第1章 陽斗視点:僕は君のすべてを、正しく理解している
本作は全6エピソードの連作短編形式でお送りします。
まずは、ある「完璧な少年」の主観から物語を始めてみましょう。
「おはよう、紗月。今日も会えて嬉しいよ」
校門のすぐそば、いつもの定位置で僕は彼女を待っていた。
時計の針は、彼女が登校してくる正解の時間を刻んでいる。春の朝の空気は少し冷たいけれど、紗月の姿を見つけた瞬間、僕の体温は数度上がったような気がした。
彼女は僕の声を聞くと、びくりと肩を跳ねさせた。
その反応が、たまらなく愛おしい。僕という存在が、彼女の心にこれほどまで強い刺激を与えているという証拠だから。
「あ……陽斗くん。おはよう」
振り返った紗月の顔は、ひどく疲れているように見えた。
目の下にはうっすらとクマがあり、肌のつやもいつもより少しだけくすんでいる。
昨日、僕が送った五十通ほどのメッセージ——今日一日の彼女への感謝と、明日への期待を綴ったもの——に返信がなかったのは、きっとこのせいだ。
(ああ、やっぱりそうだったんだね)
僕は確信する。
彼女は昨夜、僕の言葉を一つひとつ読み返し、その重みに、その愛の深さに圧倒されてしまったのだ。僕のことを想い、僕との未来を想像するあまり、一睡もできなくなってしまった。
なんて健気で、感受性の強い子なんだろう。
「紗月、顔色が悪いよ。……そっか、昨日は僕のことを考えすぎて眠れなかったんだね。無理しちゃだめだよ、僕に甘えたいときは、言葉にしなくてもいいんだ。こうして僕がそばにいるだけで、君の心は癒やされているはずだから」
僕がそっと彼女の頬に触れようとすると、紗月はまるで電流に打たれたように一歩後ろに下がった。
視線は泳ぎ、唇は小刻みに震えている。
「あ……ごめん。ちょっと、寝不足で。あの、陽斗くん、その……連絡、あんなにたくさん……」
「わかっているよ」
僕は彼女の言葉を遮るように、優しく微笑んだ。
「嬉しかったんだろう? でも、どう返していいかわからなくて、パニックになっちゃったんだよね。言葉にできないほどの喜びは、時として人を沈黙させる。君の沈黙は、僕にとってどんな愛の言葉よりも雄弁だよ」
紗月は何かを言いかけて口をパクパクとさせたが、やがて諦めたように俯いた。
その仕草は、僕という大きな存在に身を委ねる服従のポーズにしか見えなかった。
教室に入っても、僕の意識のレーダーは常に紗月を捉えている。
一時間目の授業中も、彼女の後ろ姿を見つめるだけで、僕の心には幸福な音楽が流れる。
休み時間になると、紗月の周りに数人の女子生徒が集まってきた。
彼女たちは何やらひそひそと話し込み、時折、困惑したような、あるいは怯えたような視線を僕の方に向けてくる。
「……ねえ、本当に大丈夫?」
「ちょっと、異常じゃない……?」
そんな断片的な声が聞こえてくる。
普通の人なら、それを陰口や警戒と受け取るのかもしれない。
でも、僕の耳はもっと高度なフィルタリング機能を備えている。
(ふふ、みんな僕たちのことを噂してるんだ。僕がどれほど紗月を愛し、大切にしているか。それが教室全体に、羨望の的として伝わっているんだね)
紗月が友達に向かって、困ったように首を振っている。
それは自慢しすぎて嫌味にならないようにという、彼女なりの謙虚な気遣いなのだ。
彼女は僕という完璧な恋人を持っていることを、周囲に申し訳なく思っている。
なんて謙虚で、美しい魂の持ち主なんだ。
僕は彼女を安心させるために、遠くから優しく頷いてみせた。
すると紗月は、顔を真っ青にしてすぐに視線をノートに落とした。
照れているんだ。
僕と視線が合うだけで、彼女の心臓は破裂しそうなほど鼓動を速めているに違いない。
昼休み、紗月は弁当も持たずに、親友の美緒を連れて中庭の隅にあるベンチへと向かった。
僕はそれを見逃さない。
彼女が親友にだけ見せる顔、親友にだけ漏らす本音。
それもすべて把握してこそ、真の恋人だ。
僕は校舎の陰に身を潜め、二人の会話を観察することにした。
聞こえてくるのは、紗月の震える声。
「……美緒、私、もう限界かもしれない。陽斗くん、何を言っても話が通じないの。昨日も、夜中に何度も通知が鳴って……スマホを見るのが怖くて……」
美緒が心配そうに紗月の肩を抱いている。
