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LOG_0015:メイ・ベルシュタイン

 朝の柔らかな光が、ギルド上層にある星奈の自室に差し込んでいた。  


 星奈はベッドの上に座りこの一週間で積み上がった「成果」を眺めていた。


 革袋の中には、エリュマントスで流通している硬貨が詰まっている。


(……一、二、三……。かなりの額ね)


 レオンと共に中層の炊事場を「デバッグ」してから、早いもので一週間が経過していた。


 あの「大釜修理」の噂はまたたく間に広がり、星奈はその後もギルドの細々とした任務——魔導装置の調整や、物流経路の最適化など——をいくつかこなした。それだけではない。

 カシムの推薦もあり、別の小隊を率いての「獣」討伐も二度経験した。  


 星奈の精密な指揮は、前線で戦う騎士たちにとって「絶対に負けない計算式」として信頼され始めていた。


「貯まってきたはいいけれど……使い道がないわね」


 現代日本にいた頃、彼女の支出の九割は専門書や参考書、あるいは最新の解析ソフトへのライセンス料だった。娯楽といえば、たまに効率よく栄養を摂取するためのサプリメントを買う程度。


 だが、この世界には彼女が求める「物理学の最新知見」を記した本はない。あるのは「精霊の機嫌の取り方」といった、彼女からすれば非論理的な魔導書ばかりだ。


 コンコン、と控えめなノックの音が響いた。


「ステラ様、おはようございます。お目覚めですか?」


 扉を開けて入ってきたノアは、今日も完璧な微笑みを湛えていた。


「ノア。ちょうどいいわ、このお金……ギルドポイントを換金したものだけど、何か有効な資産運用の方法はあるかしら?」


「ふふ、いきなり投資のお話ですか。ですがステラ様、本日はあいにく運用のご相談には乗れません。なぜなら、本日の貴女は『非番』ですから」


「……非番?」


「はい。緊急指令が入った際の対応はすべて役職者が受け持つ日です。ギルドの規定により、指揮官クラスには週に一度の完全休養が義務付けられています。無理をすれば、カシム団長から『効率の悪い休息は戦士の毒だ』と説教されてしまいますよ」


「なに、それ初めて聞いたけど。今まで休みなんてなかったわよ」


「実績を重ねて指揮官クラスに昇格したんです。小隊長リーダーですね。新米騎士の1つ上、正騎士を束ねる管理者です。ちなみにアネラス様はステラ様の1つ上の上級騎士マスターです。現場の熟練者。複数の小隊を束ねる現場監督です。」


「へえ、そうだったのね。てかなんで私は知らされてないのかしら」


「昨日の報告の際にお伝えされていましたよ?掲示板にも出ていました」


 星奈はあぁ、とため息をつく。

 昨日はなぜか頭も体も使った仕事だったことから報告をした以降の記憶が曖昧だった。

 疲れていたんだから、仕方ない。


「ギルドに加入して1ヶ月程度で昇格とは流石ですステラ様!」


「ありがとう」(救世主といえども一介の社員扱いなのかしらね。変なの)


 しかし星奈は一瞬、呆然とした。休みか。

 さて、どうしよう。


 一人で自室という研究室に籠もるか、訓練場でデータの収集をするつもりだったのだが、どうやらシステムがそれを許さないらしい。


「……分かったわ。せっかくなら、有意義な時間消費を心がけることにする」


 部屋の衣装棚を開ける。

 ノアが用意してくれていたであろう普段着の陳列。騎士団の制服ではなく、柔らかな生成色の生地に刺繍が施された普段着のワンピースを手に取った。


 着慣れないひらひらした感触に落ち着かないまま、星奈はノアを連れて街へと繰り出した。


(……一日の可処分時間をどう消費すべきか。やはり、この街の熱力学的な循環をフィールドワークするべきかしら。あ、本屋とかあるのかしら)


 そんな「非番」らしからぬ思考を巡らせていた、その時だった。


「おーい、リーダー! こっちこっち!」


 聞き慣れた、けれどいつもより少し高揚した声が広場に響いた。  

 星奈が声のした方を向くと、そこには見慣れた、けれど決定的に様子の違う人物が立っていた。


 そこにいたのは、金属鎧を脱ぎ捨て、体のラインが出る軽やかなチュニックに身を包んだアネラスだった。髪をアップにまとめ、耳元で揺れる銀のイヤリングが、彼女の「上級騎士マスター」としての鋭さを消し、年相応の女性らしい華やかさを際立たせている。


「アネラス……? 随分と、装甲が薄いわね……」


「私服って言いなさいよ、私服って。……っていうか、何よその顔。私が街で遊んでちゃ悪いわけ?」


 アネラスは呆れたように笑い、隣にいた少女の背中を叩いた。アネラスの隣には、小柄だが非常に健康的な体つきをした少女がいた。短い金髪を跳ねさせ、くりっとした大きな瞳が好奇心に満ちている。


「初めまして、救世主様! ギルドのインフラ整備の仕事を主に担当しています、メイ・ベルシュタインです! 大釜の件、本当にありがとうございました! 現場じゃもう、ステラ様のことは『精霊を黙らせる鉄の聖女』って呼ばれてるんですよ!」


