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幸福な窒息、あるいは白い檻  作者: 都桜ゆう


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第2章 紗月視点:私の拒絶が、拒絶として届かない

 第1章を読んでからこちらを開いていただき、ありがとうございます。

 ここからは、聞こえてはいけない悲鳴の時間です。

 朝、校門が見えた瞬間に足が重くなった。

 春の爽やかな風も、満開を過ぎて散り始めた桜も、今の私には灰色に濁って見える。視界の端に、あのお馴染みの背中を見つけた。陽斗くんだ。今日も彼は、一分の狂いもなくそこに立って私を待っている。


「おはよう、紗月。今日も会えて嬉しいよ」


 陽斗くんが微笑む。少女漫画から抜け出したような、完璧に整った笑顔。制服の着こなしも、挨拶の仕方も、非の打ち所がない。周囲の女子生徒たちが、羨ましそうにこちらを振り返るのがわかる。

 でも、私にはわかる。その笑顔が、精巧に作られたプラスチックの仮面のように、温度を持っていないことが。


「あ……陽斗くん。おはよう」


 精一杯、声を絞り出す。彼は私の顔をじっと覗き込んできた。

 その視線は、恋人を見守る愛おしいものじゃない。壊れた時計の部品を調べる時計職人のような、あるいは、虫籠の中の蝶を観察する子供のような、一方的で、冷たく、そして執拗な分析の視線だ。


「紗月、顔色が悪いよ。……そっか、昨日は僕のことを考えすぎちゃったんだね。無理しちゃだめだよ、僕に甘えたいときは、言葉にしなくてもいいんだ」


 ——違う。

 喉元まで出かかった言葉を、かろうじて飲み込む。


 昨日の夜、彼から届いた膨大な量のメッセージ。最初は「今日楽しかったね」という普通の言葉だった。それが数分おきに、通知の音が止まらなくなる。


「今、何してる?」

「僕のことを考えてる?」

「返信がないのは、僕への愛が大きすぎて言葉に詰まっているんだね」


 怖くなって電源を切ったけれど、暗闇の中でスマホの画面が明滅する幻覚が見えて、私は一睡もできなかったのだ。


「あ……ごめん。ちょっと、寝不足で。あのね、陽斗くん。メッセージ、あんなにたくさん送られると、正直……ちょっと、負担っていうか、怖くて」


 初めて、はっきりと言葉にした。私の心にある、本当の拒絶。

 けれど、陽斗くんの瞳に動揺はなかった。むしろ、さらに深い慈しみ——私という愚かな存在をすべて許容するかのような、歪んだ慈愛がその目に宿った。


「わかっているよ。嬉しかったんだろう? でも、あまりの幸福に自分のキャパシティを超えてしまったんだね。愛される恐怖、っていうのかな。君の弱さも、僕は全部愛しているよ」


 届かない。

 私の怖いという言葉は、彼の耳に届いた瞬間に、彼の脳内で嬉しいという正反対の信号に変換される。

 陽斗くんが手を伸ばして、私の頬に触れようとする。私は反射的に、跳ねるように身を引いた。

 これは明確な拒絶だ。誰が見ても、触らないでというサインだ。

 なのに、彼はそれを見て、満足げに目を細めた。


「そんなに照れなくてもいいのに。君の沈黙は、僕にとってどんな愛の言葉よりも雄弁だよ」


 指先が、芯から冷えていく。

 何を言っても、どんな態度をとっても、彼の僕たちは最高に愛し合っているという強固な物語の中に、私は無理やり引きずり込まれていく。

 学校への道が、まるで出口のない迷路のように、私を締め付けていた。


 一時間目から四時間目まで、授業の内容は全く頭に入らなかった。

 後ろの席から、陽斗くんの視線が突き刺さっているのを感じる。私が教科書をめくる音、ペンを走らせる音、ふとした瞬間の溜息。そのすべてを彼が拾い上げ、自分勝手な意味を与えていると思うと、吐き気がした。


 昼休み。私は弁当を掴むと、逃げるように教室を飛び出した。

 向かったのは中庭の端、大きな木に隠れるように設置されたベンチだ。そこに、親友の美緒が待っていた。


「……もう、無理だよ、美緒」


 私は美緒の隣に座り込むなり、顔を覆った。声が震えるのを止められなかった。


「紗月……大丈夫? そんなにボロボロになって。陽斗くん、あんなに優しそうなのに……」


「そうなの。みんな、そう言う。優しいって。でも、違うの。美緒、あの人は私の話を聞いてるんじゃない。自分の頭の中にいる私と喋ってるだけなんだよ」


 私は、朝の出来事を、昨夜のメッセージのことを、必死で美緒に説明した。

 美緒は最初、戸惑ったような顔をしていたけれど、私の尋常じゃない震えを見て、次第に表情を強張らせていった。


「……それ、ちょっとおかしいよ。一回、ちゃんとお休みした方がいいんじゃない? 距離を置くっていうか……」


「やってみたよ! 少し一人になりたいって言ったの。でも、彼はそれを愛の確認だと思っちゃう。冷たくすればするほど、もっと情熱的に愛してほしいという合図だって……。ねえ、美緒、私、どうすれば彼に嫌いって伝えられるの?」


 美緒が私の手を握った。その体温に、少しだけ人心地がついた。

 美緒だけは、私の味方でいてくれる。この窒息しそうな世界で、唯一の酸素だ。

 そう思った、その時だった。


「お待たせ、二人とも。お邪魔かな?」


 背後から聞こえた声に、心臓が口から飛び出しそうになった。

 いつの間に。足音なんて、全くしなかった。

 陽斗くんが、いつもの穏やかな笑顔で、私たちのすぐ後ろに立っていた。


「陽斗くん……!」


「美緒さんも、紗月の相談に乗ってくれてありがとう。……紗月、やっぱり美緒さんには素直になれるんだね。僕への愛が大きすぎて怖くなっちゃったって、さっき美緒さんに泣きついていたんだろう?」


