させた。
「ふふ、さすがシステム・メンテナー。相変わらず過激な道具を作るわね」
シフォンは余裕のある足取りで、その煙の中を悠然と進む。彼女のデバイスは、周囲の異常なデータを絶え間なく記録し続けていた。
不協和音が鳴り響き、色彩が飽和したノイズだらけの世界。だが、その狂った法則の中でも、上層の建築物はどこまでも白く、恐ろしいほどに美しい。空中に固定された水の粒が星のように輝く中、ついに一行は『聖歌隊の塔』の御前へと辿り着いた。
しかし、その巨大な門を塞ぐように、凄まじい「記述の重圧」が一同を襲う。
「……待って。今までとは、格が違うわ」
星奈が剣を構え直し、眼前の存在を凝視した瞬間、彼女の思考が一瞬フリーズした。 そこにいたのは、半透明の巨大な翼を広げ、全身を青白いエラーログでコーティングした巨大な怪物。
(これが……竜? 本物なの……?)
目の前のそれは、体中からノイズを撒き散らしており、純粋な生物ではないことは明らかだ。けれど、その圧倒的な質量感と威圧感は、理系女子としての星奈の理屈をなぎ倒すほどの「現実」としてそこに鎮座していた。
(いや、本物ではないはず。これもまた、巨大なバグの塊に過ぎない……。でも、この存在感は何?)
星奈の戸惑いを余所に、視界には絶望的な数値が投影される。
■ 聖域の処刑竜 / Level: 52
ステータス:高密度の記述防壁を保持。物理・魔導攻撃を80%カット。
星奈の頬を冷たい汗が伝う。竜が咆哮を上げると、周囲の空間がガラスのようにひび割れた。それは塔を、あるいはこの世界の「秘密」を守るためにシステムが用意した、最強の門番だった。
「アネラス、メイ、シフォンさん。……死ぬ気で合わせなさい。一瞬でも計算が狂えば、私たちが消去されるわよ」
星奈は恐怖を解析の熱量で塗りつぶすように強い口調で言葉を放つ。
白銀の剣を正対させた。