 メイと名乗った少女は、星奈の手を握ってぶんぶんと振った。プリッとした頬が動くたびに、彼女の快活さが伝わってくる。あぁ、この子は自分とは正反対の「陽」の人間だ。


「……ステラよ。あの修理はただの最適化で、聖女云々は誇張されたデータね。……メイ、あなたも工学的な視点を持っているの?」


「私は壊れた魔導パイプを叩いて直すのが専門です! あはは!」


 メイの屈託のない笑顔に、星奈はわずかに気圧された。どうやら彼女も、レオンとは別のベクトルで「直感的」な職人タイプらしい。


「この子も今日はお休みなんですって。ちょうどいいわ、リーダー。あんたその格好、ノアに選んでもらったんでしょ? 清楚でいいけど、ちょっと『救世主様』として大人しすぎるわよ。メイ! 行くわよ、この子を中層の流行に叩き込んでやるんだから!」


「了解です、アネラスさん! ステラ様、覚悟してくださいね。この街の市場マーケットは、物理法則より欲望が優先される場所ですから!」


「……え、ちょっと……待ちなさい」


 強引に両脇を固められ、星奈は繁華街の奥へと連行されていく。 背後で、ノアが「いってらっしゃいませ。たまには計算外の事態を楽しむのも、救世主の資質ですよ」と、どこか楽しそうに見送っていた。


 中層の繁華街は、星奈の想像を遥かに超える熱量に満ちていた。石畳の両側には、色とりどりの天幕を広げた露店が軒を連ね、焼きたてのパンや香辛料の匂いが混ざり合って鼻腔をくすぐる。

 上空を走る魔導鉄道の駆動音と、商売人たちの威勢のいい声が重なり合い、街全体が巨大な「生のノイズ」を発しているようだった。


 すれ違う人々が交わす言葉、商品のやり取り、笑い声。それらすべてが、巨大な計算機の中のデータではなく、生身の体温を伴って循環している。


(……嫌いじゃないわ。いえ、むしろ……心地よいとすら感じるなんて)


  無機質な研究室の静寂を愛していたはずの自分が、この雑多な温もりを肯定し始めていることに、星奈は自分でも驚いていた。


「ほらステラ、ぼーっとしない! こっちよ、中層で一番センスがいい仕立屋!」


 アネラスに強引に腕を引かれ、星奈は蔦の絡まるレンガ造りのブティックへと連れ込まれた。  


 店内には、魔力を編み込んだ淡く光るレースや、見たこともない幻獣の革を使ったブーツなどが並んでいる。メイがさっそく、星奈の体に次々と服を当てがい始めた。


「ステラ様は色白だから、この深い紺色……あ、でもこっちの琥珀色も捨てがたいですね!」

「メイ、こっちの機能性重視のコートドレスも似合いそうじゃない? ほらステラ、感想は!」


 星奈は差し出された生地を指先で摘み、無意識にスキャンを開始する。


(……魔導シルクの引張強度、および魔力伝導率の検証。この縫製パターンは熱力学的な排熱効率を無視しているわね。……でも、この質感。肌に触れる瞬間の熱伝達係数が、驚くほど心地いい……)


 元の世界での彼女なら、アネラスやメイのようなタイプを「非効率的で騒がしい、関わる必要のない人種」として無意識に避けていただろう。

 数式で割り切れない感情を振り回す彼女たちは、星奈の孤独な調和を乱す存在でしかなかったからだ。


 彼女の脳内に、放課後に楽しそうに笑っていた同級生たちを思い出す。


(……私は、彼女たちを避けていたんじゃない。ただ、理解できない自分から逃げていただけかもしれないわね)


 数式という盾を持って、世界の「外側」で観測を続けていた自分。けれど今、腕を引かれ、騒がしく笑い合っているこの瞬間、星奈は確かに世界の「内側」にいた。


「……分かったわ。そこまで言うなら、これ……試着してくる」


 星奈が手に取ったのは、アネラスが選んだ紺色のコートドレスだった。


 試着室のカーテンを開けた時、広がる空気の振動が変わった。  


 深い紺色の生地は、彼女の白い肌と黒髪を鮮やかに際立たせ、機能美と女性らしさが絶妙な均衡バランスで同居している。


「わぁ……! ステラ様、めちゃくちゃ素敵です! 本物の救世主様みたい……あ、もともと救世主様でしたね!」 「……いいじゃない。ほら、そんなに強張らないで。似合ってるわよ、ステラ」


 アネラスのまっすぐな瞳と、メイの曇りのない称賛。それは星奈の『神の眼』でも解析不可能な、純粋な好意の塊だった。いつもなら「客観的なデータに乏しい」と一蹴するところだが、鏡に映る自分を見て、星奈はふと、心から思った。


(悪くない。この不規則な休日も……この、騒がしい仲間たちも)


「……ありがとう。少し、体が軽くなった気がするわ」


 星奈の唇が、自然と柔らかな弧を描いた。

 計算でも、確率でもない。

 長い間、忘れていたはずの「微笑み」が、彼女の顔に浮かぶ。


「……っ」 一瞬、アネラスが目を見開いて言葉を失った。


(な、なによ……笑ったらあんなに可愛いの? 犯罪的じゃない、あのギャップ……!)


 心の中でそう叫びながらも、アネラスはわざとらしく顔を背けて、赤い頬を隠した。


「ま、まあ、合格点ね。さあ、次は靴よ! まだまだ時間はたっぷりあるんだから!」


 如月星奈。彼女の「救世主」としての公式に、また一つ、新しい変数が加わった。

 それは、どんな物理法則よりも強力に、彼女をこの世界に繋ぎ止める「絆」という名のエネルギーだった。

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