LOG_0013:魔法の定義とは
「おやおや、実に興味深い! 素晴らしい、実に見事なエネルギー波形だ!」
静かなテラスに、不協和音のような声が響いた。
声の主は、ボサボサの栗色の髪を掻き乱しながら、星奈の顔の数センチ横まで身を乗り出してきた。
煤けた白衣のようなローブを羽織り、手には歯車と水晶が剥き出しになった奇妙な計器を握っている。
「君が噂の救世主……『ステラ』だね? 今、君から放射されているこの波長。エリュマントスの既存の魔力循環とは明らかに異なる、外部観測者特有の不確定性だ! ぜひ、今すぐ僕の研究室へ来てもらいたい。非侵襲的な検査を三〇〇項目ほど済ませたら、君の構造を……痛いっ!?」
男の襟首を、アネラスが容赦なく掴んで引き剥がした。
「ちょっとレオン、いい加減にしなさいよ。この人はあんたの実験道具じゃないんだから」
「レオン・ウェインさん。仕事終わりの休息を邪魔するのは感心しませんね」
ノアも困ったような、けれど慣れっこといった様子で溜息をつく。魔導技師レオンは「ちぇっ」と子供のように唇を尖らせると、隣のテーブルから椅子を強引に引っ張ってきて、星奈の正面にどかっと座り込んだ。
男は服の埃を払い、改めて星奈を見た。
容姿は二十代後半といったところか。
整った顔立ちはしているが、目の下の酷い隈と、知識への異常な飢餓感が漂う瞳が、彼を「まともな青年」の枠から遠ざけている。
「改めて自己紹介を。僕はレオン・ウェイン。このギルドで魔導技師……要するに、この世界の『理』を弄り回して道具に変える専門家だ。よろしく、救世主様」
「……ステラよ。本当は別の名前があるのだけれど」
星奈は口の中で「如月星奈」と呟いてみた。
だが、やはりその音は彼女の喉を震わせる直前で、意味を持たない電子ノイズのような掠れた響きに変換されて消える。
「……物理学を専攻していた立場から言わせてもらえば、いきなり拉致しようとする人間と握手する気にはなれないわね」
星奈のドライな返しに、レオンは愉快そうに喉を鳴らして笑った。
「物理学? ほう、面白い響きだね。万物の理を解き明かす学問、といったところかな。……さて、ステラ君。単刀直入に聞こう。君にとって『魔法』とは何かな?」
あまりに唐突な問いに、星奈はティーカップを置き、冷静に思考を巡らせた。
「……私の知る定義なら、それは物語の中の概念よ。杖を振れば火が出たり、呪文を唱えれば傷が治ったりする。エネルギー保存の法則や熱力学第二法則を無視して、無から有を生み出す『都合のいい奇跡』。それが私の知る魔法よ」
星奈の答えに、レオンは机を叩いて大笑いした。
「奇跡! 都合がいい! まさに未開人の思考だね。だが面白い、君の思考には『システム』としての魔法が存在しないわけか。いいかい、このエリュマントスにおいて、魔法とはそんな安っぽいオカルトじゃない」
レオンは身を乗り出し、テーブルの上に指で円を描いた。すると、その軌跡に沿って淡い光の術式が浮かび上がる。
「魔法とはね、『意志による事象の上書き』なのさ。この世界には基底となる物理ログが走っている。例えば『この空間の温度は二五度である』というログだ。そこに、強力な魔力という『特権命令』を叩き込み、ログを強制的に『六〇〇度』へ書き換える。するとどうなる? 現象が後からついてきて、火が出る。つまり、魔法とは世界というサーバーに対する、高次アクセス権の行使なんだよ」
「……事象の上書き? つまり、量子力学における観測者の介入を、魔力というリソースで強行しているということ?」
星奈の瞳に、知的な火が灯った。
「だとしたら、エントロピーの増大はどう処理しているの? 局所的な事象の改変は、必ず周囲の系に熱力学的な負荷をかけるはずよ。排熱処理はどうなっているの?」
「おっと、そこに来るかい! 鋭いね! 魔力回路の粘性抵抗による損失分は、大気中のマナ・フィールドへ分散排熱させるんだ。だが、過剰な上書き(オーバーライト)を行えば当然、因果律に歪みが溜まる。それが君たちの追っている『バグ』の正体の一部さ」
「ちょっと二人とも、ストップ!」
アネラスがテーブルを叩いて割り込んだ。
