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幸福な窒息、あるいは白い檻  作者: 都桜ゆう


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最終章 紗月視点:私は、陽斗の世界に吸収されていく

 私は自分という存在の輪郭が、湿った霧のように希薄になっているのを感じながら目を覚ました。

 カーテンの隙間から差し込む光さえも、今日はどこかよそよそしい。部屋にあるお気に入りのぬいぐるみも、読みかけの本も、昨日まで私を形作っていたはずの私物たちが、すべて陽斗くんの許可を得てそこに置かれている標本のように見えた。

 

 陽斗くんは、家には来ない。

 玄関のチャイムを鳴らすことも、窓の外からこちらを覗き込むことも、私のスマホに執拗な着信を残すこともしない。物理的な接触は、昨日から完全に途絶えている。

 それなのに、部屋の空気の震え一つ、遠くで聞こえるカラスの鳴き声一つ、そのすべてが陽斗くんという巨大な意志に統制されているような、逃げ場のない圧迫感を放っていた。

 

 私は、逃げるのをやめた。

 正確には、逃げるという行為が無意味であることに気づいてしまったのだ。どこへ逃げても、そこが彼の庭であるのなら、逃走はただの円運動に過ぎない。

 だから私は、最後に残った僅かな理性を振り絞って、助けを求めることにした。


 リビングに降りると、母が鼻歌を歌いながら朝食を作っていた。トーストの焼ける匂い。いつもと変わらない家庭の風景。


「……お母さん。お願い、聞いて」


 私は母の背中に縋り付いた。震える指先が、母のエプロンを強く握りしめる。


「陽斗くんが、怖いの。私、あの人に心をバラバラにされてるみたい。お願い、どこか遠くへ行かせて。親戚の家でも、どこでもいい。彼の手が届かないところに……」

 

 母は野菜を切る手を止めなかった。包丁がまな板を叩く規則正しいリズム。トントントン、と。


「何言ってるの、紗月。陽斗くん、あんなにあなたのことを心配して、毎日私に電話をくれるのよ? 『紗月は今、自分を責めてパニックになっているから、お母さんだけは彼女を突き放さないで、大きな愛で包んであげてください』って。あんなにできた子、他にいないわよ」

 

「違うの、お母さん! あの人は私を愛してるんじゃない、私を『管理』してるだけなの!」

 

 母はゆっくりと振り返った。その瞳には、娘を案じる母親の慈しみがあった。けれど、その瞳の奥には、陽斗くんが植え付けた正解という名の寄生虫が、どっしりと根を張っていた。


「紗月、あなた、少し疲れすぎているのね。そんな風に親友まで悪く言うなんて、陽斗くんが言っていた通りだわ。……大丈夫、今日は学校へ行きなさい。陽斗くんに相談して、ゆっくり休ませてもらいなさいね。彼なら、あなたを正しく導いてくれるから」

 

 母の口から漏れるのは、母の言葉ではなかった。それは、陽斗くんが昨夜、あるいは数日かけて母の脳内にインストールした台本の再生だった。

 

 私は家を飛び出し、学校へ向かう途中のコンビニや、いつものバイト先に立ち寄った。誰でもいい、この調律の外側にいる人間に触れたかった。

 けれど、バイト先の店長も、いつも挨拶する近所の老人も、私を見るなり同じ顔をした。憐れみと、そして良き理解者である陽斗への全幅の信頼が混ざり合った、あの顔だ。

 

「紗月ちゃん、陽斗くんから聞いたよ。大変なんだってね。でも彼がついてるから安心だ」


「あんなに尽くしてくれる彼氏、大事にしなきゃダメだよ」

 

 絶望が、冷たい水のように足元からせり上がってくる。

 誰に言っても、返ってくるのは同じ言葉。

 世界が、陽斗くんというフィルターを通さなければ私を認識できなくなっている。


 学校に着くと、私は狂ったように美緒を探した。

 中庭で見つけた美緒は、私の姿を見るなり、弾かれたように後ずさりした。


 美緒の顔が恐怖に歪む。けれど、その恐怖の対象は陽斗くんではなく、彼に異常者として指名された私自身に向けられていた。


「……無理。無理だよ、紗月。陽斗くんの言うことが……一番正しいんだよ。あなたが、おかしいんだよ。……お願いだから、私を巻き込まないで。私まで壊れてるって思われたくないの」

