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幸福な窒息、あるいは白い檻  作者: 都桜ゆう


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第5章 美緒視点:陽斗には“他者の意思”という概念がない

 放課後の教室は、西日に焼かれたオレンジ色の静寂に包まれていた。

 私は担任に頼まれた学級日誌を届け終え、自分の机に忘れた筆箱を取りに戻った。誰もいないはずの空間。けれど、そこには妙に濃密な残香のようなものが漂っていた。

 

 ふと視線を落とすと、紗月の席の隣――陽斗くんの机の上に、一冊の大学ノートが置かれていた。

 

「……陽斗くん、忘れ物かな」

 

 クラスの誰もが憧れる、完璧な秀才。そして、親友の紗月を文字通り全身全霊で愛し、支えている理想の彼氏。

 ここ数日、紗月が情緒不安定になり、陽斗くんが怖いと泣きついてきたとき、私を説得したのは彼の圧倒的な優しさだった。

 

『美緒さん、ありがとう。紗月は今、パニックになっているんだ。僕への愛が大きすぎて、それを処理できなくて……自分を守るために僕を悪者にしようとしている。君だけは、彼女を見捨てないで、僕の代わりに寄り添ってあげてほしい』

 

 あの時、彼の瞳には一点の曇りもなかった。自分の睡眠時間を削って紗月のための安眠グッズを探し、彼女の両親や先生にまで頭を下げて回る。その献身的な姿に、私はいつの間にか侵食されていた。

 紗月が怯えているのは、彼女自身の心の弱さのせいだ。陽斗くんのような素晴らしい人に愛されているのに、彼女はなんて我が儘なんだろう――。

 

 そんな、彼への全幅の信頼を抱いたまま、私は何気なくそのノートを手に取った。

 紗月のことで、何か私に手伝えるヒントが書かれているかもしれない。そんな善意という名の免罪符を自分に与えて、私は表紙をめくった。

 

 ――その瞬間、私の脊髄を、氷の楔が貫いた。

 

 そこに並んでいたのは、日記でも、学習記録でも、愛のポエムでもなかった。

 それは、紗月という個体を徹底的に分解し、再構築するための、冷徹な観測データだった。


『○月×日(火) 登校:8:02

 昨夜のメッセージ(53通目)への反応。平均返信速度3.2秒低下。拒絶反応の第一フェーズ。これは彼女が僕を異物として認識し始めた証拠であり、同時に、僕なしでは自己の輪郭を保てなくなっている初期症状である。非常に愛おしい。

 二時間目休み:美緒と接触(3分14秒)。助けてという単語を2回使用。美緒側の調律は完了しているため、このSOSは美緒の中で不安定な少女の戯言へと自動翻訳される。隔離の壁は順調に強固になっている。』


 指先がガタガタと震え、紙をめくる音が、静かな教室で異様に大きく響く。

 次のページには、紗月の好みが、解剖図のように細かく分類されていた。

 

『紗月の好みの傾向と、その書き換え手順

 ・好きなパン:メロンパン → 摂取時の脳波の揺らぎから、僕が買い与えた時のみ幸福と定義させる。他者から受け取った場合は罪悪感を紐付けるよう誘導済み。

 ・睡眠習慣:23時就寝 → 深夜の通知による睡眠剥奪。意識が朦朧とした状態でのみ、僕の言葉を真実として受容する。この状態を維持し、彼女の自意識を僕を喜ばせるための機能へと収縮させる。』

 

 読み進めるうちに、私は吐き気に襲われた。

 そこには、一文字も紗月の意思を尊重する言葉がなかった。


 陽斗くんの世界において、紗月は一人の人間ではない。

 彼という完璧なプログラムを作動させるための部品であり、「僕がどうすれば彼女を喜ばせるか」ではなく、「紗月がどうすれば僕を喜ばせるか」という一点のみが、狂信的なまでの緻密さで計画されていた。

 

 そして、最も恐ろしい記述が、今日のページに記されていた。

 

『最終段階:全方位からの調律完了。

 親、教師、友人(美緒)。すべての外部接点を僕の翻訳下に置いた。紗月が何を叫ぼうとも、世界は僕の言葉で彼女を包囲する。

 明日、彼女の心は完全に折れ、僕という唯一の正解を受け入れるだろう。……美緒さんには感謝している。彼女の浅薄な善意こそが、この檻の最後の鍵となった。』

 

「……あ、……あぁ……」

 

 喉の奥から、乾いた叫びが漏れる。

 私は、何をしていた?

 紗月が、あんなに必死に、震えながら怖いと言っていたのに。私はそれを陽斗くんへの甘えだと断じ、彼女を地獄の底へと押し戻した。

 

 陽斗くんには、最初から他者の意思という概念がない。

 

 彼にとって、紗月の嫌だはもっと愛してであり、紗月の死にたいは君の一部になりたいなのだ。彼は嘘をついているのではない。本気で、そう翻訳しているのだ。彼の優しさは、相手を救うためのものではなく、相手を自分の中に取り込み、塗りつぶすための、最も純粋な暴力だった。

 

 その時。背後で、スッと空気が動いた。

 

「……美緒さん。見てくれたんだね」

 

 穏やかな、音楽のような声。

 振り返ると、そこに陽斗くんが立っていた。

 逆光で彼の顔は見えない。ただ、眼鏡の奥で瞳が、冷ややかに、けれどどこかよくできましたと言わんばかりの慈しみを持って光っている。

 

「陽斗、くん……。これ、何なの……? あなた、紗月に何をしてるの……!?」

 

「何って、愛しているだけだよ。君も手伝ってくれたじゃないか」

 

 彼は一歩、教室の中へ踏み込んだ。

 その足音一つで、私の全身の毛穴が恐怖で開くのを感じた。

 

「君が紗月の言葉を否定し、僕の元へ帰してくれたおかげで、彼女は今、とても純粋な絶望の中にいる。……ありがとう、美緒さん。君は本当に、僕たちのための良い道具だったよ」

 

「道具……!? 私は、紗月を助けたかっただけなのに……!」

 

「そう。その助けたいというエゴが、彼女の逃げ道を塞いだんだ」

 

 陽斗くんは床に落ちたノートを拾い上げ、埃を優しく払った。

 その仕草は、どこまでも優雅で、慈愛に満ちていて、だからこそ、この世のどんな悪意よりも悍ましかった。

 

 私は、悟った。

 この男に言葉は通じない。

 この男に、人間としての倫理は届かない。


 彼は、自分以外の人間を自分の物語を彩るための素材としか見ていない。

 そして何より――私は、自分が可愛い。

 この狂気に関われば、次は私が調律される。私の人生が、私の記憶が、このノートのようにバラバラに解体され、陽斗くんの都合の良いように書き換えられてしまう。

 

 私は、紗月を見捨てた。

 

「……ごめんなさい……! ごめんなさい、ごめんなさい……!」

 

 私は陽斗くんの脇をすり抜け、全速力で教室を飛び出した。

 後ろを振り返る勇気なんてなかった。

 紗月が今、どこで、どんな絶望の中にいるのか、考えたくもなかった。

 私はただ、自分の身を守るために、親友を怪物の胃袋の中に差し出したまま、逃げ出したのだ。

 

 廊下を走る私の背後で、陽斗くんの穏やかな笑い声が聞こえた気がした。

 世界が、急速に冷えていく。

 明日、紗月という少女は、この世界から消えてなくなる。

 陽斗くんという、底なしの虚無に飲み込まれて。


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