「何なのさっきから。量子? エントロピー? レオン、あんたの思想が極端なのは知ってるけど、普通の魔法はもっとこう、祈ったり魔力を練ったりする、もっと『精神的』なものでしょ。ノア、あんたからも言ってやりなさいよ」
ノアは苦笑いしながら、補足を入れた。
「そうですね。一般的には、魔法は神の恩恵を分け与えていただく、厳かで温かな行為とされています。レオンさんのように『システムへのハッキング』だなんて考えるのは、ギルドでも彼一人くらいかと思います」
「ふん、凡百の魔導師と一緒にしないでほしいね」
レオンは鼻で笑い、再び星奈を凝視した。
「ステラ君。君の『眼』が見せているのは、その上書きされる前の『基底ログ』だろう? つまり、君は世界をデバッグできる能力を持っている。僕と一緒に来れば、この世界のソースコードを丸裸にできるかもしれないんだ!」
星奈は、アネラスたちの心配を余所に、レオンという異質な才能に強く惹きつけられていた。
この世界で初めて、名前すら通じない異質な「仕様」の壁を越えて、自分と同じ「構造」の視点で会話ができる相手に出会ったのだ。
「……上書き、ね。でも、一番の疑問はそこじゃないわ」
星奈は身を乗り出し、テーブルの上の空論を指先でなぞった。
「あなたが言う理論が正しいなら、この世界の質量保存はどうなっているの? さっき倒した『獣』は、消滅する時にエネルギー変換のプロセスを無視して、文字通り霧散して消えたわ。まるで……最初からそこに『質量』なんて存在しなかったみたいに」
レオンは、待ってましたと言わんばかりに椅子をガタつかせて身を乗り出した。
「くふふ、興味深い視点だ! 救世主様(計算機)らしい発想だね。そう、僕たちはそれを『理』の優先順位と呼んでいる。エリュマントスにおける『物質』は、僕たちの意志というプログラムが描画している一種の境界線なんだよ」
「……境界線。つまり、私たちが今触れているこのテーブルも、原子の集合体ではないと?」
「厳密に言えば、観測者が触れている間だけ『硬い』という性質を維持している。君の世界の物理学が『微細な粒子の積み上げ』だとするなら、この世界の物理は『概念の集積』なんだよ。……と言っても、これは僕の持論だけどね!」
レオンは楽しそうに笑い、懐から煤けたレンズを取り出した。
星奈は、彼が語る「世界のハック」という概念に知的好奇心を刺激されつつも、同時に冷静な自分を取り戻していた。
(……この男の言っていることは、今の私にはまだ『実証不可能な仮説』でしかないわ。でも、私が愛した物理学の数式を、この世界の事象に当てはめようとすると必ずどこかで『定数』が狂う。その理由が、彼の言う『意志による介入』なのだとしたら……)
星奈は、アネラスたちの心配を余所に、レオンという異質な才能を「興味深い研究対象」として認識した。名前すらノイズになるこの世界で、ようやく共通の「論理」で会話ができる相手。
「……あなたの理論、全部は信じないわ。でも、その『研究室』には興味がある。あなたの言う『魔法を道具に変える技術』を、私の知識で効率化できるかもしれないから」
「交渉成立だね! 素晴らしい、今夜は祝杯……いや、徹夜で解析作業といこうじゃないか!」
レオンは満足げに立ち上がり、風のように去っていった。
静かになったテラスで、星奈は冷めたティーカップを見つめた。
「……なんなのあいつ。相変わらず嵐みたいな男ね」アネラスが呆れたように息を吐く。
「ステラ様、あまりレオンさんの深淵に付き合いすぎないでくださいね。彼は一度潜ると、戻ってこられなくなるタイプですから。それに、昨日と今日の発言が異なる。いわば机上の空論癖があると言いますか」
ノアの言葉には、冗談めかしながらも、どこか星奈を繋ぎ止めるような響きがあった。
「分かってるわ。私はただ、この世界の『関数』を知りたいだけ。……ねえノアくん。次にレオンさんのところへ行く時、この街の『地図』のデータ……いえ、図面を持ってきてもらえる?」
「お安い御用です。エリュマントスの歩き方を、じっくり学んでいきましょう」
世界の真理はまだ霧の向こう側だが、星奈の中で「この世界を解き明かしたい」という熱が、確かなエネルギーとなって燃え始めていた。