 心臓の鼓動が耳の奥でうるさく鳴り響く。

 陽斗くんは私の隣に歩み寄り、当然のように私の肩を抱いた。逃げようとしても、その指は驚くほど強く食い込み、私をベンチに固定する。


「あ、あのね、陽斗くん。紗月、本当にちょっと疲れてるみたいで……」


 美緒が気を利かせて言ってくれた。でも、陽斗くんの翻訳は、既に美緒の言葉すらも侵食し始めていた。


「わかっているよ、美緒さん。紗月は臆病だから。完璧な幸福を前にすると、壊してしまうのが怖くて逃げたくなる。一種のマリッジブルーみたいなものかな。

 ……紗月、そんなに不安にならなくていいんだよ? 僕は君がどれほど自分を否定しても、その分だけ君を愛してあげるから」


 美緒の表情が、わずかに揺れた。

 彼女の目には、今の陽斗くんが「情緒不安定な恋人をどこまでも深く、寛大に受け止めている聖人」のように映っているのではないか。そんな不安が頭をよぎる。


「……そっか。紗月、愛されすぎてパニックになってるだけなんだね。陽斗くん、紗月のこと、本当によろしくね」


 ——違う。

 助けて、と言おうとした。けれど、陽斗くんの視線が私の喉を物理的に押し潰しているような圧迫感を感じて、声が出なかった。

 美緒は、少し安心したような、それでいてどこか羨ましいとさえ思っているような顔をして、その場を去っていった。


 私は、たった一人の理解者さえも、彼の作り出す愛の物語に奪われていくのを感じていた。


 放課後の教室。

 私はわざと、クラスの誰よりも遅く帰り支度をした。陽斗くんが先に帰ってくれることを、淡い期待を込めて祈りながら。

 でも、昇降口を出たところで、夕陽を背負った彼が私を待っていた。

 まるで、私がいつ、どの扉から出てくるかをあらかじめ知っていたかのように。


「待たせちゃってごめんね、陽斗くん」


 皮肉を込めて言った。でも、彼はそれを真っ向から受け止めた。


「いいんだよ。紗月の顔を見られるなら、何時間でも待てる。それが僕の幸せだからね」


 私は彼と並んで、校門へと続く道を歩き出す。

 オレンジ色の夕陽が、私たちの影を長く不気味に引き伸ばしている。

 私は立ち止まった。もう、これ以上は耐えられない。


「あのね、陽斗くん。今日は……本当に、一人で帰らせて。お願い。ちょっと、頭を整理したいの。……あなたと一緒にいるのが、今は苦しいの」


 はっきりと言った。苦しいと。

 陽斗くんが足を止めた。

 夕闇の中で、彼の表情がゆっくりと崩れていく。悲しみに、ではない。

 それは、パズルの最後のピースがピタリとはまったときのような、歓喜に近い歪みだった。


「そっか。……つまり、帰りたくないってことだよね」


 一瞬、思考が停止した。

 何を言われたのか、理解するのに時間がかかった。


「え……? 違う、違うよ! 私はただ、一人の時間が欲しいって……!」


「言わなくてもわかっているよ、紗月。君が一人の時間が欲しいと言うときは、本当は今の関係を一歩進めるのが怖いという意味なんだろう?」


 陽斗くんが一歩、歩み寄ってくる。

 私は後ずさりし、校門の冷たい鉄柱に背中をぶつけた。


「違う……お願い、話を聞いて! 私、陽斗くんのこと、今は——」


「聞いてるよ、全身で。君の震える指先も、微かに潤んだ瞳も、すべて僕に愛を乞うている。……ねえ、紗月。素直にならないと、自分が一番辛いよ? 君は僕といたいんだ。帰りたくないんだ。僕の腕の中で、何もかも忘れてしまいたいんだ」


 大きな手が、私の両肩を掴む。

 万力のような、逃げられない力。けれど、私を見つめる彼の瞳は、驚くほど澄んでいて、濁りのない優しさに満ち満ちていた。

 そのギャップが、何よりも吐き気がするほど怖かった。


「……あ、あ……」


 私の唇は、もう言葉を紡ぐことを拒否した。

 何を言っても。

 どんなに叫んでも。

 私の言葉は彼の愛という巨大な胃袋に飲み込まれ、ドロドロに溶かされて、彼の栄養にしかならない。

 私の「NO」は彼の「YES」になり。

 私の「嫌い」は彼の「愛してる」になる。


「さあ、帰ろうか」


 陽斗くんは私の手を取り、歩き出した。

 私は、自分の足が自分のものでなくなったような感覚で、彼の後ろをついていく。

 夕陽に伸びる影。

 重なり合ったその影は、まるで一つの巨大な怪物が、小さな獲物を丸呑みにして歩いているように見えた。


 私は、悟ってしまった。

 この世界に、私の言葉を理解できる人間は、もう一人も残っていないのだ。

 私の世界は、彼という唯一の翻訳家によって、私自身の知らない言語へと書き換えられてしまった。


 絶望が、冷たい泥水のように、ゆっくりと私の心を満たしていった。



 視点が切り替わることで、世界の見え方が一変したかと思います。

 もし「ゾッとした」「この先が気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価(☆☆☆)をいただけますと執筆の励みになります!

 次回、第3章は明日の同時刻に更新予定です。

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