 

 美緒は逃げ出した。

 彼女の善意は、陽斗くんという巨大な暴力の前に、一瞬で保身へと書き換えられた。

 

 私は逃げた。

 静寂を求めて図書館へ。

 雑踏に紛れるために駅へ。

 誰もいない公園へ。

 視線を遮るために、保健室のカーテンの陰へ。

 

 けれど、どこへ行っても、誰かが言うのだ。

 見ず知らずの他人が、すれ違いざまに。


「陽斗くんが、あっちで待ってるよ」


「あんなに愛されてるのに、どうして逃げるの?」


「陽斗くんの言うことが、君にとっての救いなんだよ」

 

 陽斗くん本人は、一度も私の前に現れない。

 指一本触れてこない。

 けれど、世界中の人々の口が、街中のスピーカーとなって彼の意志を、彼の声を、一斉に再生している。


 視界に入るすべての看板、スマホに届くニュースのヘッドライン、通り過ぎる車のエンジン音さえもが、陽斗くんの囁きを運んでくる。

 

 世界が、陽斗くんで満たされていく。

 私が何を考えようとしても、思考の先には常に彼の予測が待ち構えている。

 私が何を感じようとしても、その感情には既に陽斗くんへの反発=パニックというラベルが貼られている。

 

 もう、どこにも、私という個体が独立して存在できる空白地帯なんて残されていなかった。


 私は、這うようにして保健室へ辿り着いた。

 ここが最後だ。真っ白なシーツ、消毒液の匂い。ここだけは、学校という組織の中でも異質な、シェルターのような場所のはずだった。

 

「先生……助けて……。世界が、陽斗くんでいっぱいなの……。私の居場所が、どこにもないの……」

 

 保健室の先生は、窓の外を眺めていた。私が駆け込むと、彼女はゆっくりと振り返り、カーテンを閉めた。室内が、昼間だというのに薄暗い、閉鎖的な空間へと変貌する。

 先生は私をベッドに横たわらせ、額に冷たいタオルを置いた。その手つきは驚くほど優しく、そして、この上なく残酷だった。

 

「……そう。やっと、自分の状態が分かったのね、紗月さん」

 

 その瞬間、世界から音が消えた。

 先生の瞳は、凪いでいた。陽斗くんに洗脳されているというよりは、陽斗くんが提示した紗月の救済計画という完璧な論理に、心から納得し、共鳴している者の目だった。

 

「陽斗くんはね、あなたのことを世界で一番理解しているの。あなたが今、どれほど苦しくて、どれほど孤独で、どれほど彼を求めているか。……ねえ、もう強がらなくていいのよ。彼がいない世界なんて、あなたにはもう、広すぎて歩けないでしょう?」

 

「来ないで……お願い……来ないで……」

 

 私は布団を頭から被り、胎児のように丸まって震えた。

 けれど、先生は微笑みを崩さない。彼女は私の震える肩を上から優しく叩き、机の上のスマホを手に取った。

 

 静寂の中に、着信音が響く。

 それは、私のスマホではない。先生のスマホだ。

 先生は、迷うことなく通話ボタンを押し、スピーカーをオンにした。


『――紗月。聞こえるかい?』

 

 スマホの小さなスピーカーから流れる、あの穏やかで、澄んだ、陽斗くんの声。

 けれど、その声はもはや一箇所から聞こえてくるものではなかった。

 保健室の四方の壁から、換気扇の奥から、ベッドの鉄パイプの振動から、共鳴するように彼の声が降り注いでくる。

 

『君は今、とても不安だろう。自分の輪郭が消えていくのが怖いだろう。……でも、大丈夫。それは君が、僕という世界に溶け込むための、必要な痛みなんだよ。世界が僕の言葉で満たされるのは、君をこれ以上、他人という不確定要素で傷つけないためなんだ』

