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幸福な窒息、あるいは白い檻  作者: 都桜ゆう


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第3章 陽斗視点:紗月のために、人間関係を整える

 窓の外では、春の陽光が残酷なまでに美しく降り注いでいる。

 僕はその光を浴びながら、自室の机に向かい、一冊のノートを開いていた。そこには紗月の起床時間、登校ルート、授業中の視線の動き、そして昨日僕が送ったメッセージに対する彼女の微細な反応が、整然とした文字で記録されている。


 昨日の放課後、校門の前で彼女が見せたあの震え。

 僕の腕の中で、必死に何かを訴えようとしていたあの瞳。

 普通の男なら、あれを恐怖や拒絶と受け取って、情けなくも身を引くのだろう。けれど、僕だけは知っている。あれは、あまりにも純粋で巨大な愛を前にして、自分の心が壊れてしまうことを恐れている、魂の痙攣なのだ。


(大丈夫だよ、紗月。君が怖がっているものは、全部僕が取り除いてあげるからね)


 僕はペンを置き、静かに立ち上がった。

 庭師が、美しいバラの蕾を咲かせるために、栄養を奪う雑草を抜き、余計な方向に伸びた枝を切り落とすように。

 僕もまた、紗月の周りにあるノイズを整理しなければならない。彼女が僕という唯一の真実にだけ集中できるように。彼女が迷わずに、僕の用意した幸福な物語に身を委ねられるように。


 今日、僕は世界を調律する。

 紗月の周囲にあるすべての鏡が、僕の望む通りの彼女の姿しか映し出さないように、一つひとつ丁寧に、優しく、書き換えていくのだ。


 最初のターゲットは、美緒さんだ。

 彼女は紗月にとっての逃げ場になっている。


 昨日の昼休み、中庭で彼女たちが密談していた内容は、僕の耳には届かずとも、その空気感で手に取るようにわかった。美緒さんは、紗月の臆病な逃走を正当な防衛だと勘違いし、彼女を僕から引き離そうとしている。


 それは、紗月の幸福にとって明確な害だ。

 昼休み、僕は校舎の裏、人通りの途絶えた中庭への通路で美緒さんを待ち伏せした。彼女は僕の姿を見ると、一瞬、狙われた小動物のように肩を強張らせた。


「美緒さん、少し時間いいかな。……紗月のことで、どうしても君に相談したいことがあるんだ」


 僕は声を震わせ、いかにも深く傷つき、それでも彼女を想う悲劇の恋人という仮面を被った。

 美緒さんは警戒した目つきを崩さなかったが、僕の瞳に浮かべた偽りの涙——実際には、期待に胸を躍らせているせいで潤んでいるだけなのだが——を見て、わずかに毒気を抜かれたようだった。


「……陽斗くん。何? 紗月、あんなに怖がってたよ」


「……そうだよね。やっぱり、君にはそう見えていたんだね」


 僕は深く、重苦しい溜息をつき、壁に寄りかかって項垂れた。


「実は、僕も悩んでいるんだ。……昨日、紗月から距離を置きたいって言われたんだよ。でも、その理由を聞いて、僕は胸が張り裂けそうになった」


「理由……?」


 僕は顔を上げ、美緒さんの目をまっすぐに見つめた。そこには、純粋な、狂気じみた誠実さを詰め込んで。


「彼女、泣きながら言ってたんだ。『陽斗くんが完璧すぎて、自分が汚れているように感じる。一緒にいると、自分が壊れてしまいそうで怖い』って。

 ……彼女はね、自分自身のことが信じられないんだよ。僕からの愛が深すぎて、それに応えられない自分を、彼女は激しく責めているんだ」


 美緒さんの瞳が、大きく見開かれた。

 人間の脳は、整合性を求める。昨日の紗月の陽斗が怖いという言葉と、僕が今提示した「自分の中の愛が怖くて、それを陽斗のせいにしている」という解釈。どちらがより美しい物語か。


「それは……陽斗くんが怖いんじゃなくて、自分の気持ちが制御不能になるのが怖いってこと?」


「そうなんだよ、美緒さん! さすがは親友だね、理解が早くて助かるよ」


 僕は彼女の両肩に、そっと、でも拒絶できない強さで手を置いた。


「彼女は今、パニックになっているんだ。あまりにも大きな幸福を前にして、そこから逃げ出すことで自分を守ろうとしている。

 ……お願いだ、美緒さん。君からも言ってあげてほしい。『強がらなくていいんだよ、陽斗くんを信じていいんだよ』って。僕が言っても、彼女は自分なんてふさわしくないとますます殻に閉じこもってしまう。親友の君の言葉だけが、彼女の頑固な心を溶かすことができるんだ」


