第4章 紗月視点:世界が、陽斗の物語に書き換えられていく
朝、目が覚めた瞬間に感じたのは、刺すような違和感だった。
自分の部屋、自分のベッド、自分の使い慣れた家具。それらすべてが、昨日までとは違う、冷たくてよそよそしい色を帯びているように見えた。
スマホを開くのが怖い。でも、開かなければ彼が心配して家まで来るかもしれない。
震える指で電源を入れる。案の定、陽斗くんからのメッセージが画面を埋め尽くしていた。
『おはよう、紗月。昨夜はよく眠れたかな? 君の夢の中に、僕はお邪魔できていたかな。今日という一日が、君にとって愛に満ちたものになるよう、僕は朝から祈っているよ』
一文字一文字が、粘りつくような嫌悪感を伴って私の脳に侵入してくる。
私は吐き気を堪えながら、逃げるように家を出た。
まだ誰もいない早朝の街を歩けば、少しは自分の思考を取り戻せると思ったのだ。けれど、どこを歩いても、誰とすれ違っても、私の背後には常に彼の気配がつきまとっていた。
学校に着くと、私は真っ先に美緒の元へ向かった。
昨日、中庭で彼女にすべてを話した。私の震える手を握ってくれた彼女だけは、私の真実を知っている唯一の味方のはずだった。
「美緒……! お願い、助けて。陽斗くんが、昨日からずっと……」
駆け寄った私に、美緒はゆっくりと顔を上げた。
けれど、その瞳を見た瞬間、私の心臓は凍りついた。
昨日までそこにあったはずの私への共感や戸惑いが、跡形もなく消え失せていた。代わりにそこにあるのは、迷える哀れな子供を見守るような、ひどく穏やかで、そして残酷なまでに静かな慈しみだった。
「紗月……。もう、強がらなくていいんだよ?」
美緒の声は、耳を疑うほど優しかった。その優しさが、鋭利な刃物のように私の心を切り裂く。
「え……? 何、言ってるの? 美緒、昨日あんなに話したじゃない。陽斗くんが怖くて、何を言っても通じないって……」
「うん、聞いたよ。でもね、陽斗くんからもお話を聞いたの」
美緒は私の手をそっと包み込んだ。その温もりが、今は何よりも恐ろしい毒のように感じられる。
「彼、泣いてたよ。紗月が自分を追い込みすぎて、パニックになっちゃってるって。彼が完璧すぎて、自分がふさわしくないんじゃないかって……不安で壊れそうになってる君を、どうやって救えばいいかわからないって、あんなに一生懸命に相談してくれたんだよ」
「違う……! それは彼の嘘だよ! 彼は私の言葉を全部、自分に都合よく言い換えてるだけなの!」
私は叫んだ。教室中の視線が私たちに集まる。でも、美緒は動じない。ただ、悲しそうに首を振るだけだ。
「紗月、それこそが病気なんだって。陽斗くんが言ってた通りだわ。あなたは今、あまりにも大きな愛を前にして、それを攻撃だと勘違いしちゃってるの。一種の自衛本能なんだろうけど……でも、そんな風に彼を悪者にするのは、もうやめよう? 彼はあなたのために、先生にも、お母さんにも相談して回ってるんだよ。君を一人にしないために」
頭の奥が、キーンと鳴った。
——先生にも。お母さんにも。
陽斗くんが、私の預かり知らないところで、私の異常性を周囲に宣伝して回っている。
私の必死のSOSを、彼は愛の裏返しによるパニックという、美しくもおぞましいラベルを貼って、すべて無効化してしまったのだ。
「違う……助けて……美緒、信じてよ……」
私の絞り出すような声は、美緒の耳には届かない。
彼女は今、陽斗くんが書き上げた可哀想な紗月を救う聖女という役割に酔いしれている。彼女の善意こそが、私を逃げ場のない檻へと追い詰める最強の格子になっていた。
美緒の背後、教室の入り口。
そこには、いつの間にか陽斗くんが立っていた。
彼は私と目が合うと、優しく、慈愛に満ちた笑みを浮かべて、ゆっくりと頷いてみせた。
その瞬間、私は理解した。
私の唯一の親友は、もうこの世界には存在しない。目の前にいるのは、陽斗くんという神様が作り上げた、彼の都合の良い操り人形でしかないのだ。
放課後。私は一分一秒でも早く学校を離れたかった。
けれど、逃げ帰ったはずの家も、もはや私の知っている我が家ではなかった。
玄関を開けると、母がリビングで待っていた。その顔には、隠しようのない不安と、そして覚悟のような色が浮かんでいた。
「お帰り、紗月。……そこに座りなさい」
母の声は硬かった。私は震えながらソファに腰を下ろした。
「今日、陽斗くんから電話があったわよ。……紗月、あなた、学校で彼にひどいことを言ったんですって? 『監視されてる』とか、『殺される』とか……そんな突飛なことを。彼はあんなに心配して、あなたの顔色が悪いからって、サプリメントや安眠グッズまで用意してくれてるのに」
「お母さん、聞いて! あの人がおかしいの! 私のスマホも、行動も、全部把握されてるみたいで……。何を言っても『照れてる』とか『愛してる証拠だ』って言われて、私の言葉が届かないの!」
私は母の膝に縋り付いて泣いた。
けれど、母から返ってきたのは、抱擁ではなく、深い、深い溜息だった。
「……陽斗くんが言っていた通りね。被害妄想まで出ちゃって。
紗月、お母さんは悲しいわ。あなたがそんなに弱かったなんて。……彼はね、あなたが自分の殻に閉じこもって、自分を傷つけようとしているのを必死で止めようとしているのよ。あんなに誠実で、成績も良くて、先生からの信頼も厚い子が、どうしてあなたを傷つける必要があるの?」