「紗月……それ、やっぱり普通じゃないよ。一度、距離を置いたほうがいいって」
なるほど。
僕は心のノートに、今のやり取りを書き留める。
(紗月は、僕への愛が大きすぎることに戸惑っているんだ。
あまりにも完璧な幸福を前にして、自分にはもったいないと恐怖を感じている。そして美緒は、そんな彼女を励まそうとしているんだね。距離を置くというのは、つまり一度冷静になって、この幸せを受け入れる準備をしなさいというアドバイスだ)
美緒はいい友達だ。
紗月の臆病な性格をよく理解し、僕との仲がより強固になるように導いてくれている。
距離を置くなんて、逆説的な表現を使うあたり、なかなか知的なアドバイスじゃないか。
紗月が涙を拭い、美緒に縋り付いている。
あれは独占欲の裏返しだ。僕の愛を独り占めすることに罪悪感を感じて、泣いているんだ。
僕は胸が締め付けられるような感動を覚えた。
大丈夫だよ、紗月。君は、僕に愛される資格がある。
放課後。夕闇が迫る昇降口で、僕は再び彼女を待った。
他の生徒たちが次々と帰路に就く中、紗月は一番最後に、重い足取りで現れた。
僕の姿を見るなり、彼女の顔が引き攣る。
それは、最愛の人を前にしたときの緊張の極致だ。
「陽斗くん……まだ、いたんだ」
「当たり前じゃないか。君を一人で帰らせるなんて、僕にはできない」
僕は彼女の隣に並び、歩き出した。
紗月は僕から数センチでも離れようとするかのように、道の端の方を歩いている。
車道側を歩く僕を気遣って、自分から危険な端に寄ってくれるなんて。
「あのね、陽斗くん。今日は……本当に、一人で帰らせて。お願い。ちょっと、頭を整理したいの」
紗月の声は微かに震えていた。
その瞳には、必死な光が宿っている。
普通の男なら、ここで引き下がるのだろう。
「嫌われたのかな」と不安になり、彼女の言葉を額面通りに受け取って。
でも、僕は違う。
僕だけは、彼女の魂の叫びを正しく翻訳できる。
「そっか。……つまり、帰りたくないってことだよね」
僕は立ち止まり、彼女の目を見つめて言った。
紗月は絶句した。
信じられない、という表情をしている。自分の隠した本音を、これほどまでに正確に言い当てられるとは思っていなかったのだろう。
「えっ……? ち、違う、違うよ! 私はただ、一人の時間が欲しいって……」
「言わなくてもわかっているよ、紗月。君が一人の時間が欲しいと言うときは、本当は今の関係を一歩進めるのが怖いという意味なんだろう? 二人きりになると、僕への想いが溢れ出して、自分を保てなくなってしまう。だから、あえて突き放すようなことを言って、僕の愛を試しているんだ」
僕は一歩、彼女に歩み寄った。
紗月は後ずさりし、背中を冷たい校門の柱にぶつけた。
「違う……お願い、話を、話を聞いて……!」
「聞いてるよ、全身で。君の震える指先も、微かに潤んだ瞳も、すべて僕に愛を乞うている。……ねえ、紗月。素直にならないと、自分が一番辛いよ? 君は僕といたいんだ。帰りたくないんだ。僕の腕の中で、何もかも忘れてしまいたいんだ」
僕は彼女の肩を、逃げられないようにしっかりと掴んだ。
指先から、彼女の鼓動が伝わってくる。
速い。とても速い。
これは恐怖ではなく、高揚だ。
愛する者に追い詰められ、逃げ場を失った喜び。
「さあ、帰ろうか。僕たちの家に……あ、ごめん、まだ君の家だったね。でも、すぐに一緒の場所に帰るようになるよ。それが運命だから」
紗月はもう、何も言わなかった。
ただ、人形のように力なく首を垂れ、僕の後に続いて歩き出した。
夕陽が僕たちの影を長く引き伸ばしている。
二つの影は重なり合い、まるで一つの生き物のように見えた。
そう、これでいい。
君の意思なんて必要ないんだ。
僕が君の意思を、誰よりも正しく、美しく形にしてあげるから。
「大好きだよ、紗月」
僕の囁きに、彼女は応えない。
でも、僕には聞こえている。
彼女の心の奥底で、僕への狂おしいほどの愛の言葉が、何度も何度も繰り返されているのを。
読んでいただきありがとうございます。
……少し、彼の耳はおかしいのかもしれませんね。
30分後に、相手側の少女・紗月の視点である第2章を投稿します。
そこで、この物語の本当の姿が見えるはずです。




