決して偽物なんかではない幸せな結末
別に、苦ではないのよ。言葉遣いの訓練は特に念入りに行われたから。髪の毛だって……まあ少し煩わしいけれど、問題じゃないわ。
私が無理をしていないかなんて、そんな心配をするくらいなら、こんなことをしてまでもあなたに嫌われたくないと思っている私の恋心と、健気な努力を評価してほしいわ。ふふ、わかってて見上げてるのよ。あなた、私がこういうふうにすると、すごく切なそうな顔するんだから。
あら、もう大丈夫なの?じゃあ遠慮なく、男の子の私で話させてもらうわね。
さて……どう言ったらいいのかな。まあ、ここまでの流れでわかってくれたとは思うけれど、僕はナツキが好きだから、どんな手を使ってでもつなぎ留めておきたいんだ。重たくてごめんね。
でも、ナツキ――あなたが変えたんだよ、全部。多分、自分で思っているずっと前から。
ナツキは覚えていないと思っているかもしれないけど、僕はあなたと初めて会った時のこと、ちゃんと覚えているんだよ。
あの日、久々に外の世界を楽しんだ僕は、またこの鳥かごに帰るべく駅へ向かっていた。途中で、ライオンの鬣みたいなきらきらの金髪の子を追い越した。背は高かったけど、この子は女の子だとなんとなく思った。
定期を取り出して少しすると、突然呼び止められてね。振り返ったらその子が、僕のハンカチを持っていた。頬にけがをしていたらしいその子は、僕と目が合った途端に顔を赤くして、そして迷子みたいに心細そうな顔をしたんだ。どうしよう、これでいいのかな、って。そして、そっけなく僕にハンカチを差し出した。
僕はなぜか胸のあたりが温かくなった。
この子はきっとそういうことに慣れていないのに、僕にハンカチを渡そうと勇気を振り絞っている。それがひしひしと伝わってきたんだ。途端に、ぎゅっと抱きしめて大事にしてあげたいって気持ちがこみあげてきた。これでもかとなでくり回して、いい子だねって言ってあげたいって。全部我慢して、そのままハンカチを受け取ってお礼を言ったら、顔を真っ赤にしたまま泣きそうになってしまったけれどね。
本当はもっといろいろ話したかったけれど、時間がなくてすぐに駅に入った僕は、少し残念に思っていた。きっともう一生会えないと思っていたから。
――でも、その数年後に、その子が僕に会いに来てくれたんだ。
本当にうれしかった。僕は自分がいろんな人から好かれていないことは知っていたし、そんな強い気持ちになんて一生触れずに生きていくんだと思っていたから。入学式の後に会ったその子は、僕に会いたかったと言った。僕なんかに。自分でも気持ち悪いと思うんだけれど、あなたの言葉を思い出してにやけてしまうくらい、舞い上がっていたんだ。
それから時々見かけたあなたは、相変わらず不器用に好意を振りまいていた。あなたが誰かに好かれていくことが少し悔しくもあったけれど、あまりにもまっすぐ僕を見るから、僕は調子に乗ってしまいそうだった。ナツキに一番好かれているのは自分だと。
本当は、好きだとか嫌いだとか、そういう感覚はどんどん薄れていくはずだったんだ。でも、ナツキのことに関しては違っていた。今思うと、ウイルスのこともあるけれど、そのころからあなたは僕の中で特別だったのかもしれないね。
ナツキがいなかったら、受験期からずっと研究機関で実験と投薬を受ける日々が待っていたと思う。現に夏休みあたりからずっとそうで、学校祭前の僕に未来なんてものはなかった。感染者は増えていたし、僕も仕方がないと思っていた。
でも、二度と出られないと考えるたびに思い出すのは、ナツキのことばかりだった。あなたにどうしても伝えたかったんだ。僕がどれだけ救われたか、どれだけあなたから、いろいろなものをもらったか。