 美緒さんの顔から、迷いが消えていく。

 彼女の中に、可哀想な親友を、献身的な彼氏の元へ導いてあげる救世主という新たな役割が芽生えたのだ。


「……わかったわ。紗月、そんなに追い詰められてたのね。陽斗くんのこと、あんなに好きなのに……バカね、あの子。私、ちゃんと話してみる。陽斗くんがどれだけ彼女を大切に思ってるか、私が証明するから」


「ありがとう、美緒さん。君がいてくれて、本当によかった。紗月の本当の理解者は、やっぱり君だね」


 美緒さんが去っていく背中を見送りながら、僕は暗い悦びに浸った。

 これで、紗月の唯一の避難所は、僕へと続く一本道に作り変えられた。彼女がどれほど美緒に助けてと叫んでも、美緒はそれを愛ゆえの混乱として、優しく僕の腕の中へ押し戻すだろう。


 なんて美しい友情だろう。他人の善意を利用して、愛する人を追い詰める。これ以上の快楽が他にあるだろうか。


 放課後、僕はあえて紗月よりも一足早く学校を後にした。

 彼女の帰宅路にある、古ぼけたスーパーの前。そこが、彼女のお母さんの定位置であることを僕は知っている。


 数分後、買い物袋を下げたお母さんの姿が見えた。僕は人当たりの良い、清潔感溢れる笑顔を作って駆け寄った。


「お母さん! こんにちは。お買い物ですか? 重そうですね、持ちますよ」


「あら、陽斗くん。いつも気が利くわね、ありがとう」


 お母さんは僕を信頼しきっている。娘にこれほど出来た彼氏ができたことを、彼女は心から喜んでいた。僕は袋を受け取り、わざとゆっくりとした足取りで歩き出した。


「お母さん……実は、少し相談がありまして。最近、紗月の様子、家ではどうですか?」


 僕が声を落とし、沈痛な面持ちを作ると、お母さんの顔にもすぐさま影が差した。


「ええ……そうなのよ。昨日も、夜中にずっと起きていたみたいで。朝も顔色が悪いし、なんだか私に対しても、時々すごく怯えたような目をするのよね。思春期特有のものかしらって思ってたんだけど……」


 僕は足を止め、お母さんの目を真剣に見つめた。


「実は、学校でも少し心配なことが起きているんです。

 ……彼女、時々、現実と妄想の区別がついていないような発言をすることがあるんです。突然泣き出したり、僕のことが誰だか分からなくなったような顔をしたり……。

 昨日も、僕が『愛してるよ』と言ったら、彼女、真っ青になって『来ないで』って叫んだんです。まるで、僕が彼女を傷つける悪魔にでも見えているみたいに」


 お母さんは絶句した。

 

「そんな……あの子、どうしちゃったの……」


「精神的に、かなり追い詰められているんだと思います。自分への自信のなさが、周囲への攻撃性や被害妄想として現れているのかもしれません。

 ……お母さん、もし家でも紗月が変なことを言い出したら、あまり刺激せずに、優しく包み込んであげてください。『陽斗くんが怖い』とか、『監視されている』なんて突拍子もないことを口走るかもしれませんが……それは彼女の心が、今、悲鳴を上げている証拠なんです。

 僕を拒絶することで、彼女は壊れそうな自分を必死に守ろうとしているんです」


 お母さんは僕の腕に縋り付き、涙を浮かべた。


「陽斗くん……。本当に、あなたみたいな子が紗月のそばにいてくれて良かったわ。あの子、昔から少し思い込みが激しくて、一度疑い出すと止まらないところがあったから。……お願いね、見捨てないであげて。あの子を支えられるのは、あなたしかいないわ」


「もちろんです、お母さん。僕は一生、紗月を離しません。たとえ彼女に嫌われても、それが彼女を救う道なら、僕は喜んで泥を被りますよ」


 お母さんは僕の自己犠牲に感動し、何度も頭を下げた。

 これで家庭という最後の砦も陥落した。

 紗月が食卓で、あるいは寝室で、僕の異常性をどれほど必死に訴えても、それはすべて病気や不安定な時期の妄想として、お母さんの慈愛という名のフィルターに吸い込まれて消えていく。

 お母さんは僕の協力者となり、紗月が発するSOSのすべてを治療が必要な症状として処理する装置になったのだ。


 翌朝、登校した僕は真っ直ぐに職員室へと向かった。

 担任の先生は、朝の打ち合わせ前で忙しそうに書類を整理していたが、僕の姿を見ると手を止めてくれた。学年トップの成績を収め、生徒会長候補とも目される僕の言葉は、この学校において絶大な真実味を持っている。