「違う……あの人は、私を見てるんじゃないの! 自分の頭の中の私を愛してるだけなの!」
「もういいわ、紗月」
母は私の手を冷たく振り払った。
「あなたは今、少し心が病んでいるのよ。彼が言っていたわ。『紗月は今、現実と妄想の区別がつかなくなっている。だから、彼女が何を言っても否定せずに、ただ愛していると伝えてあげてください』って。お母さんもそうするわ。あなたが正気に戻るまで、私たちはあなたを一人にはしないから」
母の瞳には、狂信的なまでの善意が宿っていた。
陽斗くんは、私の母までも共犯者に仕立て上げたのだ。
私が何を訴えても、母にとっては治療が必要な患者の発作にしか聞こえない。
私が「助けて」と言えば、「大丈夫、陽斗くんが助けてくれるわよ」と返ってくる。
私が「嫌い」と言えば、「それは愛している証拠よ」と諭される。
家という、世界で一番安全なはずの場所が、今は陽斗くんの声で満たされた、音の反響する密室になっていた。
翌日。私はもう、一言も喋る気力が湧かなかった。
けれど、追い詰められるスピードはさらに加速していく。
昼休み、私は担任の先生に呼び出された。
進路指導室の、ひんやりとした空気。先生は机の上に、陽斗くんから手渡されたのであろうメモを置いて、私を憐れむように見つめた。
「紗月さん。最近、情緒が不安定なようだね。陽斗くんからすべて聞いているよ」
先生の言葉は重く、そして決定的な断罪だった。
「彼は君のことを、自分のこと以上に考えている。君が精神的に追い詰められて、自分を見失っていることを、彼は自分の責任だと感じて責めているんだ。
……紗月さん、君はもっと、彼の献身に感謝すべきだ。彼のような優れた生徒が君を支えようとしている。それを拒絶し、あまつさえ監視されているなどと周囲に言い触らすのは、恩知らずと言わざるを得ない」
「先生……私は……」
「言い訳はいい。君に必要なのは、休息と、そして彼への信頼だ。……先ほど、お母さんともお電話で話した。これからは、君の様子を陽斗くんにも逐一報告してもらうことにしたよ。君がパニックを起こしたとき、一番に駆けつけられるのは彼だからね。……さあ、教室に戻りなさい。陽斗くんが外で待っているよ」
——陽斗くんが外で待っている。
その言葉が、死刑執行の合図のように聞こえた。
学校という、法とルールが支配するはずの場所までもが、陽斗くんの作り上げた「愛の物語」の一部に取り込まれてしまった。
先生も、カウンセラーも、みんな笑顔で私を檻の中へと押し込めていく。
「あなたのためを思って」という、最も抗い難く、最も凶暴な暴力を使って。
私は、学校を飛び出した。
授業なんてどうでもいい。単位なんてどうでもいい。
ただ、陽斗くんの視線が届かない、彼の物語が存在しない場所へ行きたかった。
全力で走り、電車を乗り継ぎ、隣町の大きな図書館へ入った。
静寂。ここなら、彼は来られないはずだ。私は本棚の陰に身を隠し、ようやく呼吸を整えた。
けれど、わずか数分後。
私の真横で、本を棚に戻す音がした。
「……この本、面白いよね。紗月が好きそうな内容だ」
凍りついたまま、ゆっくりと横を見る。
そこには、いつもの穏やかな笑顔で、私を見つめる陽斗くんがいた。
「……どうして」
声が震え、涙が溢れ出した。
「どうして、ここにいるの? つけてるんでしょ? GPSか何かで、私を……」
「ひどいな、紗月。そんなもの、使うわけないじゃないか」
陽斗くんは一歩近づき、私の涙を親指でそっと拭った。
「君が僕を呼んでいるんだよ。君の心が、助けてほしいって、僕を求めて叫んでいる。だから、僕は吸い寄せられるように、君のいる場所へ導かれてしまうんだ。……これは運命なんだよ、紗月。僕たちは、魂のレベルで繋がっているんだから」
彼は本気だ。
本気で、私が彼を呼んだと信じている。
私が逃げれば逃げるほど、彼はそれをかくれんぼを楽しんでいると解釈し。
私が拒絶すればするほど、彼はそれをもっと激しく愛してほしいという合図だと翻訳する。
私はその後も、逃げ続けた。
駅前の賑やかなカフェ。
人通りの多い公園。
誰もいない廃ビルの裏。
けれど、どこに行っても、彼はいた。
追いかけてくるのではない。最初からそこにいたかのように、彼は風景の一部として私を待っているのだ。
美緒の言葉。
母の視線。
先生の指導。
そして、どこにでも現れる彼。
私の世界の所有権は、もう私にはない。
私の行動、私の思考、私の人間関係。そのすべてが陽斗くんというフィルターを通さなければ存在を許されない。
空を見上げても、その青さすら陽斗くんが用意した背景幕のように見えてくる。
私は気づいてしまった。
世界そのものが、陽斗くんの書いた台本を完璧に演じるための巨大な舞台装置に変貌してしまったのだということに。
そして私は、その舞台の上で、たった一人で狂っていく少女という役割を演じさせられ続けている。
出口はない。
どこへ逃げても、誰に助けを求めても、最後には必ず彼の腕の中に辿り着く。
絶望は、もはや恐怖ですらなかった。
それは、真綿で首を絞められるような、静かで、甘やかで、逃れられない窒息感だった。
私は、自分の輪郭が少しずつ溶けていくのを感じていた。
陽斗くんの物語。
陽斗くんの世界。
陽斗くんの、愛。
それらに塗り潰されて、私の本当の言葉は、もはや自分自身の耳にさえ届かなくなっていた。