 

「違う……違う……! やめて……! お願い、消えて!!」

 

 私が絶叫しても、先生は動じない。彼女は私の肩を、まるで聖母のような温かさで抱きしめる。その温もりが、今は何よりも鋭利な針となって、私の皮膚を突き刺し、血管を通って心臓へと毒を運んでくる。

 

『美緒さんも、お母さんも、先生も……みんな、僕が無理やり従わせたわけじゃない。彼らはみんな、自発的に君を助けようとしているんだよ。君という、壊れかけた哀れな少女を、僕という唯一の正解へ導いてあげることが、彼らにとっての善意なんだ』

 

 陽斗くんの声は、確信に満ちていた。

 彼は嘘をついていない。彼は本気で、この世界を自分色に塗りつぶすことが、私への究極の愛だと信じている。そして、世界もまた、彼の圧倒的な正しさに屈服し、彼の物語の一部になることを選んだ。

 

『さあ、目を開けて、紗月。そこにあるのが、君のために調律された、本当の世界だ』


 私は、ゆっくりと目を開けた。

 視界に入ってきたのは、保健室の真っ白な天井と、先生の優しい笑顔。

 けれど、その白さは、もはや色の白さではなかった。

 それは、すべての意味を剥奪された無の白さ。


 私が私は嫌だと思うことさえも、陽斗くんの物語の中では自己愛の裏返しとして処理される。私が逃げたいと思う衝動さえも、彼への依存の現れとして記録される。

 

 何をしても、何を思っても、最後には陽斗くんの手のひらの上に着地する。

 

 ああ、そうか。

 私はもう、逃げられないのではない。

 逃げるための私が、もうどこにも存在しないのだ。

 

 私の思考は、彼によって先回りされ、解体された。

 私の感情は、周囲の善意という名の暴力によって上書きされ、消去された。

 私の肉体は、この真っ白な世界の中に、彼の愛という名の標本として固定された。

 

 恐怖は、限界を超えると、真っ白な虚無へと変わるのだということを、私は初めて知った。

 抗うことが苦しみを生むのなら、抗うのをやめればいい。

 考えることが絶望を招くのなら、考えるのをやめればいい。

 

 自分という輪郭を保とうとするのをやめた瞬間、耐え難いほどの重圧が、ふっと消えてなくなった。

 

 私はもう、私でなくていい。

 陽斗くんという、全知全能の神様が書いた物語の中の、可哀想で幸せなヒロインとして、ただ息をしていればいい。

 

 自分の輪郭が、世界に溶けていく。

 先生の抱擁が、今度は毛布のように私を包み込み、外界から私を守る檻へと変わった。

 

 スピーカーから、彼の声が、最愛の恋人に囁くような、甘く、低い温度で届く。

 

『……ねえ、紗月。もう、疲れただろう? 僕と一緒にいるのが、この世界で一番、幸せで、安全だろう?』

 

 私は、世界そのものに押し潰されるように、

 自分の消えゆく意識の最期に、一滴の、けれど決定的な諦めを混ぜて、呟いた。


 保健室の窓の外、夕暮れが街を飲み込もうとしている。

 けれど、私はもう、その夜を恐れることはない。

 

 私は、ゆっくりと口を開いた。

 その声は、私の声であって、私の声ではなかった。

 陽斗くんが何千回も世界にスピーカーを通して再生させ、ついに私自身に定着させた、翻訳済みの私の答え。

 

「……うん。陽斗といると、安心する」

 

 その瞬間、世界は完全に白に染まった。

 私は、幸福な窒息の中で、二度と自分自身の声を取り戻すことのない、美しい悪夢の中へと、深く、深く、沈んでいった。




(C),2026 都桜ゆう(Yuu Sakura).

 最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。


 世界が、一人の少年の物語に塗りつぶされるまでの記録でした。

 彼女の「安心する」という一言が、皆様の耳にどう響いたでしょうか。


 もし作品を気に入っていただけましたら、評価やブックマークをいただけますと大変励みになります。


 また別の物語でお会いしましょう。

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