「先生、お忙しいところ申し訳ありません。……紗月さんのことで、少しご相談が」


「おお、陽斗か。紗月さんがどうかしたか?」


 僕はあらかじめ用意しておいた、彼女の異常な言動を記した偽のメモをポケットから取り出した。


「最近、彼女の情緒が非常に不安定なんです。……先生も、授業中の彼女の集中力が欠けていることにお気づきではありませんか? 実は、彼女、自分の中に強い強迫観念を抱えているみたいで。僕との関係に対しても、『自分は陽斗くんに監視されている』とか、『自由を奪われている』といった妄想を口にするようになったんです」

 

 先生は眼鏡を指で押し上げ、眉をひそめた。


「監視……? 陽斗くんが、か? それは、穏やかじゃないな」


「ええ。僕もショックでした。でも、カウンセリングの本で読んだんです。強い依存心を持つ人間は、相手の愛が重すぎると感じると、それを攻撃だと脳内で変換してしまうことがあるそうです。

 彼女は今、僕の愛に押し潰されそうになって、防衛本能として僕を悪者に仕立て上げているんです。……先生、もし彼女が保健室に行きたがったり、早退したいと言い出したりしたら、どうか僕に一度連絡をいただけませんか? 彼女を一人にすると、そのままどこかへ消えてしまいそうな気がして怖いんです」


 先生は僕の肩を力強く叩いた。


「わかった、陽斗。お前の苦労はよくわかるよ。これほどまでに彼女のことを想っているのに、当の本人に理解されないというのは辛いだろうな。紗月さんのことは、私からも気にかけておこう。スクールカウンセラーにも、それとなく話を通しておく。お前は心配せず、自分の学業に専念しなさい」


「ありがとうございます、先生。……彼女を、よろしくお願いします」


 職員室を出る際、背後に感じた先生たちの視線は、同情と称賛に満ちていた。

 これで、学校という公的な空間までもが、僕の愛の物語を補完する背景になった。

 彼女がどれほど叫ぼうとも、暴れようとも、周囲の大人たちはそれを可哀想な少女の発作として扱い、僕という唯一の理解者の元へと彼女を導いてくれる。


 放課後の廊下。僕は窓から校庭を眺めていた。

 そこには、美緒さんと一緒に歩く紗月の姿があった。紗月は必死に何かを美緒に訴えている。手を振り回し、顔を歪ませて。


 けれど、美緒さんはそれを遮るように首を振り、紗月の肩を優しく抱いている。きっと、「陽斗くんを信じてあげて」と諭しているのだろう。

 紗月が絶望したように立ち止まり、天を仰ぐ。


 その光景が、あまりにも美しくて、僕は思わず笑みが漏れるのを抑えられなかった。


(いいよ、紗月。もっと絶望して。もっと孤独を味わって)


 今、君の周囲にある世界は、僕という指揮者が完璧に調律したオーケストラだ。

 君がどんな音を奏でようとしても、他のすべての楽器が僕の書いた楽譜に従って、君の声を愛の賛歌へと書き換えてしまう。


 美緒さんも、お母さんも、先生も。

 彼らはみんな、君を救おうとしている善意の使者だ。けれどその善意こそが、君の逃げ場を完全に塞ぐ、最も強固な檻の格子になる。


 誰も君の言葉を信じない。

 誰も君の恐怖を理解しない。

 君が助けを求めて手を伸ばす相手は、すべて僕の協力者だ。

 

 世界そのものが、君を陽斗を愛する幸せな少女として演じさせるための舞台になった。

 その舞台の上で、君はたった一人で踊り続ける。

 そして、心も体も疲れ果て、誰にも届かない叫びに喉を潰したとき。

 君は気づくはずだ。

 この世界で唯一、君の言葉を——たとえそれが僕への呪いであっても——受け止めてくれるのは、僕だけなのだと。


(さあ、紗月。もうすぐだよ)


 君の瞳から自分以外の光が消え、僕だけを映すようになるその瞬間。

 君の心がポキリと折れて、僕の用意した安らぎの中に溶けていくその瞬間。

 僕はそのとき、初めて君を本物の愛で抱きしめてあげよう。


 僕はスマホを取り出し、今日51通目のメッセージを打った。


『紗月、世界はこんなにも君に優しいよ。みんなが君のことを心配している。安心して、僕の胸に飛び込んできてね』


 送信ボタンを押した瞬間、僕の指先は歓喜の震えで止まらなくなった。

 愛とは、支配だ。

 愛とは、世界の再構築だ。

 僕は今、神様にも等しい万能感に包まれている。

 

 愛しているよ、紗月。

 明日の朝、君に会えるのが待ち遠しくて仕方ない。君がどんな顔で、僕という絶望を見上げてくれるのか。その表情を想像するだけで、僕の夜は甘い蜜で満たされるんだ。


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