会えなくてもせめて、舞台上から叫んでやろうと思っていた。だから理人――桃井に無理を言って、最後のベルのシーンだけ台詞を考えさせてもらったんだ。
どうにかして体育館に来てほしいと伝えたかったけれど、例の実験やら練習やらで全然会えなかった。竹本に頼んでほしいと桃井に言ったら、桃井は事前に呼んだと笑っていたから安心していた。正直、ナツキの好意に胡坐をかいていた部分がかなりあると思う。あの時の僕は、あなたが絶対に来てくれると確信していたから。
でも、本番であなたは見つからなかった。直前まで客席を探し、本番中も合間合間で確認したのに、あなたはいない。僕は焦っていた。ずっと一緒に練習してきた竹本や桃井もそうだけれど、まさかあの真面目ないずみさんまで一枚かんでいるとは思わなかったしね。
それに、悔しいけれど、ナツキの演技は完璧だった。竹本じゃないなんて思いもしなかった。ダンスの時のフォローでちょっと驚いたけれどね。竹本はちょっと……なんて言うのかな、アドリブが得意じゃないんだ。ああ、知っているかもしれないけれど、理人と竹本とは付き合いが長くてね。小学生のころから、彼女の融通のきかなさは見てきているんだ。その点、あの時のナツキはすごかったな。助けてもらった僕が言えたことじゃないんだけど。
でも、最後はちゃんとわかったよ。
ナツキは、僕が泣きそうになっているのを見て、手を伸べてくれたね。話の流れからベルが涙してもおかしくはなかったし、台本にはそんな動きは書かれていなかった。勿論練習でもやっていないし、そもそも竹本はアドリブを入れたりしない。僕は考えた。ここに入っているのは竹本ではない。僕が本気で泣いていると気づき、かつ、なりふり構わず泣かせまいとしてくるような人物。僕には一人しか心当たりがなかった。
着ぐるみに入っているのはナツキだと思った。意識した途端に、頬に寄せられた手から例の甘い香りがほのかに感じられて、急に回路がつながったみたいに頭の奥がちかちかした。そして、絶対に逃がしてはならないと思った。
あとはまあ、知っての通りだよ。僕はあなたの顔が見たくて仕方がなかったんだ。正直、あの時の僕は全然冷静じゃなかったから、今でも思い出すのが恥ずかしいよ。あなたにも恥ずかしい思いをさせてしまったよね、本当にごめんなさい。でも正直、ちょっと役得だったかな。
ナツキ、あなたは頑張って僕を追いかけて来てくれて、その結果がこんな――あなたが望んだような結末ではなくて、がっかりしたかもしれない。
でも、僕にとっては本当に、これ以上ないような幸せなものなんだ。こんな奇跡が僕に訪れるなんて、一度も考えたことはなかった。でも、だからこそ不安でもあるんだ。あなたは、僕の手が届かないような場所でひたむきに頑張っていろんなものを手に入れて、いつかどこかへ行ってしまうかもしれない。それが僕には怖くてたまらない。
……思えばこんな感覚も、今までずっとなくしていた。誰か一人のために嬉しくなったり怖がったり、特別に何かをしてあげたいと思うなんて、初めてかもしれないんだ。
ナツキ、僕は、あなたのその真摯な想いを向けられるに値するような人間になりたい。その視線を僕にとどめておけるような人間に。今はあなたの心を閉じ込めておけなくても、いつかきっと。ふふ、あなたが僕の目をちゃんと見て話してくれるようになるのと、僕が認めてもらえるようになるのとでは、どちらが早いかな。ほらまたそんなに赤くなって。ねえ、顔を上げてよ、ここが一番いいところなんだから。お願いだからちゃんと僕のことを見て聞いて、ナツキ。ああ、もう。
いつか誰よりあなたにふさわしい僕が会いに行くまで、どうか、誰のものにもならないでください。
ナツキ、僕の、世界で一番かわいいひと。
これにて完結です。
お付き合いいただき、ありがとうございました!




